花瓶は極薄いガラスの、表面に渦巻く水面の模様の彫られたお気に入りのひとつ。前日のうちに古い花は捨てられ、花瓶は丹念に洗って干され、今朝一番に水がいれられて今日の分の花を待っていた。
 イルスは一番美しいと思う位置に活け、少し離れてチェックする。右に五ミリほどずらすべきか考えていると、背後で咳払いがした。
「あ、これは……」
 咳払いの主を無視したイルスの視線が主を捕らえる。
「陛下、おはようございます」
 清々しい朝陽を浴びる主はうっすらと微笑む。
 活けたばかりの薔薇を見てうなずかれると、今日一日の始まりに感謝したくなる。

 麗しき主は、若さの代償に老獪さや多少の威厳に欠けるが、統治能力は補ってあまりある。
 即位当時、乱れ切った末に崩壊寸前にあった帝政を支え、建て直した。それだけに止まらず、長年和解と諍いを繰り返してきた砂漠の民族との仲を修復しつつある。
 恐怖政治時代が長かったために民との間には深すぎる溝があったが、今はなく、祭りや祝いやら行事のたびに見せる主君の姿に、観衆は熱狂的な視線と声をあげる。さすがに顔は晒せないが、知る者は大抵、見目雄々しき方と賞す。
 寡黙で実直で、非常な努力家であり平和主義な主は、まるで理想を絵に描いたような主人だ。
 ただ一つを除いて。

 宰相が本日の日程を並べ終え、戸口に控える騎士に目配せする。このところ恒例となっている二つ折の書類が数十枚、卓上に積上げられる。
「謁見までにお目をお通し下さい」
 宰相が恭しく頭を垂れる。主は嫌いな物を食卓に並べられた子供のように押し黙る。

 もとから寡黙な人だが、体の底から沈黙してしまった。こうなったら梃でも動かないのは宰相も知っている。
 目線だけの激しい攻防戦が時間いっぱい繰広げられる。そして数分後、時間を告げる従者の声で、凍りついた緊張が切れた。

 最初は、宥めすかして懇願し、嘆き悲しみ追いと……もとい、説得しようと試みたが敵わず、今ではこうして冷戦となっている。補佐でしかないイルスには胃の痛い時間だ。
 主の連勝が重なる毎に、宰相の白髪が増える。それは隣に並んでいるとよくわかる。
 謁見の間には大勢の目があるので背筋も伸びているが、このところ宰相の肩が痩せ、背が丸くなった気がする。

 補佐としてやはり、主の堅い壁に挑むべきだろうか。

「宰相様、わたしにお手伝いできることはございますか?」
「一日でよいから陛下を女好きにしろ」
 なんて乱暴な。いかに長年の付き合いでもそれはできない。
「あぁ。せめて死ぬときは、陛下のお子をひと目なりとも……!」
 宰相は熱く拳を固めた。

 主の欠点。
 つまり、未だ未婚であることだった。


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