音もなく窓が開いた。
 風が姿をまとって舞い降りてきたかのように、白いものがふわりと入り込む。
 干して固くなった水草で編まれた絨毯に、軽く両足をつけて着地する。その足元に、黒い猫がまとわり着いた。

「観念されたようですね」
 若い声が言った。
 彼は苦笑した。
「観念してしまいました」
「すっきりしたお顔ですよ」
 言われて、顔を手で拭う。
「そうですか?」
「王子と約束を交わされたときのようです」
「……そうですか」

 執務室と扉一枚隔てた簡易の寝室。
 彼と、若い声の二人だけ。
 しばらく沈黙した。

「……あの方に申し訳ないことをしました。彼女の子孫を後宮にいれるなど……」
「しかたがありません。あそこが一番安全ですから」
「お詫びに行くべきなのでしょうが……」
「大丈夫ですよ。これから僕が向かいます。
 ちゃんと説明しないと、聖山が噴火しますからね」
 若い声は肩をすくめて見せた。

「僕もね、本気の恋が怖くて、逃げたことがあります」
 若い声が窓の外を見ながらポツリと言った。
「……あなたが、ですか?」
「そうです。僕だって逃げたくなるくらい、恋とは恐ろしいものです。
 でも、恋とは嬉しいものですよ。
 立入禁止地区まで追いかけてこられたら、観念するしかないでしょう」
 クスクスと、若い声が笑う。

「そういうものでしょうか」
「そういうものです。
 あなただって、自分らしくない台詞を口にされたでしょう? 人を変えてしまうくらい、恋とは恐ろしいものなんです」
 彼はかすかに、口元を緩めた。

「すぐに答えを出せとは言いません。
 少しずつ、恋してみてはいかがですか?」
 彼は苦笑して、そうですね、と答えた。





 執務室にはいったとき、窓辺に何かいるような気がした。目を凝らしてみたがカーテンが揺れるだけで、主も特に気にした様子がない。
 主は足元の黒猫を拾い上げて抱きかかえた。どこかで見たことがあると思ったら、フィーがレセリアナの見張りにと置いていった猫だ。
 いつの間にか見えなくなっていたと思ったら……隠れていたのだろうか。

 イルスはさっそく、レセリアナのために黒い魔導士の助力を求めた。主はそれもそうだとうなずいて、すぐに連絡をとってくれる。

「陛下。式のご予定は、来年を目処に段取りしてもよろしいでしょうか?」
「式?」
「結婚式です」
「…………。イルス」
「はい」
「しばらく待て」
「は?」
 イルスは首をかしげた。
 後宮を整備してまでレセリアナを選んだのに、いまさら何事だろうか。

「イルス。大切なことを言い忘れていた」
「はい、なんでしょうか」
「わたしは百年以上、恋人を持ったことがない」
「…………………………………………」
 それは驚きだ。

 驚きすぎて言葉がない。