「なんだって?」

 その日ケイウォンは、信じられないことを聞いた。

「もう一回、言ってくれ」
 低いわけではないが見下ろす位置にある頭は、ケイウォンの声に驚いたのかあとずさった。
「いや、だから……。たいしたことじゃないんだ」
「いいや、シガミ。ものすごく大事だ」

 政府の方針で、学校教諭には一定以上の学習が義務付けられている。
 そのため大学生のケイウォンと同じ講義をとる友人は社会人でもあった。
 もう一人仲のよい友人がいるのだが、彼の場合個人授業で出張が多く、なかなか会えない。

 社会人から生の職場を聞くのは楽しい。本人の悩みもあれば、初々しい学生たちの話に新しく試みた授業内容、教育者だけの講習会など話は尽きない。
 教育者の卵であるケイウォンにとって、二人は貴重な教師でもあった。

 その友人・シガミが、

「弟と、寝てるんだ」


 ケイウォンは次男だ。残念ながら長男は幼い頃に亡くなり、実質的には長男である。
 弟妹は五人。総勢六人兄妹となる。

 弟妹たちは、さすがにもうケイウォンと寝たいという年齢ではない。末っ子でも
『兄ちゃんと寝たらベッドから落っこちちゃうよ!』
とって振ってくれた。
 冬は暖かくてよかったのに……。


 ケイウォン家でもそんな状況なのに、

「弟と寝てるんだ」

 おかしいかな、とシガミは首をかしげる。
 おかしいも何も、兄弟がいたことすら知らなかった。

「一人っ子じゃなかったのか?」
「いいや。兄と弟がいる」
「おまえ、家どこだっけ?」
 シガミが答えたのは、ケイウォンですらびっくりな辺境だった。

「じゃぁ何かシガミ!? おまえ馬とか乗ってたのか!? 直に!?」
「あぁ、まぁ。移動手段だしね」
 せめて馬車があればよかったのに。残念ながらシガミの故郷は馬と徒歩が唯一の交通手段で、折畳式の家に住むという遊牧民族の土地だった。
「さすがに今は定住してるみたいだけどね」
 でもまだ折畳式らしい。



「あぁ、ケイウォン。誤解のないように、順に説明するよ」
「ん? そうだな。説明してくれ。なんでまたおまえは弟と寝てるんだ?」
「一緒に住んでる弟は……

 実の兄弟じゃないんだ」

 大事だ。

「今年のあたまに養子縁組して、兄弟になったんだ」
「待てシガミ! その前はないのか!?」
「まえ?」
「どうして養子縁組したんだ?」

 シガミは漬け過ぎたピクルスを食べたような顔をした。
「彼は……孤児なんだ。戦争で父親を亡くしたらしい」
 珍しい話ではないが、聞いて楽しい内容ではないようだ。
 ケイウォンは自分でも、漬け過ぎたピクルスを食べたような顔をしているだろうことを知った。

「そうか。それで?」
「六……もう、七年前かな。彼が深夜徘徊しているところで出会った。それから施設に保護してもらえるよう、僕が手配したんだ」
 ほほう、とケイウォンは言った。相変わらずなんでも拾うやつだ。

「二年前に偶然再会して、その……後見人とあまり仲がよくないみたいで……」
「で?」
「話しているうちに、僕が保護者になった」

 なんだそれは!?

 講義しようとしたケイウォンは口を開いただけで止められた。
「続きを聞いてほしい」
「……で?」

「それで、彼の後見人と言うのが……詳しくは話せないけど、その人は政治的権力のある人で、彼を工作員として北方に送り込んだんだ」
「ちょっと待て。北方って、あの戦争か?」
 昨年秋に終結した、国境紛争。
 ケイウォンの兄もそれで亡くなっている。

 シガミはうなずいた。
「大人だけよりも、子どもがいるほうが、スパイとしてより効果的だということだった。
 彼は最後の仕事を完璧にこなすことを条件に、後見人の手から離れることができた。
 それから帰還したのが、去年の冬の初めごろ。手続きをして、正式に兄弟になったのは、今年の初めだ」

 シガミは言葉を切り、吐き出されようとする言葉たちを一度飲み込んだ。

「ねぇケイウォン。彼は一人ではまだ眠れないんだ」
「……いくつだ?」
「おそらく、十七か十八歳くらいだと思う。本人も正確にはわからないそうだから。

 ケイウォン、年齢じゃないんだ。
 彼は戦場にいた。工作員として、仲間たちと敵中にいた。
 毎日毎日、一瞬一瞬が緊張の連続だったと思う。寝ているときも。

 彼はずっと、寝るときは仲間と背中を合わせて寝ていたんだそうだ。
 どちらかが敵の接近に気づけば、もう片方も気配に気づくことができる。すぐに起こすこともできる。囲まれたときも、姿が見えないときも有効だそうだ。



 ねぇ、ケイウォン。
 彼は僕と背中を合わせて眠るんだ。
 僕が気づかずに寝返りを打ったとき、彼は必ず目覚めるんだろうね。僕は朝まで眠っていられるのに、彼は戦争が終わっても、戦火の及ばなかったここにいても、まだ眠るときでさえ緊張しているんだ。

 それでも彼は、僕と背中を合わせて眠る。
 彼が僕と暮らし始めて、彼が唯一望んだことなんだ。

 望んだのは、それだけなんだ。



 でも……。
 僕は本当に、それだけでいいのかな?」

 シガミは小さな芽の出た花壇に目を落とした。
 まるでその芽が自分のようで、咲くかもわからなければ、咲いたとしても誰も見向きもしないのではないかと不安になっているようだった。



 兄とはぐれ、一人保護された先で過ごした夜。
 幼いケイウォンは寂しさのあまり、兄を探しに施設を出ようとした。そのときすでに兄は冷たくなっていたのに、兄の存在を欲していた。
 ただ、そばにいてくれればいいと思った。

 見知らぬ大人たちに先導され、見知らぬ子どもたちの群れに囲まれて過ごすよりも、ただ『家族』という兄のそばにいたかった。冷たくても言い。しゃべれなくてもいい。
 ただその存在を欲した。
 自分を取り囲んでいた『家族』のそばにいたかった。

 できることなら、生きて再会したかった。

 できることなら暖炉ではなく、兄の温もりで迎えを待ちたかった。



「いいんじゃねぇの?」
「……ケイウォン」
「それでいいって言うんなら、そうしてやれよ」

 鼻の奥がツンとした。
 気づかれないように空を見上げる。



「それもひとつの愛だろう?」