誰もないほうへと歩いていたはずだった。
彼女を見つけたとき、慌てて回れ右をして去るつもりだった。今、誰にも会いたくなかった。
けれど足は、自然と立ち止まった。
石造りの高い建物。いつの時代に造られたものなのかはっきりとしない。どっしりとした姿は重厚感をたっぷりと味あわせ、初めて見上げるものはしばらく言葉もないだろう。
その周囲は芝生が敷かれ、低木が並び、木々が取り囲んでいる。木々の中に入り込むと慣れない者は迷うだろう。森は深すぎる。
その、森に近い茂みは人の背丈よりも高いところもある。誰にも会いたくないとき、知られたくない話をするとき、昼寝をするとき、誰もがここを訪れる。
だが今は、ほとんどの者は室内にこもっているか、表の庭にいるだろう--そう思って、この裏庭に来たはずだった。
彼女は泣いていた。
彼女がこちらに気づく前に茂みに隠れたけれど、頬が濡れているのだけは見てしまった。無関係なのに胸が痛んだ。
「……誰?」
どきん、と胸が鳴る。
観念して彼女の前に姿を現すと、彼女は安心したように微笑んだ。
流れ落ちるままだった涙を手の甲で拭う仕草が哀れで、まっすぐに見ることができない。失礼だとはわかっていても、顔を隠すフードを取ることができなかった。
「どうしたの? 迷ったのかしら?」
「い、いいえ。違います」
「あら、じゃぁ、師匠に怒られでもしたの?」
今まで泣いていたのが嘘のように明るい声に引き寄せられて少しだけ視線を上げると、目の周りの紅さよりその唇の赤さが美しくて、もぐるようにフードを引き下げた。
「どうしたの?」
「い……いいえ。なん……」
なんでもないのだと、言葉が出ない。
もうアレが違い。
声が震える。
草を踏む音がした。
うつむいたまま一歩下がる。
また、草を踏む音がした。
もう一歩下がる。
また、踏む音が。
一歩下がり。
背中に青い草の匂いが迫った。
彼女は屈みこんでくる。悪気はないのだろうけれど、今顔を誰にも見られたくない。できることなら誰のそばにもいたくない。だからここに来たのに。
「気分が悪いのではなさそうね。わたし、退散したほうがいいのかしら?」
そうしてほしいけれど、後から来た身としては言いにくい。自分が場所を変えると言おうにも、もう声を出せる状態ではなかった。
「遠慮しないで。わたしはただ……好きな人が死んだの」
「え……」
「いま、知らせがはいってね、それで泣いていただけよ。
ほら、〈目〉のイグリス導師が開発した魔法があるでしょう? 遠くの誰かのことを知らせる魔法。あれを使ってね、恋人が死んだら、涙が出るように仕掛けておいたの」
それだけよ、と彼女は微笑んだ。
赤い唇に見とれた。
「あら」
紅い爪のついた指がすっと伸びる。握りしめていたはずのフードをやすやすと剥ぎ取られた。
頬にひんやりと冷たく心地よいものが触れた。どうして柔らかいのに冷たいのだろうと、不思議に思った。
「どうしたの?」
彼女の白い指が涙をすくってみせた。自分のものだとすぐには気づかなかった。
「あなたも、目になにか仕掛けておいたの? それともやっぱり、怒られたのかしら?」
ふふ、と赤い唇が笑う。
その赤さに見惚れていられるのも今のうちだった。
もうすぐ、アレがくる。自分ではどう制御しようないものがやってくる。なんどやっても押さえつけることのできなかった、あの忌まわしいものがこの身を支配しようとする。
恐ろしい。
彼女にもそれが知られるのだと思うと、なお恐ろしい。
彼女のみけんにシワがよった。
「どうしたの? やっぱり気分が悪いの? 医務室に行きましょうか」
首を振って否を唱える。
「だめよ。あなた、新入りでしょ。自分の身体は思うほど弱いのよ。ほら、こんなに震えが……」
彼女の言葉が途切れた。
もう、アレがきた!
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彼女を見つけたとき、慌てて回れ右をして去るつもりだった。今、誰にも会いたくなかった。
けれど足は、自然と立ち止まった。
石造りの高い建物。いつの時代に造られたものなのかはっきりとしない。どっしりとした姿は重厚感をたっぷりと味あわせ、初めて見上げるものはしばらく言葉もないだろう。
その周囲は芝生が敷かれ、低木が並び、木々が取り囲んでいる。木々の中に入り込むと慣れない者は迷うだろう。森は深すぎる。
その、森に近い茂みは人の背丈よりも高いところもある。誰にも会いたくないとき、知られたくない話をするとき、昼寝をするとき、誰もがここを訪れる。
だが今は、ほとんどの者は室内にこもっているか、表の庭にいるだろう--そう思って、この裏庭に来たはずだった。
彼女は泣いていた。
彼女がこちらに気づく前に茂みに隠れたけれど、頬が濡れているのだけは見てしまった。無関係なのに胸が痛んだ。
「……誰?」
どきん、と胸が鳴る。
観念して彼女の前に姿を現すと、彼女は安心したように微笑んだ。
流れ落ちるままだった涙を手の甲で拭う仕草が哀れで、まっすぐに見ることができない。失礼だとはわかっていても、顔を隠すフードを取ることができなかった。
「どうしたの? 迷ったのかしら?」
「い、いいえ。違います」
「あら、じゃぁ、師匠に怒られでもしたの?」
今まで泣いていたのが嘘のように明るい声に引き寄せられて少しだけ視線を上げると、目の周りの紅さよりその唇の赤さが美しくて、もぐるようにフードを引き下げた。
「どうしたの?」
「い……いいえ。なん……」
なんでもないのだと、言葉が出ない。
もうアレが違い。
声が震える。
草を踏む音がした。
うつむいたまま一歩下がる。
また、草を踏む音がした。
もう一歩下がる。
また、踏む音が。
一歩下がり。
背中に青い草の匂いが迫った。
彼女は屈みこんでくる。悪気はないのだろうけれど、今顔を誰にも見られたくない。できることなら誰のそばにもいたくない。だからここに来たのに。
「気分が悪いのではなさそうね。わたし、退散したほうがいいのかしら?」
そうしてほしいけれど、後から来た身としては言いにくい。自分が場所を変えると言おうにも、もう声を出せる状態ではなかった。
「遠慮しないで。わたしはただ……好きな人が死んだの」
「え……」
「いま、知らせがはいってね、それで泣いていただけよ。
ほら、〈目〉のイグリス導師が開発した魔法があるでしょう? 遠くの誰かのことを知らせる魔法。あれを使ってね、恋人が死んだら、涙が出るように仕掛けておいたの」
それだけよ、と彼女は微笑んだ。
赤い唇に見とれた。
「あら」
紅い爪のついた指がすっと伸びる。握りしめていたはずのフードをやすやすと剥ぎ取られた。
頬にひんやりと冷たく心地よいものが触れた。どうして柔らかいのに冷たいのだろうと、不思議に思った。
「どうしたの?」
彼女の白い指が涙をすくってみせた。自分のものだとすぐには気づかなかった。
「あなたも、目になにか仕掛けておいたの? それともやっぱり、怒られたのかしら?」
ふふ、と赤い唇が笑う。
その赤さに見惚れていられるのも今のうちだった。
もうすぐ、アレがくる。自分ではどう制御しようないものがやってくる。なんどやっても押さえつけることのできなかった、あの忌まわしいものがこの身を支配しようとする。
恐ろしい。
彼女にもそれが知られるのだと思うと、なお恐ろしい。
彼女のみけんにシワがよった。
「どうしたの? やっぱり気分が悪いの? 医務室に行きましょうか」
首を振って否を唱える。
「だめよ。あなた、新入りでしょ。自分の身体は思うほど弱いのよ。ほら、こんなに震えが……」
彼女の言葉が途切れた。
もう、アレがきた!
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