緊急事態。
エマージェンシー。
靴下が姉貴の靴下だった。
これはいかん、と飯塚は思った。
彼は姉思いの弟だった。シスコンと呼びたいやつには好きなだけ呼ばせてやってもいいくらいの姉思いだ。
小学生時代には根性の腐った光井に『シスコン坊や』と呼ばれ、シスコンはいいが坊やは許せんと、右アッパーを食らわせた経験をもつ。以来、『アッパー飯塚』と呼ばれている。
そんなことはどうでもいい。
問題は靴下だ。
飯塚自身が靴下を履き間違えてきたことは一時、横に置いておこう。重要なのは、履いてしまった靴下が、姉貴のお気に入りの一品だと言うことだ。
御歳十九歳の姉がそれを知れば、弟にエルボーを食らわせるだろうことは確実だ。
かわいいクマちゃん。
飯塚がみてもかわいいと思う。姉にはとても似合っている。
しかし、高校一年の身長一七一センチ、卓球クラブ副キャプテンの男子生徒が履くにはいささかラブリーすぎる。サイズが合っていることに関して触れてはならない。
飯塚は唸った。
今日の授業に体育はない。
部活も歯科医に予約を入れているので休むことになっている。
問題は、今だ。
早朝登校。
飯塚は教室一番乗りが大好きだ。愛している。
寝ぼけ眼で自分の足元に視線をやると、愛らしいクマちゃんと視線が合い、間違いに気づいた。周囲にはまだ人気はなく、即座に上履きを履いたため、事なきを得た。
そして今。下校。
靴箱の前で、飯塚は一人、緊張に肩を強張らせていた。
ホームルームが終わり、いつもよりゆっくり教室を出た。一緒に帰ろうなどと言ってきたやつには歯科医に行くからといって先に追い出した。
部活生はとうに去り、おしゃべりな女子たちも去った。
しかし、気を抜いてはいけない。
クマちゃん靴下が汚れないようにと慎ましく歩き、今日という日を過ごした。が、それもフィニッシュに見つかってしまってはすべてが水疱に帰す。
事は慎重に運ばなければならない。
靴箱を開け、靴を取り出す。同時に聴覚を最大限まで活性化させ、音という音に耳を済ます。うむ、人の声はグランドからだけだ。
上履きから足を少しだけ出す。
周囲に目を配る。
気配がないか第六感を目覚めさせる。
足元に靴を置く。
そしてすばやく上履きから足を引き抜き……
「あ、カズ」
「!」
「まだいたんだ」
「ネギーィイイイイイ!」
飯塚一利はクラスメイトの胸倉を掴み、食いしばった歯の隙間から叫んだ。
「忘れろ!」
「え?」
「忘れてしまえ!」
「はぁ?」
「今すべてのことを忘れてしまえネギヤマナカぁ!」
「カっ、カズ?」
「クマちゃんは渡さんぞー!」
「……クマ?」
身長一九二センチという帰宅部にしては無駄な長身を誇る根木山中は、飯塚の足元に注目した。それは恐らく偶然に。
「…………クマ、か……」
彼は複雑な顔をした。
「頼む、ネギ、忘れてくれ!」
「何を? 靴下?」
「そうだ、姉貴の靴下だ」
「間違って履いてきたんだな」
「そうだ。間違って姉貴のお気に入りクマちゃん靴下を履いてきたんだっ」
見つかったことにパニックを起こした飯塚は、自ら告白していることに気づかなかった。
「いいよ、靴下くらい。ほら、病院いくんだろ? 時間は?」
「あ……ありがとう根木山中大祐! 面倒クセー名前だなんて思って悪かった!!」
パニックも末期になると、飯塚は言わなくていいことまで言い出した。
こうして飯塚は難関を突破し、学校を後にした。
しかし彼にはその後、病院で靴からスリッパに履き替えるという、新たな難関が立ちはだかることになる。
がんばれ飯塚。
負けるなアッパー飯塚。
エマージェンシー。
靴下が姉貴の靴下だった。
これはいかん、と飯塚は思った。
彼は姉思いの弟だった。シスコンと呼びたいやつには好きなだけ呼ばせてやってもいいくらいの姉思いだ。
小学生時代には根性の腐った光井に『シスコン坊や』と呼ばれ、シスコンはいいが坊やは許せんと、右アッパーを食らわせた経験をもつ。以来、『アッパー飯塚』と呼ばれている。
そんなことはどうでもいい。
問題は靴下だ。
飯塚自身が靴下を履き間違えてきたことは一時、横に置いておこう。重要なのは、履いてしまった靴下が、姉貴のお気に入りの一品だと言うことだ。
御歳十九歳の姉がそれを知れば、弟にエルボーを食らわせるだろうことは確実だ。
かわいいクマちゃん。
飯塚がみてもかわいいと思う。姉にはとても似合っている。
しかし、高校一年の身長一七一センチ、卓球クラブ副キャプテンの男子生徒が履くにはいささかラブリーすぎる。サイズが合っていることに関して触れてはならない。
飯塚は唸った。
今日の授業に体育はない。
部活も歯科医に予約を入れているので休むことになっている。
問題は、今だ。
早朝登校。
飯塚は教室一番乗りが大好きだ。愛している。
寝ぼけ眼で自分の足元に視線をやると、愛らしいクマちゃんと視線が合い、間違いに気づいた。周囲にはまだ人気はなく、即座に上履きを履いたため、事なきを得た。
そして今。下校。
靴箱の前で、飯塚は一人、緊張に肩を強張らせていた。
ホームルームが終わり、いつもよりゆっくり教室を出た。一緒に帰ろうなどと言ってきたやつには歯科医に行くからといって先に追い出した。
部活生はとうに去り、おしゃべりな女子たちも去った。
しかし、気を抜いてはいけない。
クマちゃん靴下が汚れないようにと慎ましく歩き、今日という日を過ごした。が、それもフィニッシュに見つかってしまってはすべてが水疱に帰す。
事は慎重に運ばなければならない。
靴箱を開け、靴を取り出す。同時に聴覚を最大限まで活性化させ、音という音に耳を済ます。うむ、人の声はグランドからだけだ。
上履きから足を少しだけ出す。
周囲に目を配る。
気配がないか第六感を目覚めさせる。
足元に靴を置く。
そしてすばやく上履きから足を引き抜き……
「あ、カズ」
「!」
「まだいたんだ」
「ネギーィイイイイイ!」
飯塚一利はクラスメイトの胸倉を掴み、食いしばった歯の隙間から叫んだ。
「忘れろ!」
「え?」
「忘れてしまえ!」
「はぁ?」
「今すべてのことを忘れてしまえネギヤマナカぁ!」
「カっ、カズ?」
「クマちゃんは渡さんぞー!」
「……クマ?」
身長一九二センチという帰宅部にしては無駄な長身を誇る根木山中は、飯塚の足元に注目した。それは恐らく偶然に。
「…………クマ、か……」
彼は複雑な顔をした。
「頼む、ネギ、忘れてくれ!」
「何を? 靴下?」
「そうだ、姉貴の靴下だ」
「間違って履いてきたんだな」
「そうだ。間違って姉貴のお気に入りクマちゃん靴下を履いてきたんだっ」
見つかったことにパニックを起こした飯塚は、自ら告白していることに気づかなかった。
「いいよ、靴下くらい。ほら、病院いくんだろ? 時間は?」
「あ……ありがとう根木山中大祐! 面倒クセー名前だなんて思って悪かった!!」
パニックも末期になると、飯塚は言わなくていいことまで言い出した。
こうして飯塚は難関を突破し、学校を後にした。
しかし彼にはその後、病院で靴からスリッパに履き替えるという、新たな難関が立ちはだかることになる。
がんばれ飯塚。
負けるなアッパー飯塚。