特別でもない日の午後。
テーブルクロスを真っ白なものに替える。
ただそれだけで特別な日になる。
「いらっしゃい」
すらりとした体を揺らして友人が訪れた。
友人はしなやかに飛び跳ねて席につき、アキオの顔をじっと見つめる。
適度に冷まされたレモンリーフティ。
彼女はいつも香りを味わってから舌を出す。
ピチャリ
香りも味も満足したのか、彼女は目を細めた。
レモンリーフは猫除けに植えられていることが多い。でも彼女はアップルティでは見向きもしなかったから、きっとレモンリーフが猫除けになるなんて嘘だ。
彼女は猫と呼ばれるのを嫌う。だからアキオは
「白いお嬢さん」
と呼びかける。
彼女はアキオを
「んーなぁ」
と呼ぶ。
呼ぶときは必ずアキオの目を見る。
彼女の瞳は美しいスモークブルー。
見つめられるだけでしっとりとした雨の風景が脳裏に届く。彼女の視界には虹がかかるのかもしれない。
「アキオさん」
若い女の声がした。
アキオが返事をせずにいると、砂利を踏む音が近付いて来た。彼女は椅子に丸まって視界から消えてしまう。
「アキオさん?」
アキオは目をそらした。シャツが白過ぎて眩しかったから。
「こちらにいらしたんですね。
夕方には冷えてくるようなので、羽織るものをお持ちしました」
家政婦はアキオの肩にカーディガンをかける。
「新しいお茶をお持ちします」
家政婦はティーポットを持って立ち去る。
その間、アキオは家政婦を視界にいれないよう努めた。
「んーなぁ」
呼び声に驚いて体がはねる。
「なな、うなん、なー」
「冷えるんだってさ。こんなに晴れているのにね」
「なー、にゃう」
「夜は冷えてあたりまえだ。太陽がないんだから」
「おまえが風邪ひいても面倒診るのがメンドーじゃん」
「あぁ。なるほど」
「上着一枚ですむなら安いもんよ」
「あぁ。それもそー……」
アキオはマサキが来たのかと思って後ろを振り返る。いない。
周囲をぐるりと見回したが、従兄弟の姿はみあたらない。
「なんだ、寝違えたのか?」
パク、パクパクと口が動く。
猫の口が。
「!!」
椅子を蹴立てて立ち上がる。
「おっと待ちな、アキオ」
叫び声を寸止めされ、無理やり飲み込む。
「しゃべっているのか?」
「泣いてるように見えるか?」
猫がニヤニヤと笑う。
「女の子なのに、なんて口の聞き方だ」
「それはそっちの都合だろう。女はおとなしく家にいるもんだっていうのは人間だけだぜ」
「猫は違うのか?」
「男漁りにてんてこ舞いよ」
彼女は大声で笑った。
人間に例えるなら清楚なお嬢様のようだと思っていたのに……。
「いったい、急にどうしたんだ? しゃべりだすなんて……」
「波長があったんだよ。発情期だから」
「はつっ……」
「春だもんなぁ」
猫と同じにされては落ち込まずにはいられない。
「早めに求婚したほうがいいぜ」
「何のことだ?」
「いまさらブルなよ。あのねーちゃん、見合いしてるんだぜ」
「……それで?」
「テキトーに決まっちゃいそうだぜ」
「……それで?」
「相手はスッゲー遠くに住んでるんだってさ」
「…………」
「妻になりゃ行かないわけにはいかねぇよなぁ」
彼女が家政婦として勤めだしたのは三年前。
今年はもう十九になる。
女の婚期は驚くほど短い。
雇い主は、家政婦が行き遅れないように世話してやるものだ。だから見合い話がアキオの父から出されてもおかしくはない。
「それでぼくに、どうしろと言うんだ?」
「早めに手ぇつけろってことだよ」
「てっ……!」
この猫は刺激が強すぎる。
「今のうちだぜ」
ふふん、と猫が鼻で笑った。
猫に鼻で笑われるなんて……。
彼女が家政婦として勤めだしたのは三年前。
アキオはそのとき驚いた。婚期の女の子でも働くことを初めて知った。
祖母の親の代から女たちは家政婦として働いてきた。だから自分も食い扶持を稼ぐのだと言っていた。
長い黒髪。丸い瞳。小さな鼻は横から見ると意外と高い。
声がよく通るので遠くからの声も聞こえる。
手が長いことを知ったのは、アキオには取れなかった高い書棚の本を、彼女が横からひょいと取ったとき。
寒いころには細い指に何度も息を吐きかけていた。
赤くなった鼻をアキオが見ているのに気づいたとき、彼女は両手で鼻を隠して俯いて逃げた。
そのときの顔を思い出すたび……。
「アキオさん?」
「っ!?」
突然、声をかけられて驚く。振り向いた先に、ティーポットを持った彼女がいた。
「どうかなさったんですか?」
「…………ま、な、なん、でも、ない」
「そうですか。
……アキオさん?」
「な、ななんだ?」
「わたし、来月、結納なんです」
「…………」
なんて間の悪い。
「あと十日でお暇をもらうことになりました。短い間でしたけど、お世話になりました」
「…………」
「アキオさん?」
「だ……どんな、ヤツだ。相手は?」
「幼なじみです。勤めをしていたんですが、家業の農家を継ぐことになったと」
「歳は?」
「わたしより二歳上です」
「にさい……」
敵わないだろう、と思った。
幼なじみとして知ったもの同士が夫婦になるのに不自然はない。男が年下の女を妻にするのに世間はなんとも思わないだろう。
政治家の息子として生まれながら病弱で、日がな一日家にいる子どもよりも、その幼なじみのほうが適当だ。
彼女はそれなりに幸せになるだろう。
あの父が下手な相手に自分の屋敷に勤めていたものをやるはずがない。
けれど。
自分のこの気持ちは?
中途半端に育ってしまったこの情は、どうすればよいのだろう。
───早めに求婚したほうがいいぜ。
アキオは彼女をじっと見つめた。
彼女は幸せになるだろうか。
彼女なら、たくさんの幸せを見つけるだろう。
アキオよりも七年も長く生きているから。きっと幸せな生き方をアキオよりも早く見つけられる。
アキオから贈ってやれるものはない。まだ子どものアキオはお小遣いも握り締めたことがない。
彼女もきっと、アキオから何かをもらおうとは思っていないだろう。
それでも、ただひとつでいい。
何か、彼女の胸に残したい。
彼女の喜ぶもの。
……アキオは、アキオ自身が健康で、身長が伸びることしか思いつけない。毎月、彼女は侍医の言葉に一喜一憂し、毎年、彼女はアキオの身長が伸びることを喜んだ。
今だけ早急に成長しなければならない。
背も低いままで、顔も幼いままでもいい。それはすぐにはできないから。
心だけ。
この気持ちだけを早く成長させてしまわなければならない。
子どものアキオにできることは、たくさんはないから。
「フミ」
「は、はい」
彼女はまるで温かい雪に触れたような顔をした。
「……幸せに」
テーブルクロスを真っ白なものに替える。
ただそれだけで特別な日になる。
「いらっしゃい」
すらりとした体を揺らして友人が訪れた。
友人はしなやかに飛び跳ねて席につき、アキオの顔をじっと見つめる。
適度に冷まされたレモンリーフティ。
彼女はいつも香りを味わってから舌を出す。
ピチャリ
香りも味も満足したのか、彼女は目を細めた。
レモンリーフは猫除けに植えられていることが多い。でも彼女はアップルティでは見向きもしなかったから、きっとレモンリーフが猫除けになるなんて嘘だ。
彼女は猫と呼ばれるのを嫌う。だからアキオは
「白いお嬢さん」
と呼びかける。
彼女はアキオを
「んーなぁ」
と呼ぶ。
呼ぶときは必ずアキオの目を見る。
彼女の瞳は美しいスモークブルー。
見つめられるだけでしっとりとした雨の風景が脳裏に届く。彼女の視界には虹がかかるのかもしれない。
「アキオさん」
若い女の声がした。
アキオが返事をせずにいると、砂利を踏む音が近付いて来た。彼女は椅子に丸まって視界から消えてしまう。
「アキオさん?」
アキオは目をそらした。シャツが白過ぎて眩しかったから。
「こちらにいらしたんですね。
夕方には冷えてくるようなので、羽織るものをお持ちしました」
家政婦はアキオの肩にカーディガンをかける。
「新しいお茶をお持ちします」
家政婦はティーポットを持って立ち去る。
その間、アキオは家政婦を視界にいれないよう努めた。
「んーなぁ」
呼び声に驚いて体がはねる。
「なな、うなん、なー」
「冷えるんだってさ。こんなに晴れているのにね」
「なー、にゃう」
「夜は冷えてあたりまえだ。太陽がないんだから」
「おまえが風邪ひいても面倒診るのがメンドーじゃん」
「あぁ。なるほど」
「上着一枚ですむなら安いもんよ」
「あぁ。それもそー……」
アキオはマサキが来たのかと思って後ろを振り返る。いない。
周囲をぐるりと見回したが、従兄弟の姿はみあたらない。
「なんだ、寝違えたのか?」
パク、パクパクと口が動く。
猫の口が。
「!!」
椅子を蹴立てて立ち上がる。
「おっと待ちな、アキオ」
叫び声を寸止めされ、無理やり飲み込む。
「しゃべっているのか?」
「泣いてるように見えるか?」
猫がニヤニヤと笑う。
「女の子なのに、なんて口の聞き方だ」
「それはそっちの都合だろう。女はおとなしく家にいるもんだっていうのは人間だけだぜ」
「猫は違うのか?」
「男漁りにてんてこ舞いよ」
彼女は大声で笑った。
人間に例えるなら清楚なお嬢様のようだと思っていたのに……。
「いったい、急にどうしたんだ? しゃべりだすなんて……」
「波長があったんだよ。発情期だから」
「はつっ……」
「春だもんなぁ」
猫と同じにされては落ち込まずにはいられない。
「早めに求婚したほうがいいぜ」
「何のことだ?」
「いまさらブルなよ。あのねーちゃん、見合いしてるんだぜ」
「……それで?」
「テキトーに決まっちゃいそうだぜ」
「……それで?」
「相手はスッゲー遠くに住んでるんだってさ」
「…………」
「妻になりゃ行かないわけにはいかねぇよなぁ」
彼女が家政婦として勤めだしたのは三年前。
今年はもう十九になる。
女の婚期は驚くほど短い。
雇い主は、家政婦が行き遅れないように世話してやるものだ。だから見合い話がアキオの父から出されてもおかしくはない。
「それでぼくに、どうしろと言うんだ?」
「早めに手ぇつけろってことだよ」
「てっ……!」
この猫は刺激が強すぎる。
「今のうちだぜ」
ふふん、と猫が鼻で笑った。
猫に鼻で笑われるなんて……。
彼女が家政婦として勤めだしたのは三年前。
アキオはそのとき驚いた。婚期の女の子でも働くことを初めて知った。
祖母の親の代から女たちは家政婦として働いてきた。だから自分も食い扶持を稼ぐのだと言っていた。
長い黒髪。丸い瞳。小さな鼻は横から見ると意外と高い。
声がよく通るので遠くからの声も聞こえる。
手が長いことを知ったのは、アキオには取れなかった高い書棚の本を、彼女が横からひょいと取ったとき。
寒いころには細い指に何度も息を吐きかけていた。
赤くなった鼻をアキオが見ているのに気づいたとき、彼女は両手で鼻を隠して俯いて逃げた。
そのときの顔を思い出すたび……。
「アキオさん?」
「っ!?」
突然、声をかけられて驚く。振り向いた先に、ティーポットを持った彼女がいた。
「どうかなさったんですか?」
「…………ま、な、なん、でも、ない」
「そうですか。
……アキオさん?」
「な、ななんだ?」
「わたし、来月、結納なんです」
「…………」
なんて間の悪い。
「あと十日でお暇をもらうことになりました。短い間でしたけど、お世話になりました」
「…………」
「アキオさん?」
「だ……どんな、ヤツだ。相手は?」
「幼なじみです。勤めをしていたんですが、家業の農家を継ぐことになったと」
「歳は?」
「わたしより二歳上です」
「にさい……」
敵わないだろう、と思った。
幼なじみとして知ったもの同士が夫婦になるのに不自然はない。男が年下の女を妻にするのに世間はなんとも思わないだろう。
政治家の息子として生まれながら病弱で、日がな一日家にいる子どもよりも、その幼なじみのほうが適当だ。
彼女はそれなりに幸せになるだろう。
あの父が下手な相手に自分の屋敷に勤めていたものをやるはずがない。
けれど。
自分のこの気持ちは?
中途半端に育ってしまったこの情は、どうすればよいのだろう。
───早めに求婚したほうがいいぜ。
アキオは彼女をじっと見つめた。
彼女は幸せになるだろうか。
彼女なら、たくさんの幸せを見つけるだろう。
アキオよりも七年も長く生きているから。きっと幸せな生き方をアキオよりも早く見つけられる。
アキオから贈ってやれるものはない。まだ子どものアキオはお小遣いも握り締めたことがない。
彼女もきっと、アキオから何かをもらおうとは思っていないだろう。
それでも、ただひとつでいい。
何か、彼女の胸に残したい。
彼女の喜ぶもの。
……アキオは、アキオ自身が健康で、身長が伸びることしか思いつけない。毎月、彼女は侍医の言葉に一喜一憂し、毎年、彼女はアキオの身長が伸びることを喜んだ。
今だけ早急に成長しなければならない。
背も低いままで、顔も幼いままでもいい。それはすぐにはできないから。
心だけ。
この気持ちだけを早く成長させてしまわなければならない。
子どものアキオにできることは、たくさんはないから。
「フミ」
「は、はい」
彼女はまるで温かい雪に触れたような顔をした。
「……幸せに」