その人と付き合いだしたのは気まぐれと言うより偶然だった。
 一度も足を踏み入れたことのない故郷と、彼の故郷は同じだった。父の話す故郷と重なった。
 故郷が懐かしいなんて感情は、生まれてこのかた一度も持ったことがない。仕事が好きな父は家を何度も移り変えた。ヤドカリのような幼少期だった。
 故郷といえば父の生まれた土地であり、アルパスにはとってはまだ行ったことのない国、ただそれだけ。

 学院に入学したアルパスは、仕事に飛び回る父と会うことがなくなった。ときおり伝言のような生存確認が届けられるくらい。
 義母や義兄は手紙を書くような性格ではないが、入学前に約束したので、アルパスからは定期的に手紙を書いた。返事は言葉や文章ではなく、食べ物や身の回りの小物だった。

 アルパスには同室生がいて、彼には家族がない。家族のことはお互い話すことはないが、もしかしたらあえて避けているのかもしれない。

「どうした?」
 温かい指にあごをすくわれる。
「ボーっとして。……疲れた?」
 確かに疲れた。このところ課題が多くて、しかも期限が短い。部屋に帰ればすぐに寝台に目が行く。
 今も寝台にいる。
 他人の寝台に。

「やめる」
「うん。……ごめん」
「しごかれてんだろ?」
「かなりね」
「だからシーリー導師はやめろって言ったんだ」
「いい腕だっていったくせに」
「でも厳しいっていっただろ? ほら、ここにも青あざ」
 小さな明かりの下。腰骨の少し上にある打ち身のあとを見つけられる。今日はこれで七個目。

「無理するな」
「うん」
「なんか飲もうか。あ、茶葉あったかなぁ」
 アルパスの上から床の上に降りて、彼は裸のまま棚の中をかき回す。
「いいの?」
「おまえの気が乗らないのに、やっておもしろいと思うか?」
「……ごめん」
「次、期待してる」
 返事に困り、アルパスは熱くなった顔を枕に押し付けた。

 香ばしい匂いに気づいて、自分が眠っていたことを知る。
 うつ伏せのまま視線を動かすと、窓際に座る半裸の彼を見つけた。
 鍛えられた体。大きな手足。面長の横顔を月明かりが照らしている。
 特別美しいわけではない。百人のなかに埋もれれば見つけるのが難しいけれど、親しい者なら見つけられるくらい。

「あ、起きた」
「寝てた?」
「寝てた寝てた。飲む?」
「うん。いい匂い」
 飲みかけの湯飲みを受け取り香りを楽しみながら一口飲む。少しの渋みと、喉を通るときの甘さ。
「黄茶? 珍しいね」
「アンステン導師からのいただきもの」
 彼の師匠だ。

「故郷の豊作祭りに行ったんだと。自分だけ」
「行かなかったの?」
「試験中だったよ」
「試験?」
「資格試験」
「資格、試験? こんな時期に?」
「特別に。人手が足りなくて、急きょ人数そろえることになったんだ」
「…………。行くの?」
「四期契約」
「行くんだ」
「行くよ」
「そう」

 彼は湯飲みを持つアルパスの手に手を重ねる。
「行かないで、って言ってみろよ」
「どうなるの?」
「行きたくなくなる魔法が発動する」
「でも、行くんだね」
「──────」
 彼は長いこと返事を返さず、湯飲みから立ち上る湯気が消えた頃にやっと呟いた。

「そうだな」



 その日、四人が出立した。明日には十六人。
 大掛かりな仕事のようだ。まだ修業生のアルパスが内容を聞くことはない。当然、彼も話さない。

「なぁ。待ってなくていいからな」
「え?」
「ほかにいいのが見つかったら、鞍替えしろよ」
「…………」
「で、さ。二年してほかにいなかったら、……出迎えてくれ」
 アルパスが彼の名前を呟くと、彼は切なく微笑んだ。
「で。親父さんとこに、二人で行こう」

 彼の言葉は限りなく夢に近い。抱くことは可能で、叶えるには困難が伴なうだろう。
「アリー。おまえさ、いい女だよ」
 かわいいとか、きれいなどと言われたことはない。かっこいいとか、男前なら何度でも聞いた。
 だから彼の言葉は嬉しかった。

「二年、待ってなくていい。おまえがもったいないから。
 でも二年して誰もいなかったら、俺を選べ。俺以外ほかにいないと思え。
 待ってなくていい。でも、俺がいるって、忘れるな」

 アルパスは言葉を返さず、ただ涙を堪えて微笑んだ。
 彼は温かい指でアルパスのあごを撫でた。



 この前の口付けは二日前。
 逢瀬は五日前。

 そして彼との最後の口付け。
 あごを支える温かい指。

 気まぐれと言うか偶然にも、父と同じくらい温かい。