それに気づいたのは三日前だった。
大きな砂蚯蚓を何とか追撃したものの、水袋に小さな穴が空いた。
応急処置はしたものの、水はすでに半分になっていた。
次の町まであと一日。
早くても明日の午後。
今日はもう、一滴の水も口にしていない。
明日になる前に砂に埋もれてしまいそうだった。
霞む視界をどうにかこらし、前を見つめる。
足は重い。叱咤しながら前に前に出すしかない。
必要最低限のはずの荷物が必要以上に重く感じられる。
たまらず、小さな小袋ひとつ残して、あとはすべて捨ててしまった。
これだけはどうしても持ち帰りたかったから。
視界が次第に赤くなる。
目に痛いほどだった白い陽射しが赤く染まり、頬をちりちりと焼いた。
チカリ。
何かが目を射った。
眩暈がして膝が崩れる。
砂に体が飲み込まれる。このまま底まで沈んでいきそうだ。
前に進みたい。
進んで帰り着きたい。
帰り着き、家に戻りたい。
戻ったらまず……。
ぱちり、と何かが爆ぜた。
左の頬が熱い。
視線をめぐらすと、赤々と燃える焚き火があった。
その向こうに人影らしき者が、揺らめく炎に赤く照らされている。
「気づいたか」
低い少女の声だった。
声を出そうとして、喉が張り付いたように出なかった。
少女が小さな器に水を入れて差し出した。
ゆっくりと噛みしめるように飲む。
乾いた胃袋に甘露が染み込む。
「ここは?」
「湖だ」
「みずうみ?」
「大きな水たまりだ」
少女が指差した方向には、月光にも輝かない黒い広がりがあった。
まるで砂を飲み込んで拡大していきそうなほどの暗闇だった。
「もう少し眠って、日が昇る前に出るといい」
「助かった。
礼を言う」
うむ、と少女はうなずいた。
そのうなずくあごに押し込まれるようにまぶたが降りた。
ざわざわと音がする。
まぶたが重い。まつげがバリバリと音を立てそうだ。
「あーりゃ!」
「閣下やー!」
「閣下だーや!!」
声が近づいてきた。
ゆっくりと体を起こすと、懐かしい顔ぶれが周囲を取り囲んだところだった。
「閣下ぁ。
どうしたんだや?」
「ここで寝てたんや?」
「そらいかんや」
全身を布で覆った男たちに抱え上げられるように連れ去られ、天幕の中に収容される。
ひんやりとした空気が心地良い。
何種類もの香料と乾いた薬草のにおいが混じって、鼻の奥から懐かしい記憶を引っ張り出す。
「おんや。
閣下。おいでなさいましや。
今日お越しとは知らず、驚きましたや」
前歯の二本だけになった長老は肺病者のような笑い声を上げた。
「いや、助かった。
昨日の夜、村の少女に助けられたのだ。
名は聞かなかったが……」
ふと、そこでおかしなことに気づいた。
村は夜になると、男たちがぐるりと周囲を取り囲んで見張り番をする。
誰一人とも、彼らの目をすり抜けずには入ることはできない。
だから長老が驚いているといっているのだ。
「いったい……」
ほほぉ、と長老は笑った。
「主様にお会いになられましたや」
「主さま、に?」
「そうや。
そうでもないと、閣下がどうやってここに入られたんや。
閣下がお気に召されたようで、よかったや」
祭壇には丸い石がひとつあるだけだった。
その隣に小さな種を置いた。
周囲に誰もいないことを確認する。
「昨夜は、助かりました。
これは花の種です。
お納めください」
深々と礼をして視線を花の種に戻したとき、瞬きを忘れた。
目を擦ってもう一度よく確かめたとき、やはり先ほどの、種から新芽が出ていたのは気のせいだったのだと思うことにした。
広大な砂漠の中にある一番大きなオアシス。
その貴重な水のために争っていた最中、一人の少女が水の中から現れた。
『そんなに欲しいのならばくれてやる』
空から火傷するほどの熱湯が降り注ぎ、争っていた者たちの大半が熱さで死に絶えた。
少女が屍の原を見渡していると、一人の男が手の平に熱湯を受け止めていた。
男の皮膚も爛れていた。
『じきにおまえも死ぬ。
水はもう飲めん』
『これは妻たちの分だ。
冷ませば飲めるだろう』
手の平から最後の湯気が立ち上がったとき、男の呼吸も絶えた。
「主様はのう」
「うおっ!」
脇道から突然長老が現れた。
おやつの果物をひとつ、手渡される。
「大きな荷物を抱えるものには、それだけの力があるから抱えているのだと思うておられるや。
小さな荷物を抱えるものには、それ以上のものはない。
それが最後の望みなのだと思うておられるや。
ワシは閣下に、言ったのや。
迷うたら、捨てなされや。
最後の一つを残して、と───……」
振り返って祭壇を見たとき、その隣に誰かが立っているような気がした。
少女は興味深げに小さな種を見つめている。
隣に立つ長老に何も言わず、男はもう一度、心の中で感謝した。
大きな砂蚯蚓を何とか追撃したものの、水袋に小さな穴が空いた。
応急処置はしたものの、水はすでに半分になっていた。
次の町まであと一日。
早くても明日の午後。
今日はもう、一滴の水も口にしていない。
明日になる前に砂に埋もれてしまいそうだった。
霞む視界をどうにかこらし、前を見つめる。
足は重い。叱咤しながら前に前に出すしかない。
必要最低限のはずの荷物が必要以上に重く感じられる。
たまらず、小さな小袋ひとつ残して、あとはすべて捨ててしまった。
これだけはどうしても持ち帰りたかったから。
視界が次第に赤くなる。
目に痛いほどだった白い陽射しが赤く染まり、頬をちりちりと焼いた。
チカリ。
何かが目を射った。
眩暈がして膝が崩れる。
砂に体が飲み込まれる。このまま底まで沈んでいきそうだ。
前に進みたい。
進んで帰り着きたい。
帰り着き、家に戻りたい。
戻ったらまず……。
ぱちり、と何かが爆ぜた。
左の頬が熱い。
視線をめぐらすと、赤々と燃える焚き火があった。
その向こうに人影らしき者が、揺らめく炎に赤く照らされている。
「気づいたか」
低い少女の声だった。
声を出そうとして、喉が張り付いたように出なかった。
少女が小さな器に水を入れて差し出した。
ゆっくりと噛みしめるように飲む。
乾いた胃袋に甘露が染み込む。
「ここは?」
「湖だ」
「みずうみ?」
「大きな水たまりだ」
少女が指差した方向には、月光にも輝かない黒い広がりがあった。
まるで砂を飲み込んで拡大していきそうなほどの暗闇だった。
「もう少し眠って、日が昇る前に出るといい」
「助かった。
礼を言う」
うむ、と少女はうなずいた。
そのうなずくあごに押し込まれるようにまぶたが降りた。
ざわざわと音がする。
まぶたが重い。まつげがバリバリと音を立てそうだ。
「あーりゃ!」
「閣下やー!」
「閣下だーや!!」
声が近づいてきた。
ゆっくりと体を起こすと、懐かしい顔ぶれが周囲を取り囲んだところだった。
「閣下ぁ。
どうしたんだや?」
「ここで寝てたんや?」
「そらいかんや」
全身を布で覆った男たちに抱え上げられるように連れ去られ、天幕の中に収容される。
ひんやりとした空気が心地良い。
何種類もの香料と乾いた薬草のにおいが混じって、鼻の奥から懐かしい記憶を引っ張り出す。
「おんや。
閣下。おいでなさいましや。
今日お越しとは知らず、驚きましたや」
前歯の二本だけになった長老は肺病者のような笑い声を上げた。
「いや、助かった。
昨日の夜、村の少女に助けられたのだ。
名は聞かなかったが……」
ふと、そこでおかしなことに気づいた。
村は夜になると、男たちがぐるりと周囲を取り囲んで見張り番をする。
誰一人とも、彼らの目をすり抜けずには入ることはできない。
だから長老が驚いているといっているのだ。
「いったい……」
ほほぉ、と長老は笑った。
「主様にお会いになられましたや」
「主さま、に?」
「そうや。
そうでもないと、閣下がどうやってここに入られたんや。
閣下がお気に召されたようで、よかったや」
祭壇には丸い石がひとつあるだけだった。
その隣に小さな種を置いた。
周囲に誰もいないことを確認する。
「昨夜は、助かりました。
これは花の種です。
お納めください」
深々と礼をして視線を花の種に戻したとき、瞬きを忘れた。
目を擦ってもう一度よく確かめたとき、やはり先ほどの、種から新芽が出ていたのは気のせいだったのだと思うことにした。
広大な砂漠の中にある一番大きなオアシス。
その貴重な水のために争っていた最中、一人の少女が水の中から現れた。
『そんなに欲しいのならばくれてやる』
空から火傷するほどの熱湯が降り注ぎ、争っていた者たちの大半が熱さで死に絶えた。
少女が屍の原を見渡していると、一人の男が手の平に熱湯を受け止めていた。
男の皮膚も爛れていた。
『じきにおまえも死ぬ。
水はもう飲めん』
『これは妻たちの分だ。
冷ませば飲めるだろう』
手の平から最後の湯気が立ち上がったとき、男の呼吸も絶えた。
「主様はのう」
「うおっ!」
脇道から突然長老が現れた。
おやつの果物をひとつ、手渡される。
「大きな荷物を抱えるものには、それだけの力があるから抱えているのだと思うておられるや。
小さな荷物を抱えるものには、それ以上のものはない。
それが最後の望みなのだと思うておられるや。
ワシは閣下に、言ったのや。
迷うたら、捨てなされや。
最後の一つを残して、と───……」
振り返って祭壇を見たとき、その隣に誰かが立っているような気がした。
少女は興味深げに小さな種を見つめている。
隣に立つ長老に何も言わず、男はもう一度、心の中で感謝した。