その日から、彼はユーリー・ラグナトロフと呼ばれた。



「なんでだ」
 夢かもしれない。
 目の前に自分の親だと名乗る老夫婦がいる。

「さぁ、ユーリ。
 顔をよく見せてちょうだい」
 老婦人の手がユーリーの頬に伸びる。
 シワが多いのにふっくらとしている。

「大きくなって…」
 老婦人の向こうで老紳士が目を潤ませていた。


 柔らかいパンと温かいスープと分厚い焼き肉。
 やはり夢かもしれないと、ユーリーは湯気のたつスープを冷まさず口にする。
「あちっ」
 熱い夢なんて初めてだ。



 浴槽は水溜まりより広く、たっぷりの湯はもうもうと湯気を立たせている。
 怖々と差し入れた指が火傷しそうで文句を言ったら、女たちが慌てて水を足す。

 熱すぎる湯の大半が捨てられた。
 女たちは平然とやり捨てた。



 無駄に広い寝台のどこで寝ようか考え、紅茶とココアとミルクとハーブティーとほかに何がいいのか聞かれて水を飲み、寝た。



 翌朝は小さなノックの音で起こされ、きれいな水で顔を洗い、歯を磨き、きれいな服を着て部屋から連れ出される。

 大きな扉をくぐると、昨夜と同じ食卓に一人増えていた。
 ユーリーが怒鳴る前にその男は言った。

「やぁ弟よ。
 素晴らしい朝だ。

 見てごらん、このリンゴの艶、卵の白さ、パンが放つ香ばしい香り、ベーコンの歯ごたえ、レタスの青さ。

 おまえが望んでいた贅沢な朝だ」

 苦い水が喉を通ったようだった。
 歯を噛みしめると一層苦さが増す。



「ウソだ」
「なぜ?」

「こんなもん贅沢なわけあるか!
 オレ欲しかったのこんなんじゃない!」
「いいや。
 温かい寝床ときれいな服とたくさんの食べ物をおまえは望んだ」

「違う!」
「違わない」
「違う!」
「ではどこが違う?」
「ちが…え?」

「おまえの理想とどこが違うと言うのだ?」

 コツン、とテーブルが小突かれる。

「おまえは言った。
 毎日美味いものを腹いっぱい食べたい。
 毎日暖かいベッドで寝たい。
 いつもきれいな服を着たい」

 コツン

「おまえはそれ以上に何を望む?」

 コツン





「ユーリ」
 風に乗って聞こえたのは母だという老婦人。

「ここにいたのね。
 お茶にしましょう、ユーリ」
 老婦人は丸いティーポットに茶葉をいれ、お湯を注ぐ。

 ティーポットは小さな赤い実の絵柄模様。
 ティーカップも揃いの絵柄で二客。
 ティースプーンは柄の部分に赤い実が描かれている。

「イチゴの絵がかわいいでしょう?」
 老婦人は言った。
「イチゴ?」
「そうイチゴよ。
 ……知らないの?」
「……知らない」
「だったら、摘みたてのイチゴを食べさせてあげるわ。
 楽しみにしていてちょうだい」

 老婦人が笑うと甘い匂いがした。
 赤い実の描かれた皿に乗る菓子よりも甘い匂い。

「イチゴ甘い?」
「甘酸っぱいのよ」
「…あまずっぱい?」



 食卓の上には赤い実があった。
 老婦人はユーリーを見てうなずく。

 赤い実を指で摘むと微かに冷たい。
 表面にはいくつもの凹凸と粒。
 じっと見ていられるものではない。
 それを口にするなんてとんでもない。

 固まったユーリーを見て、老紳士が赤い実を摘んで迷わず口にする。
 あとには葉っぱしか残っていない。

 唖然とするユーリーを尻目に、老紳士はグラスを傾ける。

 ごくり、と喉が鳴る。

 指先で震える赤い実から逃げるように目を閉じる。
 固くなった顎を無理やりこじあけてかぶりつく。
 飲み込もうとするが実が大きすぎて飲み込めない。

 しゃく

 口の中で歯ごたえが鳴る。
「……ん」

 しゃく、しゃく……

 酸っぱい。

 でも甘い。

 口の端を拭われる。
 老婦人は微笑んでいる。
「どう? イチゴのお味は」
「……」
「まだ早かったかしら……」

「……まい」
「え?」
「甘い……。酸っぱいけど」

 甘い。



 丸いような、長いような。
 きらきらと光る赤。
 小さな凹凸。入り込んだ粒。
 摘んだ指先を微かに冷す肌。
 何かを隠すように張り付く葉。

「……イチゴ」

「気に入ったのなら、もっと食べなさい」
「……これ、高い?」
「え?」

「初めて食べた。
 見るのも初めて。
 これ、いくらすんの?
 高い?」

「まぁユーリ。
 いいのよ気にしないで。
 もっと食べなさい」

 老婦人は慌てもせずユーリーにもう一つを勧める。
 手を出そうか迷ったユーリーは席を立ち、老夫婦から目を逸らした。

「もう腹いっぱい」





「高いところが好きなんだな」
 唐突に、男が声をかけた。
「……べつに」

 ―――あの晩。
 盗みにはいった先で捕まりそうになり、追っ手から逃げるために木に登った。

 巻けたと思って安心していると、二つの人影が木の下で争いだし、張り手の音が一つ。
 走り去る足音が消えた。

『やぁコソ泥くん。
 見下ろす世界は美しいかい?』
 ドキリとして、木の葉の隙間から下を覗く。
 薄暗くて木陰で見えないはずの姿を捕らえられた気がした。

『いま見たことは秘密にしてくれるかな?
 今日は持ち合わせがないが、今度お礼に行こう』
 返事も待たずもう一つの人影が去る。

 それから七日後だった。

『君が望むものをあげよう』

 男はそう言って、ユーリー・ラグナトロフをくれた。





「あんた、何?」
「何とは?」

「何考えてんだよ。
 オレあんたの弟じゃない」
「昔はね。
 だが今はわたしたちは兄弟だ」

「なんでオレなんだよ。
 オレ、ただのこそ泥だぜ?
 そこらへんの道端に立ってる女のガキだぜ?

 こんなとこで毎日きれいな服着て腹いっぱいメシ食えるご身分じゃねぇんだよ」
「いいや」


 いいや、と男は言った。

「おまえは今、この一帯を治める者の子だ」
「違う」
「違わない。

 見ろ」
 男は遠くを指差した。

 眼下にはもうひとつの夜空が広がっていた。
 高台の屋敷の屋根に登っただけなのに、まるで天界に来たようだ。

「あの明り一つ一つ、今夜はもう眠った明りの一つ一つをおまえは治めることになる。

 遠い未来ではない。
 平坦な道でもない。
 あの明りのように標があるわけでもない。

 それでもおまえは治める者を選ぶ」



「ウソだ」
「ウソではない。

 証拠に、おまえはこの屋敷をどう思う?」
「屋敷? ……でかい」
「他には?」
「人がいっぱいいる」
「他には?」
「ほか?
 あと、いろんなもん食える。
 寝るとこ広すぎ。
 フロがでかくて……水、もったいなかった」

 男が小さく笑った。
「なんだよ」
「もったいないと思った水を、どうしたかった?」
「わ……わけて、やればいいのに」
「誰に?」
「みんなに。
 ……町のヤツらに」

「そう言えばいい。
 おまえはもう、その場所にいる。
 その願いが叶う位置に」

「願い……」


 それは、空腹を満たしたいと思ったことだろうか。

 店先に並ぶ果物が自分の口に飛び込んで来ないだろうかと思ったことだろうか。

 ときおり思い出す父の薄汚れた背中をもう一度見たいと思ったことだろうか。

 かじかむ指先を暖める火が欲しいと思ったことだろうか。

 弟にお乳をやろうとして水溜まりの水を飲んだ数日後に苦しみながら弟の首を絞める母を止めたいと思ったことだろうか。


 あるいは。

 疑いをかけられ撃ち殺された仲間たちの元へ行きたいと思ったことだろうか。



「願いはすべて叶うのではない。
 一つが叶った瞬間、本当の願い事がなんであるかがわかる。

 ……わたしの友人の言葉だ。

 おまえはまず、最初に何を叶える?」
「最初に……ねが、い…………」



 最初に叶えたいこと。
 早く欲しいもの。

 あの時は叶わないと涙したもの。


「…………ど、と……ちゃん、を……」
「うん?」
「父ちゃん……を……二度と」


 薄汚れた背中の父。

 盛り上がった筋肉は銃弾をはね飛ばしてくれただろうか。

「つれ、て……行かせない。父ちゃんを……な、い……」

 近付く戦火を食い止めようと、何人の男たちが戦場へ向かっただろう。

 どれだけの人間が死んだのだろう。

 たくさんの田畑が荒らされただろう。

 川を赤く染めたのは人間の血だけだったのだろうか。



「二度と……」

 どれだけの人が取り残されただろう。

 どれだけの涙が流れただろう。

「オレが」

 地上に放置された亡骸の海を見て、無関心でいられた人間はいただろうか。


「戦場なんて、造らせない」