「シノ」
 父の呼び声に振り返る。
「はい、父さま」
「本当に、良いのだな?」
 もう何度目だろう、同じ質問。

 眉間にシワを寄せた父は記憶よりも老いていた。
 記憶のなかの父は八年前のもので、それだけ経てば老いもする。当たり前のこと。
 だがこの八年、岩室で起居していたシノには、時間の流れは穏やかな清流のようなものだった。

 外の世界の変貌には驚かされた。
 老いた父。背丈の伸びた樹々。広がる緑。苔むした岩室の戸。
 いつの間にか弟妹ができていた。だが会うことは叶わないだろう。
 小さかった従兄弟は逞しく育っただろうか。



「シノ」
 父の背後にはいつの間にか女達が揃っていた。
 シノは苦渋に顔を歪める父に頷いてみせた。たとえ父であろうと打掛け姿以外の娘を送り出すのは辛いだろう。
 それ以上苦い言葉を吐かせたくはないとシノは思った。

「父さま。行って参ります」
 父は薄い唇を噛みしめて頷いた。



 鬱蒼とした森の中。
 一列に並んだ女達の真ん中を歩く。

 草を踏む音。小枝の踏みしだかれる音。
 鳥のさえずり。虫の音。
 森の呼吸音は大きすぎて、シノの耳は段々と、音を捕らえにくくなる。ときおり耳の付け根の中のほうで、肉が悲鳴をあげた。



 真ん中を歩いていたはずのシノはいつの間にか最後尾を歩いていた。
 すぐ前を歩いていた女が列を横にそれる。深い森に飲み込まれ、女はすぐに見えなくなった。

 シノはそして一人になった。

 足の裏がジンジンと痛み、熱をもった。
 足の裏に地面を感じなくなると、ふくらはぎが縦に裂けるように痛んだ。
 足の付け根が殴られたように痛み、熱い血が流れて火傷をしたのかと見たふとももはただ坂を上る。



 視界がぐるりと回った。
 布団に投げ落とされたように全身が痛んだ。

 浅い呼吸を何度も繰り返す。肺が干涸びるような呼吸音。
 視界は草に埋もれた土。
 蟻が一匹、二匹。明るい緑色の長い足を窮屈そうに曲げた虫。鮮やかな赤色の腹の虫。濁った白い羽を震わせる虫。ツヤツヤとした細長い体の黒い虫。

 耳の片方は鳥や風の音を聞き、もう片方の耳は大地の音を聞く。
 横たわっているだけの大地は轟々と音を立てるのだと、頬に湿り気を感じながら気付いた。もしかするとそれは大地の鼓動だったのかもしれない。

 目を閉じると暗闇に光が弾ける。目の奥で根元のようなものが主張して暴れ、痛みに涙が出た。

 大切に大切に育てられて最期に感じるのは痛みなのだと、初めて知った。



 「おい、おい」
 声に気付いて目を開けると、足を生やした草鞋があった。
「おい、おい。生きとるか?」
「…誰?」
「おお。生きとる、生きとる」

 腕を取られて起き上がる……つもりだったが、力が入らず引き上げられた。立ち上がっても体の感覚だけがまだ地面に横たわっているかのようで、支えられて座るのが精一杯。
「こら、いかん」
 慌てた声を聞いた途端、ふわりと体が宙に浮く。
 ふわり、ふぅわりと体が揺れる。懐かしいと体が感じた。

 瞼が重い。
 ふわり、ふぅわり。

 瞼が下りる。



 目覚めたとき、シノは布団に寝かされていた。
 シノの顔を覗き込んでいた男はカツノと名乗った。
 山で倒れていたシノを見つけたのはカツノの祖父で、介抱したのは祖母だった。

「おめぇ、ウミベのもんか?じじがきっとウミベのもんやいいよった」
「ここは…」
 水で喉を潤したシノは世間知らずだが、自分がウミベの者であることくらいは知っていた。
「ここはヤマギワの里?」
「おうよ。てなやー、おめぇウミベのもんか。初めて見ぃ」
 同時に、シノだけでなくウミベの者でヤマギワの者を見たことのある者は少数だろう。

「カツ、起きぃや?」
 襖を開けて入って来たのは、腰の曲がった老婆だった。
 老婆はシノに湯気の立つ湯飲を渡した。薬湯だとは思うが、飲み込むのが難しいほどまずいものだった。



 カツノを下がらせ、老婆はシノに向き合う。
「おめぇ、ウミベのもんか?」
「……はい」
「かんづまか?」
「…………」
 はい、とシノは答えた。

「ここはヤマギワの里や。
 起きられるようなったら、里のおなごに混じって働きぃや」
「……なぜ?」

 聞きたくない。
 けれどシノは訊いた。
 もしかしたらと、期待を込めて。

「山神さーはおられられん。
 おめぇはかんづまななられん。

 ヤマギワのおなごとして生きぃや。じき慣れんや」
 自然と涙は流れた。
 ごわごわとした手ぬぐいで老婆がシノの涙を拭う。シノはされるままに拭われ、涙を流した。



 ウミベの者たちは、岩室で育てた十五歳の娘を山神に送り出してきたというのに、神はいなかった。
 何人も何人も送ったのに、神はいなかった。

 十五の娘たちは誰一人として神の身元にたどり着けなかった。山に入り、一人取り残され、野垂れ死んだ。



 老婆は語った。
「ワシもウミベのもんやった。
 十五で山に入った。一人減り、二人減り、最後はワシだけ。
 腹が減り、歩きつかれて倒れた。そしてヤマギワのもんに助けられた。

 ウミベのワシは死んだ。
 ウミベのおめぇも死んだ。
 おめぇも今日から、ヤマギワのもんだ」

「捨てられたの?」
「いんや。ウミベのおめぇは死んだんや。
 今日からおめぇはヤマギワのもんや」
「何を……すれば、いい?」
「語って聞かせぇ。
 またいつか十五の娘が野垂れ死にかける。救って、語って、迎えてやりゃぁえぇ」

 シノの涙はしとしとと降り注ぎ、布団を濡らした。

「そうしてワシは、ヤマギワのもんになった」
 シノはそう締めくくった。

 昨日、カツノが山で拾ってきたのは十五の娘だった。
 自分が捨てられたのではと悲しむ娘の顔を手ぬぐいで拭ってやる。娘の頬は、かつてのシノのように白い肌をしている。

 手ぬぐいを持つシノの手はシワだらけになり、シミがいくつも浮いている。
 毎日、野良仕事に出ていたらいつのまにかこの手になった。白い手も顔も、黒髪も亡くなった。
 替わりにカツノという夫と六人の子宝に恵まれた。そして次期に、シノの涙を拭った老婆から最後のひとつを受け取るだろう。



「大丈夫。泣かんでえぇ」
 シノはまた娘の涙を拭ってやる。
「元気になったら働きぃや。
 そしたら飯と寝床をやろう。
 そのうち誰かもらいたい言う男が出てくるやろう。気に入ったやつと夫婦になって、子どもを産んで、年を取ればいい。

 そうして疲れたら……」

 娘の顔がふと上がる。
 シノは笑いジワを彫るように笑んだ。

「そうしたら、ちゃんとした墓をやろう」