物音で目が覚めた。

 体は疲れて休息を求めているのに、小さな物音でも目が覚めるようになった。
 いつから自分は、こんな臆病になったのだろう。


 のろのろと体を起こして、階下まで降りる。
 風の音だったのかもしれない。
 台所にはいって、冷蔵庫で冷やされたミネラルウォーターを一気飲みする。
 鼻から冷気が出そうだ。


 時計は午前一時少し前。
 あと五時間は寝れる。


 部屋に戻る途中でそれに気付いた。

 恐らくそれが目が覚めた原因。
 音の名残。


 娘の部屋の扉が少し開いていた。

 中はもぬけの空だった。





 足にスニーカーを引っ掛けて家の外に飛び出す。

 深夜。
 大声どころか足音をたてることすら憚られるような静寂。

 延々と続く夜の街路は長く狭く心細い。
 こんなところで声をかけられたら悲鳴をあげて逃げ出してしまいそうだ。
 たとえばこんなふうに。
「どうした坊や?」


「ぼっ、ぼうや!?」
 何事かと見上げてみると、ずっと高いところで白い光が……目玉がきょろりと動いた。
 目玉が……。





「……なんで電柱に…………?」
 灰色の長身。
 下から二メートルほどのところに唇。
 その上にツンと尖った鼻と高い頬が続く。
 丸い瞳は大量のまつ毛に縁取られ、額のあたりで光る外灯が深い彫りを強調していた。

「きもっ」
「失礼だね」
 真ん丸の目でウィンクした電信柱は、厚い下唇を尖らせて「んむーっぬ」と鳴いた。
 恐ろしさが増した。

「どこへ行くんだい、坊や?」
「……よ……む、娘を探してるんだ」
 何を真面目に答えているのだろう。
 相手は電信柱だというのに。

「はぐれたのかい?」
「家で寝てたはずなのに、物音がして、見たらいなかった」
「厠かもしれない」
 厠なんて聞くことすら久しぶりで、一瞬何のことなのかわからなかった。

「玄関に靴がなかった。
 妻が病院にいるんだ。
 昼間、行くって聞かなかったから……」
 子供一人で行き着ける距離ではない。
 しかも深夜。
 子供にとっての夜は暗く静かかもしれないが、すべての人間にとってそうであることはない。



「子供を見なかったか?
 女の子だ。
 髪は肩くらいで、右耳の下にほくろがある。

 パジャマだったら、黄色だ。
 白いボタンが三つか、四つ。
 裾が波打ってるやつ。

 靴は白に赤っぽいラインがはいっ

 ……て。
 …………な、なんだよ」
「よく見ているんだね」
「あ……当たり前だろ。娘なんだから」


 うふふふふ。
 電信柱が笑った。
「何がそんなに怖いんだい?」
「怖い?
 怖がってるのはよしこだ。オレじゃない」

「それならどうして、そんなに怯えているんだい?
 坊やが娘さんを本当に心配しているなら大丈夫。きっと会えるよ」
「……心配、してなかったら?」
「それはまさに孤独な電信柱さ。

 わたしたちは仲間と寄り添うことはない。
 ただこの電線でつながっているだけ。
 風が吹けば揺れ、刃物を当てれば切れてしまう、この黒い線だけがわたしたちの絆さ。

 人間はかわいそうだね。
 絆が目に見えない。

 人間はいいね。
 羨ましいよ」
「え?」
「ごらん」
 スポットライトのように、電信柱のひたいの外灯が手元を照らす。

「触れ合える手がある」




 遠くで女の子の声がした。