そう言えば前の晩、夫は珍しくわたしに抱き付いて来た。



 特別仲のいい夫婦ではない。
 短い単身赴任を繰り返すせいか、たまに家にいると珍しくて、世話を焼くのも苦にならない。
 ケンカも少ない。


 子どもたちも大きくなって家を離れ、こそこそと動く姑と二人だけの家は、時折空き家に迷い混んだように感じる。

 家が広過ぎるのかもしれない。



 白い外壁の大きな家は夫の夢で、二人目の子どもに男の子が産まれた時、建てることを決めた。

 夢のマイホームに足を踏み入れた時、家族はもう一人増えていた。

 その末の子が物心つく頃から出張が増えた。



 観光地が近いと必ず名所の名前が入った小さな提灯を買ってきた。
 いつかそれが壁の端から端まで並び、二周目に入った。



 一回の出張が次第に長くなり、単身赴任の話が出た頃。

 交通事故にあった。

 駆け付けた病院の待合室で、包帯だらけの夫は手を振った。
 奇跡的に、打撲とかすり傷だった。



 仕事に復帰すると出張はなくなり、毎朝家族全員が顔を合わせるようになった。

 ほんの一時間、数分が慌ただしかった。

 お弁当は四つ。
 洗濯。
 朝食。

 おかぁさん靴下はぁ?

 何度言っても夫は靴下の引き出しを覚えなかった。
 ハンカチの引き出しは覚えたくせに。
 そのハンカチの引き出しの二段下が靴下の引き出しなのに。



 おかぁさん


 いつからそう呼ばれるようになったのだろう。

 最後に名前で呼ばれたのはいつだろう。

 いつから「うちの家内」と紹介されるようになったのだろう。

 今度はいつ、名前で呼ばれるのだろう。





 ……今度?

 今度って、いつ?





「お父さん?」


 いつからそう呼ぶようになったのだろう。

 最後に名前で呼んだのはいつだろう。

 いつから「うちのダンナ」というようになったのだろう。

 今度はいつ、名前を呼べるのだろう。


 ……今度?

 今だっていい。
 今呼んでもいい。

 返事をしてくれるのなら。


「――――……」





 長い。

 長い。

 長い沈黙。


 静寂。


 白熱灯の生み出す深い陰影。
 深夜に響く静寂の溜め息。


 もう二度と、夫は名前で呼んでくれず。
 もう二度と、名前を呼んでも夫は返事を返してくれない。

 その現実が静かに。

 確かに。

 ずっしりと重く、深く。


 霊安室に横たわっていた。





 連日の暑さが息を潜めた夜だった。