台風が去って、瓦は無事だろうかと屋根を見上げたら、祖母が屋根の上で逆立ちしていた。
「ばあちゃん、危ないよ!」
呼び掛けると、真ん丸に見開かれて血走った目を向けられる。
「てつおー! てつおーー」
祖母はいつも息子と孫息子の名前を間違える。
「てつおー!
母ちゃんが屋根は押さえとくから!
おめぇは床柱しっかり支えてろー!」
恒例となって五年目なので、孫息子は冷静だ。
「ばあちゃん台風はいっちゃったよ!」
「なぁにー!?」
「台風はもう過ぎたって!」
それを知れば祖母は笑顔になって消えたはずなのに、今年は違った。
「てっ、てつおー!
た、た、たつおは無事かー!?
たつおは、たつおは生きとるかー!?」
ニューバージョンだ。
顔を真っ青にして祖母は叫んだ。
心配なら降りて来れば良いのに。たつおはここにいるじゃないか。
「ばああちゃーん!
たつおはここだよ!」
両手を振って叫んでみると、祖母は屋根の上から首だけ転げ落ちそうなくらい突き出して孫息子を眺めた。
「たっ、たつおー!
たつお無事かー!?」
「大丈夫だよ!」
「たつおー!
うっ、腕は、腕はついとるかー!!
取れとらんかー!?」
振って見せている手が見えないのか、しきりに祖母は腕、腕と叫ぶ。
「大丈夫だよばあちゃん!
ホラ、手はあるよ!」
「たつおー! たつおー!」
「ばあちゃん!?」
「たつおー! たつおおお!」
祖母はしきりに『たつお』を繰り返す。
次第に、祖母は自分を呼んでいるわけではないことに気付いた。
前に聞いたことがある。
友だちとスキーに行って手首を痛めて帰って来たとき。
病院で『軽いねんざだね。ニ・三日おとなしくしてなさい』と言われつつ湿布を巻いてもらっていると、
「た、たつおー!
たつおは生きとるかー!?」
祖母が看護士さんのバリケードを破って突進してきた。
「たつおー! 腕は、腕はついとるかー!?」
祖母はその後、医師の説明を聞いておとなしくなった。その間ずっと孫息子の腕を擦っていた。
不思議に思って父に聞くと、なんでも父の兄が、崩れてきた屋根の下敷きになって腕を切断され、亡くなったそうだ。
父の兄が子どものころに死んだのは聞いていたが、それが五才になった年の台風の日だとは知らなかった。
祖母はそれから、自分が家の外に出したからだと後悔して、台風が完全に過ぎたとわからないと次男を外には出さなかったし、孫息子に至っては、雨の日すら出してはもらえなかった。
祖母が屋根の上で逆立ちする理由も、床柱を押さえろという意味も深く考えたことはなかった。
孫息子を息子を勘違いしているだけと思っていた。
別に気にするほどのことじゃないと思っていた。
死んだ翌年から祖母が屋根の上で逆立ちするのは、それだけ世に未練があったんだと思っていた。
でも多分、それだけじゃない。
毎年、梅雨の最後を知らせる台風の日に限って出てくる祖母。
後悔と、無念と、不安が形になって屋根の上で逆立ちという姿ができた。
「たつおー! たつおー!」
もしあの時、長男を外に出さなければ。
「ごめんなー、たつおー! たつおー!」
もしあの日が台風が去った直後でなければ。
「かあちゃんがバカじゃから!
ごめんなー!
たつおー!」
もしあの屋根が落ちてこなければ。
「かあちゃんがバカじゃったー!
かあちゃんがバカじゃったー!」
もしあんな無惨に潰れた腕が自分のものであったなら……――。
「ごめんなー!」
考えても考えても『もし』しか出てこなくて、亡くした息子は戻らなかった。
だから祖母は死んでも死に切れず、毎年、梅雨の終わりを知らせる台風の日、息子の腕が取れないようにと屋根を押さえ、屋根が揺れないように床柱を押さえろという。
バカじゃった、バカじゃった、と繰り返す祖母。
こんなに何度も言われたら、こっちがバカみたいに思えてくる。
いや、実際バカだ。
だって、台風と聞くたびに騒ぎだす祖母が亡くなったとき、安心したんだ。
亡くなったはずの祖母が屋根の上にいるのを見て、笑ったんだ。
祖母はこんなにも一生懸命なのに。
何にも一所懸命になれないやつがその人の不在に安堵したり、その人の行動を笑っちゃいけない。
安心した自分が恥ずかしい。
笑った自分が恥ずかしい。
上を向いていないと、地面に穴を掘って入ってしまいそうだ。
ばあちゃん、と小さくつぶやいてみる。
顎をぐっとあげて叫ぶ。
「かあちゃん!」
「た、たつおー!」
「母ちゃん、ホラ!」
両腕を大きく振ってみせる。
祖母の目がぎょろんと大きくなる。
「腕、あるよ母ちゃん!
ちゃんと見てよ!
くっついてるよ!」
あなたの息子の腕は潰れてしまったけれど、孫息子の腕は無事です。
あなたのおかげで。
「大丈夫だよ母ちゃん!
もう大丈夫だから!」
あなたの息子は死んでしまったけれど、孫息子は生きています。
あなたのおかげで。
「ありがとな母ちゃん!」
あなたのおかげで、ここまで大きくなりました。
「ありがとな!」
翌年から祖母は、姿は現わすものの、器用に屋根の上で正座して台風が過ぎるのを待った。
梅雨明けを知らせる台風が過ぎ、孫息子が外に出て両腕を大きく振って見せると、霞んで消える。
それから何年か経って、孫息子は恋をして結婚して子どもができた。
老けた両親と妻と子どもと一緒に祖母のいる家で暮らした。
そして今年もまた、梅雨明けを知らせる台風が来た。
家の中にいても、祖母が目玉をぎょろんとさせて屋根を睨みつけているのが感じられた。
外が静かになって、子どもの小さな手を引いて外に出た。
屋根の上で正座をする老婆を、子どもはぽかんとした顔で見上げる。
祖母はこれまで以上に険しい顔で、初めて会うだろう子どもを見つめていた。
子どもを抱えて片手を振る。
父親を真似て、子どもが手を振った。
祖母が、にっこりと笑った。
孫息子とひ孫に、初めて手を振り返す。
にこにこと嬉しそうに。
ひらひらと手を振って。
祖母は、霞んで消えた。
「あ………………―――」
その年は、子どもが五才になった年だった。
それから、祖母の姿を屋根の上に見ることはなかった。
「ばあちゃん、危ないよ!」
呼び掛けると、真ん丸に見開かれて血走った目を向けられる。
「てつおー! てつおーー」
祖母はいつも息子と孫息子の名前を間違える。
「てつおー!
母ちゃんが屋根は押さえとくから!
おめぇは床柱しっかり支えてろー!」
恒例となって五年目なので、孫息子は冷静だ。
「ばあちゃん台風はいっちゃったよ!」
「なぁにー!?」
「台風はもう過ぎたって!」
それを知れば祖母は笑顔になって消えたはずなのに、今年は違った。
「てっ、てつおー!
た、た、たつおは無事かー!?
たつおは、たつおは生きとるかー!?」
ニューバージョンだ。
顔を真っ青にして祖母は叫んだ。
心配なら降りて来れば良いのに。たつおはここにいるじゃないか。
「ばああちゃーん!
たつおはここだよ!」
両手を振って叫んでみると、祖母は屋根の上から首だけ転げ落ちそうなくらい突き出して孫息子を眺めた。
「たっ、たつおー!
たつお無事かー!?」
「大丈夫だよ!」
「たつおー!
うっ、腕は、腕はついとるかー!!
取れとらんかー!?」
振って見せている手が見えないのか、しきりに祖母は腕、腕と叫ぶ。
「大丈夫だよばあちゃん!
ホラ、手はあるよ!」
「たつおー! たつおー!」
「ばあちゃん!?」
「たつおー! たつおおお!」
祖母はしきりに『たつお』を繰り返す。
次第に、祖母は自分を呼んでいるわけではないことに気付いた。
前に聞いたことがある。
友だちとスキーに行って手首を痛めて帰って来たとき。
病院で『軽いねんざだね。ニ・三日おとなしくしてなさい』と言われつつ湿布を巻いてもらっていると、
「た、たつおー!
たつおは生きとるかー!?」
祖母が看護士さんのバリケードを破って突進してきた。
「たつおー! 腕は、腕はついとるかー!?」
祖母はその後、医師の説明を聞いておとなしくなった。その間ずっと孫息子の腕を擦っていた。
不思議に思って父に聞くと、なんでも父の兄が、崩れてきた屋根の下敷きになって腕を切断され、亡くなったそうだ。
父の兄が子どものころに死んだのは聞いていたが、それが五才になった年の台風の日だとは知らなかった。
祖母はそれから、自分が家の外に出したからだと後悔して、台風が完全に過ぎたとわからないと次男を外には出さなかったし、孫息子に至っては、雨の日すら出してはもらえなかった。
祖母が屋根の上で逆立ちする理由も、床柱を押さえろという意味も深く考えたことはなかった。
孫息子を息子を勘違いしているだけと思っていた。
別に気にするほどのことじゃないと思っていた。
死んだ翌年から祖母が屋根の上で逆立ちするのは、それだけ世に未練があったんだと思っていた。
でも多分、それだけじゃない。
毎年、梅雨の最後を知らせる台風の日に限って出てくる祖母。
後悔と、無念と、不安が形になって屋根の上で逆立ちという姿ができた。
「たつおー! たつおー!」
もしあの時、長男を外に出さなければ。
「ごめんなー、たつおー! たつおー!」
もしあの日が台風が去った直後でなければ。
「かあちゃんがバカじゃから!
ごめんなー!
たつおー!」
もしあの屋根が落ちてこなければ。
「かあちゃんがバカじゃったー!
かあちゃんがバカじゃったー!」
もしあんな無惨に潰れた腕が自分のものであったなら……――。
「ごめんなー!」
考えても考えても『もし』しか出てこなくて、亡くした息子は戻らなかった。
だから祖母は死んでも死に切れず、毎年、梅雨の終わりを知らせる台風の日、息子の腕が取れないようにと屋根を押さえ、屋根が揺れないように床柱を押さえろという。
バカじゃった、バカじゃった、と繰り返す祖母。
こんなに何度も言われたら、こっちがバカみたいに思えてくる。
いや、実際バカだ。
だって、台風と聞くたびに騒ぎだす祖母が亡くなったとき、安心したんだ。
亡くなったはずの祖母が屋根の上にいるのを見て、笑ったんだ。
祖母はこんなにも一生懸命なのに。
何にも一所懸命になれないやつがその人の不在に安堵したり、その人の行動を笑っちゃいけない。
安心した自分が恥ずかしい。
笑った自分が恥ずかしい。
上を向いていないと、地面に穴を掘って入ってしまいそうだ。
ばあちゃん、と小さくつぶやいてみる。
顎をぐっとあげて叫ぶ。
「かあちゃん!」
「た、たつおー!」
「母ちゃん、ホラ!」
両腕を大きく振ってみせる。
祖母の目がぎょろんと大きくなる。
「腕、あるよ母ちゃん!
ちゃんと見てよ!
くっついてるよ!」
あなたの息子の腕は潰れてしまったけれど、孫息子の腕は無事です。
あなたのおかげで。
「大丈夫だよ母ちゃん!
もう大丈夫だから!」
あなたの息子は死んでしまったけれど、孫息子は生きています。
あなたのおかげで。
「ありがとな母ちゃん!」
あなたのおかげで、ここまで大きくなりました。
「ありがとな!」
翌年から祖母は、姿は現わすものの、器用に屋根の上で正座して台風が過ぎるのを待った。
梅雨明けを知らせる台風が過ぎ、孫息子が外に出て両腕を大きく振って見せると、霞んで消える。
それから何年か経って、孫息子は恋をして結婚して子どもができた。
老けた両親と妻と子どもと一緒に祖母のいる家で暮らした。
そして今年もまた、梅雨明けを知らせる台風が来た。
家の中にいても、祖母が目玉をぎょろんとさせて屋根を睨みつけているのが感じられた。
外が静かになって、子どもの小さな手を引いて外に出た。
屋根の上で正座をする老婆を、子どもはぽかんとした顔で見上げる。
祖母はこれまで以上に険しい顔で、初めて会うだろう子どもを見つめていた。
子どもを抱えて片手を振る。
父親を真似て、子どもが手を振った。
祖母が、にっこりと笑った。
孫息子とひ孫に、初めて手を振り返す。
にこにこと嬉しそうに。
ひらひらと手を振って。
祖母は、霞んで消えた。
「あ………………―――」
その年は、子どもが五才になった年だった。
それから、祖母の姿を屋根の上に見ることはなかった。