「お願いです。
 僕の背に乗ってください!」

 カブトムシが言った。

 カブトムシが。
 しゃべった。
 日本語を。



 カブトムシって、手のひらに乗るくらいの昆虫で、牛ぐらいの背丈じゃないはずだ。
 カブトムシって、耳を近づけるとギチギチ言うけど、日本語をしゃべったなんて図鑑にも載ってなかったと思う。

 でもケンゴの目の前のカブトムシは世界的に間違ってるってくらいに大きくて、しゃべった。

「なんで?」
「お願いです!」
「いや、なんでさ」
「一生に一度のお願いです!」
 そんなことを言う人間ほど信用しちゃいけないって、じいちゃんが言ってたっけ。

「なに食ったらそんなになるわけ?」
「僕は樫の木が好きです!」
 幹ごとぼりぼり食ったんだな。



「お願いです。僕の背に乗ってください」
「なんで?」
「僕を助けると思って」
「だからなんでさ」
「あなたしかいないからです」

 わかりやすくありがとう。
 確かに今ここにはケンゴと無用にでかいカブトムシしかいない。
 ふたり……一人と一匹(一頭?)は家の屋根の上にいる。
 空には月どころか星さえ見えない夜空。

 そうか。今日って新月なんだ。
 狼男とかミイラ男とかろくろっ首とか、吸血鬼とか鬼○郎なんかは満月の夜に出るものだと思っていたから、デカ過ぎるカブトムシだって満月の夜に出るもんだろ。
 なんで今日は新月なんだ。

「乗ってもいいけど、なんで?」
「あなたしかいないからです」
 それはさっき聞いた。
「俺だっていう理由は?」
「あなたがケンゴさんだからです」
「俺は確かにケンゴだけど、世界に『ケンゴ』って名前の人、どれだけいると思ってんだよ」
「いいえ! あなただけです!」
 なんて情熱的な告白。



 …………じゃない。



「おまえの背に乗って何するわけ?」
「行きたいところはどこですか? 連れて行って差し上げます!」
「ベッド」
 即答したらカブトムシは硬直して、それからしくしくと泣いた。
 だって眠いんだよ、いいかげん。

 毎日毎日、勉強勉強。
 いくら受験生でもイヤになる。
 どんなにがんばっても上がらない成績は上がらないし、どんなに勉強しても受験に落ちれば無駄な努力をしたことになる。
 余計な知識が増えるだけだ。
 生意気で頭でっかちな男になるだけだ。



 夜も深け、田舎の空は真っ黒。
 田舎の人は早寝早起きだし、コンビニとかないし、街灯もちらほら。
 だから深夜は本当に真っ暗。
 まさに闇。

 そんななか、母の実家の屋根に超巨大カブトムシと一緒なんて。
 夢か?
 勉強のし過ぎだろうか。
 でも屋根に登ったのは覚えているから、夢ならケンゴは屋根の上に寝ているということだ。

 風邪を引いてしまう。受験生は体も大切にしないと。
「やべ。早く起きないと」
 ばあちゃんに怒られる。

 屋根から下りようとしたら、袖を掴まれた。
 いや、昆虫の腕のトゲがパジャマの袖に引っ掛けられた。
 怖い。
 マジ怖い。

「待ってください! お願いです!」
「わかった乗る!」
 あの昆虫のトゲトゲだらけの腕で縋りつかれるくらいなら、その背中に乗るくらいなんだ!
 『世界初! カブトムシに乗った少年』としてギネスブックに載るだけじゃないか。

 ゆっくりと近づいて、恐る恐るカブトムシに触ってみる。固い。
 恐々と跨る。……股間が冷たい。
 なんかイヤ。

「さぁ、行きましょう!」
「おー」
「まずどこに行きますか?」
「えー?」
 なんで俺に聞くのさ。



「日本海がいいですか? それともおもいきって死海とか。
 太平洋のど真ん中でもいいですよ。僕、レーダー付いてますから」
 なんで海ばっかりなんだろう。
 そしてレーダー搭載のカブトムシってどうよ。
 今ならキャッシュバック五万円とか?

「暑いのがイヤなら、北極なんてどうです?
 冷たいですよ!」
 寒さで凍え死ぬだろうが!

「テキトーに近所回って」
「…………」
 カブトムシはしくしくと泣いた。
 でも実際は涙の一滴もなく、口元をギチギチいわせただけだった。
 これだけデカイと噛みつかれて即死しそうだ。





 風が吹いた。
 体の中がぐるりと反転するような錯覚。

 飛んだ。
 カブトムシの背に乗って。
 田舎の夜空を、風を切って飛ぶ、飛ぶ、飛ぶ。

 頬にあたる風は冷たく心地良い。
 風が後ろに逆立ってなびくのがわかる。
 心臓を誰かが叩いているのか、どんどんと鳴る。

「どーでーすかー?」
「サイッコー!」
 ケンゴの言葉がうれしかったのか、カブトムシはアクロバット三回転をやってくれた。
 死ぬかと思った。

「スッゲー!
 隣町まで見えんじゃん!」
 山を越えた向こうに港町が見えた。
 冷たい光の密集は、ダイヤモンドの粉末をちりばめたようだ。
 その向こうには黒い広がり。おそらく海だろう。

「海よかいーじゃん!」
「でもケンゴさーん、海がー良かったんじゃーないでーすかー?」
「なーんでー?」
「だってー、海が良いーって、小さいーころー言いましたよー」
 どんだけ小さい頃だよ。
 ケンゴが覚えていないのだから、かなり昔のことだ。

「ってぇ、なんでーおめぇーが知ってんのー?」
「ケンゴさーん、言ったじゃーないですかー。
 僕にー、言ったじゃーないですーかー!」

『ゼッタイ、海まで飛ぶんだから!』

 視界がぐるりと反転した。



 あれは夏休み。
 母の実家に一人でいた。
 母は入院中の父に付き添って、家と病院の往復だった。

 いとこと、近所の子どもと遊んでいた。
 セミを探していて、いとこが地面の穴を指差した。
『ケンゴ、これ知ってぇか? セミの子どもがおるんぜぇ』
『知ってるよー。このまえテッちゃん言ったよ』
『そーやっけぇ? じゃー、この穴なーん……あ!』
 いとこの大声に、ほかの子も集まった。

『カブトムシじゃぁ』
『なまちょろいのう』
『死んじょおちゃぁか?』
 誰かが指で突いた。
 腐りかけたシイタケ色の物体は、手足かと思われる部分を震わせた。

『生きちょー!』
『生きちょーぜぇ』
『もう死ぬんちゃぁか?』
『ケンゴ診たれぇや。医者になるんじゃろぉ?』

 子どもは残酷だ。
 死を受け入れているようで理解していない。
 生きていくことに現実感をもてない。

『死なない!』
『ばぁかケンゴ、死にかけちょお』
『死なない! だってまだ動いてるよ!』

 俺はそのとき初めて、カブトムシの羽化直後を見た。
 グロテスクなのに生きているのが不思議で、細くて柔らかそうな足で幹にすがり付いている姿に、胸が火傷したように熱くなったのを覚えている。

『死なない!
 こいつはでっかくなって飛ぶんだから』
 子どもたちは笑った。
『飛ぶんだから!



 こいつはゼッタイ、海まで飛ぶんだから!』



 母の実家は山に囲まれていて、子どもたちは海を見たことがなかった。
 だから海まで行くことはとても勇敢で、名誉なことだった。

 俺はいじめられながらも主張を曲げず、その晩いとことスイカの種飛ばしで負け、主張を取り下げられて泣いた。



「あー!!」
「思い出してくれたんですね!」
「おー、お、思い出したけどー、なーんでこんなにデカーくなったんだー?」
 しかもしゃべるし。

「だって、こうしないとーケンゴさーんを乗せられないじゃーないですかー」
 だとしても常識って知ってるか?
 あ、カブトムシだから知らないか。

「ケンゴさーん!」
「なんだよー!」
「海でーす!」

 真っ黒。
 闇。
 どんどんどんどん近づく暗黒。

 煌き。
 小さな明かり。

 波だ。

 絶え間なく揺れる波がかすかな光を反射してキラキラと輝いている。
 手を伸ばせば黒真珠のネックレスが取れそうだ。

「やりましたよケンゴさーん!
 僕、やりましたよー!
 やりましたよ僕はー!」



 やったあああああ!!





「あ!」
 眩しい。
 なんて清々しい朝陽。

「あさ?」
 ケンゴは勢いよく起き上がり、布団を跳ね飛ばしてふすまを乱暴に開け、縁側に出た。
 庭で半裸の祖父がラジオ体操をしていた。

「夢か?」
 屋根から下りた記憶がない。
 けれど昨夜、空を飛んだ証拠もない。

「夢か」
 ため息をついて、右手を握りしめているのに気づく。
 開くと、何もなかった。
 どうやらガッツポーズの名残のようだ。

「…………」
「ケンゴ? どうしたんね?」
 祖母が起こしに来てくれたようだ。ケンゴの顔を見て、むぅ、と唸る。
「あんた生臭かよ」
「は?」
 くんくんとパジャマの匂いをかいでみる。
「…………しょっぱい」





 次はケンゴさんの番ですね





「え?」
 遠くから声がした。