世界に赤と緑と青以外に色があると知ったのは、たしか八歳のとき。
兄は二つに仕切られた水入れの片方で絵筆を濡らした。
『見てろよ』
まだ涙の跡を頬に残したわたしに、兄は誇らしい笑みを向けた。
兄は真っ白な画用紙の上で絵筆を走らせた。
ときおりサラサラと音を立てる筆先は右に左に踊る。
『ほら』
絵筆が画用紙から離れたとき、わたしの涙は乾き、頬は驚きに膨らんでいた。
当時のわたしに数えられる最大数よりも多い色が、画用紙という舞台で役を演じていた。
あるはずのない音。
出演させることができないはずの光。
役者たちは見事な舞台を造り上げていた。
しばらくして興奮が落ち着くと、兄は次の機会を約束して、絵筆を仕切られた水入れの反対側で濡らした。
絵筆が走ると舞台は幕を降ろしだす。
右から左。
左から右。
たちまち舞台は真っ白な画用紙になった。
『また今度な』
兄との約束に、わたしは何と応えただろう。
「ほら、タカヒロ」
わたしの呼び声に、息子は膨れた頬を振り向かせる。
「よく見てろよ。
一回だけだからな」
興味はないけれどしかたがないと言いたげに隣りに座りながら、密かに息子の目が好奇心に輝くのに気付かないふりをする。
わたしは絵筆を仕切られた水入れの片方で濡らし、画用紙に滑らせた。
わがままを言いたいわけではない。
会いたい。
そばにいて欲しい。
自分に構ってほしい。
自分という小さな世界の城壁となってほしい。
父と母の腕で小さな世界を包んでほしい……。
どんなな愛らしい願いを持とうが、現実は子どもにも容赦がない。
妻は未熟児で産まれた次男とともに、まだ入院している。
もう二か月になる。
「わあぁあ!」
絵筆を画用紙から離すと、歓喜の声があがった。
「キレー!
おとうさん。
おとうさんスゴイね!」
あの時はわたしの目も、今の息子のそれと同じくらい輝いていただろうか。
「じゃあ、もう消すぞ。
また今度な」
「うん!
いつ?
こんどっていつ?」
そうだなぁ、とわたしは考えるふりをする。
次がいつなのか決めるのはもうわたしではない。
わたしはわたしの演劇を終えさせた。
一度きりの晴れ舞台を終えた。
幕の引かれたわたしの舞台は片付けを始めるだろう。
次の演出家のために、まっさらな舞台を用意するだろう。
「今度は……」
わたしはあの日兄から手渡された絵筆を、息子の小さな手に渡した。
兄は二つに仕切られた水入れの片方で絵筆を濡らした。
『見てろよ』
まだ涙の跡を頬に残したわたしに、兄は誇らしい笑みを向けた。
兄は真っ白な画用紙の上で絵筆を走らせた。
ときおりサラサラと音を立てる筆先は右に左に踊る。
『ほら』
絵筆が画用紙から離れたとき、わたしの涙は乾き、頬は驚きに膨らんでいた。
当時のわたしに数えられる最大数よりも多い色が、画用紙という舞台で役を演じていた。
あるはずのない音。
出演させることができないはずの光。
役者たちは見事な舞台を造り上げていた。
しばらくして興奮が落ち着くと、兄は次の機会を約束して、絵筆を仕切られた水入れの反対側で濡らした。
絵筆が走ると舞台は幕を降ろしだす。
右から左。
左から右。
たちまち舞台は真っ白な画用紙になった。
『また今度な』
兄との約束に、わたしは何と応えただろう。
「ほら、タカヒロ」
わたしの呼び声に、息子は膨れた頬を振り向かせる。
「よく見てろよ。
一回だけだからな」
興味はないけれどしかたがないと言いたげに隣りに座りながら、密かに息子の目が好奇心に輝くのに気付かないふりをする。
わたしは絵筆を仕切られた水入れの片方で濡らし、画用紙に滑らせた。
わがままを言いたいわけではない。
会いたい。
そばにいて欲しい。
自分に構ってほしい。
自分という小さな世界の城壁となってほしい。
父と母の腕で小さな世界を包んでほしい……。
どんなな愛らしい願いを持とうが、現実は子どもにも容赦がない。
妻は未熟児で産まれた次男とともに、まだ入院している。
もう二か月になる。
「わあぁあ!」
絵筆を画用紙から離すと、歓喜の声があがった。
「キレー!
おとうさん。
おとうさんスゴイね!」
あの時はわたしの目も、今の息子のそれと同じくらい輝いていただろうか。
「じゃあ、もう消すぞ。
また今度な」
「うん!
いつ?
こんどっていつ?」
そうだなぁ、とわたしは考えるふりをする。
次がいつなのか決めるのはもうわたしではない。
わたしはわたしの演劇を終えさせた。
一度きりの晴れ舞台を終えた。
幕の引かれたわたしの舞台は片付けを始めるだろう。
次の演出家のために、まっさらな舞台を用意するだろう。
「今度は……」
わたしはあの日兄から手渡された絵筆を、息子の小さな手に渡した。