「あ。アンちゃん?」
 ドキリとして、アルパスは立ち止まった。



 深夜の寮内は静かだった。
 厚い扉の向こうでは寝息と寝返りの音しかないだろう。
 アルパスの歩く廊下も静かで、自身の足音以外は世界のすべての音が失われたようだ。

 声は、今アルパスが通り過ぎた曲がり角の向こうから聞こえた。
 振り返って待つと、すぐに男が現われた。
 知らない男だ。
 長身のアルパスよりも高い目線は笑っている。
 完璧に消された気配は低位の者ではない。もし低位者だとしても、足音を消して歩きはしないだろう。

 男は笑顔でアルパスに近付いた。
「こんばんは」
「……お会いしたことがありますか?」
「初めてだよ、会うのは」
「わたしをご存じなのですか?」
 うん、そうだよ、と男はうなずいた。

 何か噂の口に上るようなことをしただろうかと、アルパスは過去を振り返ってみるが……結構ある。
 中位試験に合格してすぐに大任を任されたとか、暴れん坊の面倒を押しつけられたとか、美しい導師の部屋に入り浸っていたとか。
 最初のは若い後継者を育てろといわれた師匠の判断で、次のも対処に困った師匠の判断で、最後のはよけいなお世話だ。美しい導師はアルパスの父と同期で、アルパスを娘のようにかわいがってくれているだけだ。
 けっして男女の付き合いはないし、それ以前に同性だ。お互いそちらの嗜好でもない。



「それで、わたしに何かご用ですか?」
「あ、ごめんね、引き止めて。急いでた?」
「……いいえ。このまま任務地に戻るところでしたので」
「あぁ、そうなんだ。良かったら送って行こうか? 同じ方向だし」
「え?」
 アルパスは首をかしげた。
 こんな人があの国にいただろうか? いたとしても首都ではないのだろう。
 それにアルパスはあまり城外にでないから尚更だ。

「あ。もしかして警戒してる?
 僕ね、サース国の東の森に薬草小屋があるんだ。騎士の丘のちょっと南に」
 このところ王子が乗馬で向かっている先だ。だが丘の南側は危険区域のはず。
「イバ導師に頼まれてね。王妃様が冷え性だから、定期的に薬草を摘みに行くんだ」
「……イバ導師といえば、サジェノ国の専導士を一人でお務めのはずです」
「もちろん、僕は任務外だよ。僕はただの薬士だからね。
 ただホラ、イバ導師てすっごいお年寄りでさ、でも派遣士は一人しかいないでしょ? 大変だから手伝えって、捕まっちゃったんだ」
「イバ導師のお弟子でしたか」
「残念。イバ導師と僕は直接の関係はないんだ。
 うちの師匠がね、イバ導師が本部にいらしたときの後輩なんだ」
 アルパスは安堵した。
 イバ導師といえば昔は組織の要として働いていたほどの人で、派遣をためらったアルパスに、師匠から紹介してもらった相談役でもある。北にもギー導師という先輩がいるが、絡まれそうで近付けない。



 改めて男を見ると、不思議なことに気付いた。
 法衣を着ていない。階位を表わすものを一つも身に付けていない。

 アルパスがそれに気付いたのに気付いたのか、男は手を肩に当てた。
 階位を見せられない立場の者が取る仕草。
 外套で隠されたそこに、男の階位が隠されているのだろう。

 嫌な予感に、尋ねずにはいられなかった。
「父に……何か、あったのですか?」
 真剣なアルパスに対して、男は笑った。
「お父上はお元気だよ。今、現大師に報告にあがっている。
 今ごろ二人して眉間にシワでも寄せてるさ」
 本当に彼は父と同僚らしい。
 父が直師としての報告に上がる時必ず眉間にシワが寄ることを知っているのは、報告を受ける大魔導師と、同僚と娘のアルパスだけだ。

 こんなに若くて気さくな人があの父と同僚だとは意外だが、この話題を出されては疑えない。



 移動魔法のために用意された場所に行こうと、男に言われて歩きだす。
「こんな近くに、父と同僚の方がいらっしゃるとは存じませんでした」
「いたりいなかったりだしね。
 ここんとこ特にヒドクてさ、家に帰るのも久しぶりなんだよ」
 彼はおどけて嘆いて見せた。
 アルパスは笑った。
「あ」
「え?」
「ホントだ」
「何がですか?」
「セッちゃんのいう通りだ」
「セッちゃん?」
「セサスだよ。同僚でしょ?」
「セサ、ス……?」

 セサスとは、確かにアルパスの相棒だ。二年近く一緒の任務を務めてきた。
 アルパスは城からめったに出ないが、対して相棒は城にはいつかない。アルパスの知らない知人ができるだろうし、あるいは直師を務めることもできるかもしれない。余裕があれば。

 立ち止まって黙り込んだアルパスの顔を、男が覗き込んだ。
 口元に指を当てる。
「セッちゃんには僕のこと内緒ね。僕がこんなことしてるの知らないんだ」
「え? じゃあ……」
 二人の接点がさらにわからなくなった。
「アンちゃんとは入れ違いだったんだよね。僕が院を出てすぐに、アンちゃんが入ったんだよ」

 アルパスはポカンと口を開けて、それから失礼にも先輩を指差した。
「厨房の……」
「あ。そうそう。そんな呼ばれ方してたなぁ」
 男は懐かしそうに目を細めた。

 アルパスの相棒がまだ育ち盛りの少年だった頃、相棒と仲の良かった先輩が院を出てしまったために相棒は豪快に泣き、遠慮なく強風を起こした。
 押さえ役に選ばれたアルパスがどれだけ迷惑したことか。今は笑い話で済むが、当時のアルパスは荒れまくったものだ。

 その原因が今、目の前にいる。
 その人は父と同僚で、アルパスたちの任務地の隣国にいる……。



「ふっ……あはははははは」
 重ねられた偶然に、アルパスは笑うしかなかった。
 男も一緒に笑い出すと、扉が開いて修業生たちが顔を出し、遠慮がちに苦情を訴える。
 二人は笑いを堪えながら足早に廊下を歩き、寮から出て建物が見えなくなるまで歩いた。
 白い息を吐きながら、そこでまた、ひとしきり笑った。

 気が済むまで笑うと、男はアルパスの顔を覗き込んで納得顔でうなずいた。
「ホント、セッちゃんの言った通りだ」
 そういえば、さっきもそんなことを言われた気がする。
「何がですか?」
「セッちゃんがね……」

『俺の相棒はさ、いつもは真面目な顔して怖いのに、笑うとキレイな顔になるんだ』

「って言ってね……アンちゃん?」
「え?」
「大丈夫? 顔、赤いよ」
 男は笑いながら言った。アルパスの顔が赤い理由を知っているのだ。
 月明りから顔を逸らしても男の視線を感じて、アルパスはうつむいた。

 ごめんね、と男は言った。
 からかわれたのかもしれない。相棒があんなことを言ったなんて、嘘なのかもしれない。

「送っていくよ」
 アルパスといえど一人で移動魔法は使えない。恥ずかしくとも、この男に頼るしかない。
「……お願いします」



 月明りの道。
 背を見せて歩く男の背を追うアルパスは、自分が吐き出す息の白さを眺めながら歩いた。
 男がつぶやく。
「僕の意見とし…………な」
「え?」
 あげた視線の先、男が、少し遅れていたアルパスを振り返って待っている。
「どちらかというと僕は、『かわいい』と思うよ、アリーのこと」
「……え…………?」

 迂闊にも、顔を隠すことも視線を逸らすこともできなかった。
 男はそんなアルパスを見て、顎に手を当てつつ言った。
「意外と押しに弱いね、アンちゃん」
「…………」



 何も言えずうつむいたアルパスの手を取って、男は半歩先を歩き出す。

 意外にも、男の手は冷たくて、心地よかった。