外灯に照らされた道を歩いていた。

 荷物はリュックサックひとつ。
 靴は途中で水溜まりにはまって湿ったままだ。


 夜の街路は長く狭く心細い。
 こんなところで声をかけられたらたちまち泣き出してしまいそうだ。
 たとえばこんなふうに。
「どうした坊や?」


「ぼっ、ぼうやじゃないもん!」
 おや、と高いところから声がした。

「お嬢ちゃんだったのか。
 ごめんよ」
 見上げてみると、ずっと高いところで目玉がきょろりと動いた。





「……でんちゅーってしゃべるの?」
「ときどきね」
 真ん丸の目でウィンクした電信柱は、厚い唇を尖らせてちゅちゅちゅっと鳴いた。
 まるで雀に似た声で。

「どこへ行くんだい、お嬢ちゃん?」
「…………ママのとこ」
「ママはお家にいるんじゃないのかい?」
「ママはびょーいんにいるの。
 よしくんと」
「ヨシクン?」

「よしくんはね、よしとっていうの。
 このまえ会ったよ」
「また会いに行くんだね」
「うん。だってね、ママのパンじゃないとね、いつもこげるんだよ。
 あとね、牛にゅうをあたためるときはね、いっつもおナベからこぼれるの」
「そうかい」

 電信柱はうなづくように相槌をいれた。
 実際には目を細めて笑っただけだが。
 本当に首(らしき部分)をうなづかせれば、電線でつながった隣りの電信柱もうなづいてしまったことだろう。
 幸い、眠っているのか黙ったままの電信柱たちは起き出す様子もない。


「お嬢ちゃんは、一人でママたちのところに行くのかい?」
「そうよ。みんな寝てるもん。
 こっそりきたの」
「お家の人は心配しないかな?」
「寝てるもん」
「朝になったら起きてしまうよ?」
「しらない。
 一人でまっくろパン食べちゃえばいい!」

「………………」
「………………」

 電信柱はぺろりと唇を舐めた。
「泣いているのかい?」
「泣いてないもん!」
「だったら顔をお拭き」

 リュックサックを肩から下ろし、ハンカチを探す。
 ティッシュもない。

「ハンカチ。……ハンカチは?
 どこ、ハンカチ?
 ママがいつも、ママがここにいれてくれるのに」
 飴玉が入っているはずの袋は空っぽで、電話番号の書かれたメモ紙が地面に落ちる。
 慌てて拾おうとしたが風が吹いて、メモ紙は排水溝の隙間にさらわれた。





「っ…………ママぁ」
「泣いちゃだめだよ」
 誰の制止も利くものか。
 涙は自分勝手に流れ出す。

 弟ができた喜びも、お姉ちゃんと呼ばれる嬉しさも、誰かが勝手に持ち去る。
 父親と二人の家は窮屈で、一人でいるには広すぎる。

 もう少し、もうすぐと言われるたびに不安になる。

 二度と母と会えなくなるのではないか。

 弟と会ったことは夢だったのかもしれない。

 この先ずっと、父親の焼く焦げたパンを食べなければならないのではないか―――。


「ママぁあ……」

「よしこ!」


 呼び声に驚いて涙がせき止められる。
 恐る恐る振り替えると、近付いて来る黒い影を見つけた。
 それはどんどん近付き、男の姿になる。



 パジャマにカーディガンを羽織った男は、駆け寄って抱き締めてくる。
「どこ行ってたんだ、バカ」
「…………」
「ケガしてないか?」
「…………」
「よしこ? どうした?
 転んだのか?」

 男の腕から逃げようと腕を突っ張る。
「よしこ?」
「パパじゃないもん!
 おじさんはパパじゃないからダメなの。
 よしこって呼んでいいのはパパだけなの。
 呼んじゃダメなの!」

 男の腕はするりとほどけた。





「よし……帰ろう」
「……いや。ママのとこ行く」
「ママは寝てるよ」
「ママといっしょにねる」
「…………。お家に帰ろう」
「いや」
「もう遅いから」
「おそくないもん。
 まだまに合うもん」



 男は動かなかった。
 そのうち諦めるだろうと思っていたが、なかなか折れそうにない。

「まだ……間に合う、か……」
 男は目の前にいるのに、その目は遠くを見ていた。

「まだ間に合うかな、よしこちゃん」
「?」
「お……おじさんは、よしこちゃんのパパになれるかな?」
「おじさんはよっちゃんのパパじゃない。
 よっちゃんのパパは天国にいるのよ。
 パパはおじさんじゃないもん」

 男は首の後ろをかいた。
 鼻の上で指が空をかいて、メガネを忘れたことを思い出させる。

「おじさん……おじさんは、よしこちゃんのお父さんになれるかな?」
「おとうさん?」

「よしこちゃんのパパは天国にいる。
 だからお家に、お父さんがいたらダメかな」
「お家にだけ?」
「……たまには、公園に一緒に行こう」
「ママも?」
「ママとよしと君と、四人で」

 大きな手が差し出される。
 少し震えていたかもしれない。


 大人なのに、何かを怖がるなんて。
 パパならお化けもゴキブリもやっつけたのに―――。
 怖くて、だから一人で家にいられずに追いかけて来たのだろうか。

「こわいの?
 泣いちゃだめだよ」

 大きな手を両手で握りしめる。
 少し汗ばんでいるのに、やはり震えていた。

「大丈夫。
 よっちゃんがいてあげるからね」

 父は肩を震わせ、顔をくしゃくしゃにした。
 おかしな顔だと思った。

「おとうさん、ヘンな顔」
 父の涙は止まらなかった。

 こんな泣き虫で怖がり屋のお父さんには、自分がいてあげなければと思った。





 長く狭く心細い夜の街路。
 ぽつりぽつりと灯る外灯で斑に染まる夜闇。

 手をつないで二人、帰路に着く。
 闇と灯が交互に続く道の先にある我が家を目指して歩きだす。

 いくつかの電信柱に見送られる。
 その額から生える外灯が二人を照らし、離れる。
 通り過ぎる。


 合わさる手が少し汗ばんだ。
 それでも手を放さない。

 もう、迷子にならないように。

 繋いだ手は離れない。