宰相はイルスを執務机から放し、露台の椅子に座らせた。自分も向かいに座り、侍従に茶を運ばせる。
「レセリアナ殿の件だ」
「あ……」

 できることなら喜びの声をあげたかった。
 上司の地底から響くような声で聞かなければ。上司のちょび髪とちょび髭で睨まれたりしなければ、イルスは飛び上がって喜んだだろう。
 最悪の場合、我を忘れて上司を抱き上げ、振り回したかもしれない。そのまま階下に落としたらサボテンに刺さっただろう。

「留学は来年の砂嵐の時期まえまでだったな」
「はい」
「とりあえずは、砂嵐が例年より早く発生したということにする。その後発症したとすれば、期間は長くなるだろう」
「はい」

「おまえの近衛から五人を選出し、護衛につけるように。二人を現地に残し、三人は帰還するように。迎えは……陛下がじきじきに案じてくださる」
「陛下が?」
 なんという恩情。

 イルスは感動のあまり、重要書類を握りしめたことにも気づかなかった。





 北国の酒は美味い。
 スティードはいったいどれだけ持ってきたのか、呆れるくらいの種類の酒が棚に並んでいる。
 本人いわく、『親父の趣味です』。
 イルスいわく、『それをくすねるのがおまえの趣味か』。

 三日に一度は、イルスはその恩恵に預かるようになった。
 歳の近い相手との交流にも飢えていたし。

「それで、どちらが話す?」
「は?」
「砂漠行きのことだ」
「あぁ。俺だと見事にご破算ですよ」
 説得の苦手そうな顔だからな、とは言わないでおいた。



 当然というか、言い出したものの責任として、イルスはレセリアナに計画を話した。
「なんて恐ろしいことを!!」
 彼女は見事に驚き、拒否した。

「閣下。お立場をお考えください。
 宰相補佐であられるあなたが他国の王を欺こうとしたなどと、周囲のものに知れでもしたら」
「レセリアナ、落ち着きなさい」
「落ち着いていられません!」
 レセリアナの目には涙が浮かんでいた。

 確かに、このことが知られればイルスの地位は危うい。
 だが『宰相補佐』なるものは、本来はない。主がイルスを次期神官長にするための踏み台として用意したものだ。

 主の恩恵を無にするのは非情に心苦しいが、計画を聞いた主からはなんの叱責もなく、協力まで約束してもらっている。
 本当にイルスが辞職するようなことになっても、主は責めることはないだろうという気もする。
「あのようなことを話したわたしが悪いのです」
「レセリアナ」
「どうかお忘れください。レセリアナはただの留学生だとお思いください」
「……れせ」

 堪えきれず、彼女は両手で顔を覆って涙した。
 声もなく、嗚咽をかみ殺して。

 かける言葉も見つからず、だからといって眺めているだけでは自分も落ち着かないイルスは、強張った小さな肩を抱きしめた。
 レセリアナの背中は驚くほど柔らかく、雛のように震えていた。
 撫でる髪は指のあいだをさらさらと抜ける。薔薇よりも薄く、爽やかな香りがした。



 彼女は小さく、聖女の名を呟いた。