「ただいまー」
「おかえり」
「ご飯なにぃ?」
「茄子味噌炒め」
「ナスミソイタメぇ?」
「炒めたナスを味噌で味付けしたヤツ」
「あー」
「と、大根ともやしのサラダ」

 久しぶりにお早い帰宅の姉は、飛び跳ねるように私室に去った。

 本当に、久しぶりだ。

 夏休み中の姪とは家にいる時間が増えたため、顔を合わせている時間は増えた。
 姉はどうやらまた大きなプロジェクトを任されたらしく、午前様ではないが帰宅が遅い。朝はぎりぎりまで寝る。
 休日も私室で何やら根を詰めている。

「おかわりー」
「はいはい」

 早々に結婚し、早々に離婚し、早々に職場復帰した姉は、台所にはビールを取りに行く以外の用がない。
 家事は主に弟である陽太郎に任され、なぜか姪の面倒という付録までついていた。
 お得だろうか?

 姪は姪で、まだ父親がいた頃に母親の姿を見ていたせいか、手伝いは率先してやる。
 おそらく、未然に防がなければならなかったことが多すぎたのだろう。叔父バカかもしれないが、健気な少女だ。

 それでも火は触らない。というかまだ触らせられない。



「ねぇねぇ、ヒロ? 今度、ママのお休みの日にどこか遊びに行こうか?」
「ママと?」
「ママとヒロと陽ちゃんと。ママ、ヒロと遊びに行きたいなー」

 姪は細い眉と唇を難しそうに曲げて考える振りをする。
 それは嬉しい顔を隠すときのくせだ。

「いいよ。どこに行く?」
「遊園地?」
「ウォーターランド!」
「水着がいるねぇ。
 明日、ママの分も陽ちゃんと一緒に買ってきてね」

 待て、姉。
 今なんて言った?
 弟に何を買わせようとている!?

「やったー!!」
 喜ぶな姪っ子!!



「というわけで、お願いです」
 電話の向こうで、彼女が吹き出したのがわかった。
「切実なんです」
 強制的に姉と姪の水着を買いに行かされることになった陽太郎は、姉の友人に同伴をお願いした。

 陽太郎には女友だちがいない。男友だちに頼めるはずがない。
 彼女がいたって、こんなことは頼めない。
 いや、元はと言えば、弟に水着を買いに行かせる姉が悪い。

 姉の友人は、震える声で了承してくれた。



 案の定、姪はゲームセンターにとり付かれ、水着どころではなくなった。
「すいません、マコさん」
 陽太郎は店のブースに背を向け、待ちぼうけ状態だった。中に入って選別しようものなら奇異の目で見られること間違いなし。
 これで二人が恋人同士ならともかく。
 それは絶対にないことをお互い知っている。

「陽子も相変わらずね。
 あら、これかわいい。ね、どう、陽ちゃん?」
「はぁ」
「昔から家事と買い物は嫌いなのよね。悩むのがイヤだ、なんていって。
 パレオもいいわね」
「はぁ」
「ゴンドウさんといるとき、どうしてたのかしら?
 あ、きれい。

 わたしも着てみようかしら」
「え」
 驚いて振り返った視界いっぱいに、光沢のある深い赤色が広がった。

「ね、どう?」
 ものすごいハイレグ。
 どう、と聞かれても答えようのないほど大胆な水着。

「陽ちゃんだったら、彼女にどんな水着を着てほしい」
「……フ、……フツーのを」
「陽ちゃんの彼女はどんなの着てたの?」
「……………………花柄」
 だったような気がする。
「じゃ、こっちにしようか」
 次に晒されたのは、花がでかでかとプリントされた水着。白色に紅い花が印象的だ。
「ね。陽子のイメージよね」
「は、はぁ」

 陽太郎の分も選んでくれるという好意は、ありがたく辞退させていただいた。
 ちなみに姪の水着はカラフルな水玉模様となった。小さな浮き輪とおそろいだ。



 パフェをおごってもらって大満足の姪は、早々に陽太郎の背中を占領した。
 子どもの体温で背中に汗が吹き出す。
「マコさん。水着って、毎年買い換えるもんですか?」
「陽ちゃんは気にしないほう? 去年と同じ水着着てる子」
「水着には注目してません」
「…………。そうね」

「あ」
 余計な発言をした自分の口を呪った。
 案の定、姉の友人は笑いをかみ殺す。
「男の子よねぇ」
「…………」

「彼女、いたのね」
「……はい」
「置いてきちゃったのね」
「…………はい」
 そういえば、きちんと別れなかった気がする。

 別れの言葉を思い出さない。
 最後の言葉も記憶にない。
 顔もぼんやりとしていて、匂いのきついタバコを吸っていたくらいしか思い出せない。
 それから……。



「陽ちゃん?」
「あ、はいっ?」
「暑い? ぼんやりしちゃって」
 はっとして、陽太郎は視線をそらした。
「少し……」

「帽子がいるね」
「……はい」
 姉の友人は差していた日傘を少し分けて陽太郎を影に入れてくれる。その分、距離が近づいた。
 もう少しで腕が触れるくらいに。
 日傘を握る手の爪は薄いピンク。少しだけきらきらしている。

 記憶のなかの爪は真っ赤で、毎日憎しみを塗りこめるように塗っていたのを覚えている。
 唇は薄いオレンジ色。香水は柑橘系。

 ピンヒールよりもスニーカーが好きで、大きなバイクを乗り回していた。長い坂道を走るとき、彼女の心臓は興奮に高鳴っていた。後ろに乗っていた陽太郎にも伝染した。
 最後にはいつも、目の前が真っ赤になった。



「陽ちゃん?」
 だいじょうぶ、と唇が動く。
 温かさよりも先に柔らかさが指を侵食した。

 驚いた唇が離れたとき、陽太郎は自分が手を持ち上げているのに気づいた。
 人差し指に温かさが残っている。

「よう、ちゃん?」

 今度は意志をもって、陽太郎は赤い唇に触れた。



 心臓がひとつ波打って、視界が真っ赤に染まった。