昔。
樹上の女神は人間たちと別れる際、一枝を人間たちに与えました。
『この枝が生きている間、人間の世界は長い平穏に包まれるだろう』
最初の枝の人間が産まれて幾年経ったことか。
三番目の枝の人間が産まれて何年経ったことか。
人はまだ枝を崇め続ける。
枝だけを。
―どうした、娘よ。
光がうねるような声がした。
憂い顔の乙女は見下ろしていた地上から顔をあげ、声を振り返る。
―お父様……。
―何がおまえを、そのような悲しげな顔にするのだ。
輝く声は乙女を取り巻く湿気った空気をかき乱し、清涼なものに変えた。
爽やかな風になでられた乙女の頬が色付く。
―わたくしが地上に置いてきたものを、お父様はご存じのはず。
乙女は頬を膨らませて父を見上げる。
―枝か。
それがどうした?
―わたくしの伝え方が悪かったのでしょうか?
人は枝を崇めているのです。
枝の生えた人間を。
―それがどうした、娘よ。
いつものことではないか。
―え?
見よ、と指差された先では人間が蠢いている。
その中央はポッカリと穴が開き、黒い粒がひとつあるだけ。
よく見るとそれは、うずくまった人間の背中だった。
うずくまった人間に石が投げ付けられる。
棒が足にあたった。
黒くてとろみのあるものが頭に。
うずくまった人間は何かがあたる度に小さくなっていくようだ。
―お父様、あれは何をしているのです?
―枝に触れた人間に罰を与えているのだ。
父の言葉に驚いた乙女は地上を見て、うずくまった人間が少女であることを知った。
あの少女なら知っている。
もう少しで枝の本当の意味を解いてくれるはずだった人間。
神子として崇められていた三番目の子を愛してくれた少女。
伸ばそうとした手を止めた父を見上げる。
―なぜ?
あの子はまだ生きています。
―今は命拾いするだろう。
だが次もそうとは限らない。
次も助かったとしよう。
そのさらに次も助けるのか?
いつまで?
―お父様……。
乙女は悲しい顔をした。
―人間は産まれ、育ち、死ぬ。
そのあいだには別のモノを生み育てる。
生き物、道具、掟、感情。
生きている間、言葉を教えれば唄い、跳ぶことを教えれば走った―――我らはそれを、最初は面白いものととらえ見ていた。
だがいつからだろうか。
人間は貪欲になってしまった。
我らの教えが当然のものであり、閃きは己一人のものだと言い出した。
娘よ。
わたしとて悲しくないはずがないのだ。
人間が驕りだしたことを。
乙女ははっとして、父の手を青葉で撫でた。
父はうなずき、青葉を一枚噛む。
―しかし、見よ、娘よ。
父に促されて地上に視線を戻せば、群衆から一人が飛び出してくるところだった。
その一人はうずくまった少女に覆いかぶさり、少女が受けるはずだった石を頭に受けた。
さらに二人が飛び出し、うずくまる二人を庇うように立ちはだかった。
―人間は驕ったものだが、それは我らが与え過ぎたからだ。
我らが構い過ぎたからだ。
我らがそばを離れた今、自ら知恵を生み出すようになれば、いつかそのなかから答えを見つけだすだろう。
おまえが与えた枝の真実に気付くだろう。
―お父様……。
それがいつのことになるのか。
果てしなく遠い予感に目眩がするようだった。
地上では、群衆のなかから老爺が現われ、しばらく二人と話した。
老爺が群衆に向かって歩き出すと人間の道ができ、二人はうずくまっていた二人を伴って人間の道を歩きだした。
どこへ行くのだろう。
四人は肩を組み、よろめき、支え合いながら荒野を歩きだす。
その行き先の多難を憂て乙女は涙を一粒流した。
涙は地上まで落ち、二人がうずくまっていたあたりの、ちょうど血痕ににあたった。
涙と血痕のあとから若い芽がひょこりとでた。
みるみるうちに芽は伸び葉を生やし、ついには蕾を膨らませた。
涙の持ち主が四人の旅人たちから目が離せないでいる間に、蕾は花開いていた。
賑やかな町から少しだけ離れた場所で、その花は苦しげに咲いていた。
涙の持ち主の胸の痛みを感じるように。
辛さのあまり色は深く。
苦しさのあまり香りは濃厚で。
目に痛いほどの深紅の花びらが風に揺れる―――…
樹上の女神は人間たちと別れる際、一枝を人間たちに与えました。
『この枝が生きている間、人間の世界は長い平穏に包まれるだろう』
最初の枝の人間が産まれて幾年経ったことか。
三番目の枝の人間が産まれて何年経ったことか。
人はまだ枝を崇め続ける。
枝だけを。
―どうした、娘よ。
光がうねるような声がした。
憂い顔の乙女は見下ろしていた地上から顔をあげ、声を振り返る。
―お父様……。
―何がおまえを、そのような悲しげな顔にするのだ。
輝く声は乙女を取り巻く湿気った空気をかき乱し、清涼なものに変えた。
爽やかな風になでられた乙女の頬が色付く。
―わたくしが地上に置いてきたものを、お父様はご存じのはず。
乙女は頬を膨らませて父を見上げる。
―枝か。
それがどうした?
―わたくしの伝え方が悪かったのでしょうか?
人は枝を崇めているのです。
枝の生えた人間を。
―それがどうした、娘よ。
いつものことではないか。
―え?
見よ、と指差された先では人間が蠢いている。
その中央はポッカリと穴が開き、黒い粒がひとつあるだけ。
よく見るとそれは、うずくまった人間の背中だった。
うずくまった人間に石が投げ付けられる。
棒が足にあたった。
黒くてとろみのあるものが頭に。
うずくまった人間は何かがあたる度に小さくなっていくようだ。
―お父様、あれは何をしているのです?
―枝に触れた人間に罰を与えているのだ。
父の言葉に驚いた乙女は地上を見て、うずくまった人間が少女であることを知った。
あの少女なら知っている。
もう少しで枝の本当の意味を解いてくれるはずだった人間。
神子として崇められていた三番目の子を愛してくれた少女。
伸ばそうとした手を止めた父を見上げる。
―なぜ?
あの子はまだ生きています。
―今は命拾いするだろう。
だが次もそうとは限らない。
次も助かったとしよう。
そのさらに次も助けるのか?
いつまで?
―お父様……。
乙女は悲しい顔をした。
―人間は産まれ、育ち、死ぬ。
そのあいだには別のモノを生み育てる。
生き物、道具、掟、感情。
生きている間、言葉を教えれば唄い、跳ぶことを教えれば走った―――我らはそれを、最初は面白いものととらえ見ていた。
だがいつからだろうか。
人間は貪欲になってしまった。
我らの教えが当然のものであり、閃きは己一人のものだと言い出した。
娘よ。
わたしとて悲しくないはずがないのだ。
人間が驕りだしたことを。
乙女ははっとして、父の手を青葉で撫でた。
父はうなずき、青葉を一枚噛む。
―しかし、見よ、娘よ。
父に促されて地上に視線を戻せば、群衆から一人が飛び出してくるところだった。
その一人はうずくまった少女に覆いかぶさり、少女が受けるはずだった石を頭に受けた。
さらに二人が飛び出し、うずくまる二人を庇うように立ちはだかった。
―人間は驕ったものだが、それは我らが与え過ぎたからだ。
我らが構い過ぎたからだ。
我らがそばを離れた今、自ら知恵を生み出すようになれば、いつかそのなかから答えを見つけだすだろう。
おまえが与えた枝の真実に気付くだろう。
―お父様……。
それがいつのことになるのか。
果てしなく遠い予感に目眩がするようだった。
地上では、群衆のなかから老爺が現われ、しばらく二人と話した。
老爺が群衆に向かって歩き出すと人間の道ができ、二人はうずくまっていた二人を伴って人間の道を歩きだした。
どこへ行くのだろう。
四人は肩を組み、よろめき、支え合いながら荒野を歩きだす。
その行き先の多難を憂て乙女は涙を一粒流した。
涙は地上まで落ち、二人がうずくまっていたあたりの、ちょうど血痕ににあたった。
涙と血痕のあとから若い芽がひょこりとでた。
みるみるうちに芽は伸び葉を生やし、ついには蕾を膨らませた。
涙の持ち主が四人の旅人たちから目が離せないでいる間に、蕾は花開いていた。
賑やかな町から少しだけ離れた場所で、その花は苦しげに咲いていた。
涙の持ち主の胸の痛みを感じるように。
辛さのあまり色は深く。
苦しさのあまり香りは濃厚で。
目に痛いほどの深紅の花びらが風に揺れる―――…