昔。
 人間たちが住む地上から去る間際、樹上の女神は人間に一枝を与えました。

 女神は言いました。
『この枝を持つ者が生きている間、人間の世界は長い平穏に包まれるだろう』



 人間たちは、女神が残していった枝の意味がわからないでいた。

 わからないから、誰も触れるどころか近付きもしなかった。





 大切な枝。
 それを愛してくれた少女がいた。
 少女はまだその気持ちが何であるのかわからないでいたが、貴重な一歩目ではあった。


 二歩、三歩と歩んでくれたらと乙女は期待したが、一歩すら浅い踏み出しで果てた。


 しかし、乙女の期待のすべてがなくなったわけではない。





 心残りを地上に見つけた乙女は、しばらくその一行を見ていた。



 座り込んで覗き込む肩から、枝が震えて葉を落とす。
 ひらり、ひらりと。


 葉は深い森の生い茂った葉の隙間を縫うように降り、地上に触れる間近で光となって足を生やした。

 しなやかな脚が続き、丸い尻、くびれた腰が現われる。
 それは大きく身震いして、二つの緩やかな丸みと薄い肩、細い腕を生やす。

 左肩から右肩の上を小さな手がなでる。

 滝のように髪が流れる。
 暗色の髪の間から顎が現われ頬を描く。
 ぷっくりとした唇が息を吐き、小鼻がヒクヒクと震える。

 目元に影を落とすまつ毛。
 震える。


 瞳は紺碧。
 あるいは満月の夜空。


 自分の葉から生まれたそれに気付いた乙女は、慌てて名を考えた。

 葉の落ちた近くには泉がある。
 葉は泉の端に葉先を付けようか、地面から泉に飛び込まんばかりという位置。

 乙女はひとつ、うなずいた。


 ――――…





「何?」
「はい?」
 問われて、彼は首をかしげた。

「何か言わなかった?」
「え? ……い、いいえ、何も…………」
「そう? また寝ぼけてない?」

 小さな笑い声がした。
「寝ぼけてはいないみたいだわ。
 でも、ねぇ、本当に覚えていない?」

 問われてもやはり覚えのない彼は小さくなるしかない。

「責めているわけではないわ。
 ただね、あなたの言葉はこの先の道を示すものなの」
 何か重大な責を負わせられたようで、彼は力なく首を横に振った。

「いいえ。
 よく聞いてね。

 あなたがこの先の道に名を付けて行くの。
 それはとても大切なことなの。

 まだ誰も神々の言葉に囚われているわ。
 神々がまたいつかお戻りになるのならそれでも良いの。

 でももし、この先永遠に私たちだけで生きていくとしたら?」
 少女は恐ろしい考えに、聞いただけで震えた。


「神々の囲いのなかで、どれだけ私たちは生きて行けるかしら?

 飼い主がいなければ、囲いの鍵はあけられないまま。
 私たちは限られたなかで草を食むしかない。
 いつか仲間が増え、食べる草が足りなくなるわ。

 そのときになって、私たちは後悔するのよ」

「…………」


 彼は静かに記憶を辿り始める。
 今思い出せなければ、あとになって後悔しそうだったから。



 目を閉じると極彩色が広がる。
 色はうねり、混ざり合い、分裂する。

 色は形を取ろうとしない。
 意思を伝えようとする手のようだ。
 あるいは音を吐き出そうとする唇。

 何かが伝えられようとしている。
 つい先ほどの自分が伝えようとしている。

 一句。

 一文字。

 一音。

 一心。



「…………ぁ…………め」
「え?」

 何かが伝わる。
 伝えられようとしている。





―――泉の際の姫


 そのとき地上に聖霊が一体、誕生した。