夜の隙間を縫って彼は現れる。
 窓から。

 いつも窓から入ってくる。

 最初のうちは、階下に落ちやしないか、誰かに見られないかと心配していた。
 今はどうか?

 誰かに見られて夜這いに間違われやしないか心配だ。
 自分は妻一筋で、夜な夜な男を部屋に招き入れる趣味はない。



「軍師殿」
 呼び方は昔から変わらない。
「いいかげんそれはやめろ」
 彼から返る台詞も変わらない。

 国は落ち着きを取り戻し復興の道を着実に歩んでいる。
 緩んでいた国の体制も、戦後は新たな指導者を得て変わりつつある。
 その国王は跡取りにも恵まれ、人々はいっそう安堵した。

 変わらないのは彼だけだ。
 何の利益も求めず国を支え続けてくれる。
 誰にも知られずに。





 細い三日月の夜だった。
 彼が現れそうな月夜だ。

 気を使ってくれているのか、昼間や満月の前後は滅多に現れない。
 それでも毎回、窓から入ってくる。

「たまには玄関からお越し願えませんか?」
 堪り兼ねて訴えてみた。
「大騒ぎになって困るのはおまえだ」
 ぐう、と唸るしかなかった。

 見つかっても、彼は逃げてしまえばいい。
 逃げるに逃げられず、隠れることもできないのは自分のほうだと気づいた。

 彼は人々にとって思い出でしかないが、自分はまた明日とあいさつできる。





「軍師殿」
「うん?」
「あの剣はどうにかなりませんか?」
「どうって?」
「しゃべるのですよ。

 剣が」

 彼は沈黙した。
 もしかして知らなかったのだろうか。
 知らずに、害はないと言って自分に押し付けたのだろうか。

 それはあんまりだ。



 問題の剣は、ほかに人がいないときはおとなしい。
 が、一対一になるとなにやら騒ぎ出す。
 子どもの高い声がわんわんと響く。

 妻と過ごす夜ならよい。
 剣も静かにしている。

 しかし外泊の夜はひどい。
 一睡たりともさせてなるものかと言わんばかりに騒ぐ。

 誰かに言うわけにもいかず、いや、そんなことをすればたちまち良い医者を呼んでくれるだろう。



「一緒にしゃべってやればいい」
 剣に向かって語りかけろというのか。
 反抗期の子どもを抱えた男に、変人になれというのか。

 それはあんまりだ。

「知っていたのですか? あれがしゃべることを?」
「しゃべらないとは言わなかったな」
「…………っ」

 あぁ、神よ。
 影の救国者を呪いそうになりました。

「どうして言ってくださらなかったのです?」
「聞かれなかったから」
「普通の剣はしゃべりません。
 だから訊く必要もないはずです!」
「用心が足りなかったな」
「そんなところまで用心するものはおりません!」

 息を切らせて訴えても、彼は引き取る気はないようだ。
 だからといって捨てるわけにもいかず、ほかに譲ることもできない。



「話しかけてやればいい」

 その声は静かに耳の奥を震わせた。

「長いこと、話ができるものと会えないでいた。
 おまえみたいなのは久しぶりで、興奮しているんだ。
 一緒にしゃべってやればいい」

 彼は露台の手すりに座っているだけなのに、声は広間中を満たす王の声に似ていた。
 いや、我らが女王陛下の高い声に似ているのではなく、同じように耳の奥に響くものだった。



 抗議をしようと開いた口は何も言わず店じまいした。
 彼と同じく夜空を見上げ、瞬く星を観察する。
 星は沈黙を守り語り掛けてはこなかったが、興奮した胸を宥めてくれた。



「できれば、名前を付けて呼んでやってくれ」
 名前を?
 剣に?

「火は孤独を感じると戦火を呼ぶ。
 戦火は呼ばれると歓喜して狂喜にまで落ちる。
 そのまえに、止めてやってくれ」
「……あなたが……お止めになればいい」
 彼は笑った。
「俺は所有者にはなり得ない。
 剣は所有者にしか止められない。

 おまえが自分の意志でしか動かないように、剣を止められるのは今おまえしかいない」

 彼の言葉はときおり複雑になる。
 どんなに考えても解けない謎。

 彼のほとんどが謎だらけ。

 なぜ主に助力したのか、誰も知らない。
 なぜ今でも国に助言してくれるのか、未だにわからない。



 ───彼はわたしの手を引いてくれただけ

 彼に勲章を与えよと誰かが進言したとき、女王は否と答えた。

 彼に爵位を与えよと誰かが進言したとき、女王は否と答えた。


 彼には我が国の勲章も爵位も必要ない。
 我が国が在り続ける限り。
 わたしの意志が継がれる限り。

 彼には───




「……名前、ですか。
 わたしは命名が苦手なのです」
「気長に考えればいい」
 彼は露台の手すりに立ち上がる。
 もう帰るのだろう。

 名前を呼ばれる。
「はい」
「北から使者がくる。
 丁重に迎え、承諾しろ」
「は?」
「いつかそのつながりが大きな支えになる」

 彼は笑って、手すりから飛んだ。


 …………………………

 ………………

 ……


 着地の音もしない。
 暗闇に吸い込まれた彼の行方はわからない。

 深くため息をつく。
 この一言を告げるためだけに彼はやってきたのだろう。
 何の利益も求めずに。


 ……本当に?

 彼は本当に、何も求めなかっただろうか。
 誰にも気づかれずに手に入れたものはなかっただろうか。

 たとえば。
 羨望。
 賞賛の嵐。
 恩恵を受けようと群がる人々への優越感───。


 否。

 否、と言える。
 彼が求めたのはひとつだけだ。


 それは我らの女王陛下が、細い肩に甲冑を着せることを決意したときに受け取っただろう。

 すべての民に行き渡るだけの食べものと
 すべての民が凍えぬだけの毛布と
 すべての民の侵されぬ意志とを
 守らなければと思ったから


 その心。
 固い意志を彼は求めただろう。

 変わらずあり続けることを望むのだろう。


 できれば永遠に。



 そのために、彼はまた現れるだろう。
 繰り返される戦争と平和の隙間に、そっと手を差し伸べ続けるのだろう。





 夜空を見上げる。
 女王の意志を継ぐ一人として、自分の胸に手を当てる。


 彼に誠意を。
 そして感謝を───