そばに膝をつき、雪をかき分けていく。
 すぐに男は見つかった。右手を少しだけ持ち上げたまま、唇を少しだけ開いたまま、微笑とともに全身を凍らせていた。冷たく寂しい場所で一人、笑顔のまま死んでいた。

 

 手のひらでそっとまぶたを閉じてやる。顎を押して口を閉じてやる。手を地面に押さえつけ、まっすぐにしてやる。まだそう時間は経っていないのかもしれない。
「女王の腕枕で眠ったか」
 ひとつ、皮肉を吐いた。男が聞いているわけでもないが。

 

 立ち上がる。
 襟元に手をいれ、引き出すとともに杖を掴んだ。乳白色の、なんの飾り気もないただの棒だ。
 冷たい空気で深呼吸。

 

「ここは域なり
 生者の地なり

 

 ここは生きなり
 行者の地なり

 

 ここに住まうは生きる者のみ
 ここに住まうは行ける者のみ

 

 横たわる器の立つ場はなく
 去りし魂の帰り行くあても--…」

 

 風が、強く吹いた。

 

 男が横たわる周囲の雪が淡く光る。光は男を柔らかく包む。薄布をかぶせるように幾重も幾重も巻いていく。幾重にもまかれ男は繭になり、紫色の肌も凍りついた服も目を閉じた微笑も見えなくなった。繭は寒さに縮こまるように収縮し、鶏の卵ほどに小さくなった。

 

 手を払うと杖は瞬時に消えた。
 屈みこんで、男だった繭をしげしげと眺める。人間の男である証拠は何一つなくなっていた。
 ひとつうなずいて、繭に背を向けた。

 


 山脈の麓の住民は、春のころには必ず三日は寒い日が続くのを知っている。なぜなのかわからない。少なくとも三年に一度、時には毎年そんな寒い日があるということだけを知っている。
 なぜなのかはわからない。
 きっとお山さんも春色に塗り直しているんだ、と男たちは言う。女たちは春祭りに騒ぎすぎて化粧が崩れたんだと笑う。どちらも春を喜ぶ言葉だった。
 春の寒い三日間を、山の女王の化粧直し、と人々は言った。

 


 ぎゅっ、ぎゅっ、と足音が鳴る。
 舞う粉雪は次第に減少し、ふと気づくと晴れ間の下にいた。雪雲から免れたのか、寒風に葉を振るわせる草木は積雪もなく濡れてもいない。振り返ると、雪雲は頂上にずっりしと腰をすえいて動きそうにない。
 寒さが緩み暖かい空気に包まれる頃、足元の道は人の踏み均したものになった。

 

 緩い坂道を下った先に黒い塊が現れる。
「お手数をおかけしました」
「手ぬるいな」
「人が善すぎるんです」
「自分で言うか」
 二人して笑うと、もう先ほどの寒さで凍えた身体は溶けた。

 

「また一人、死んだな」
「人は死ぬものですから」
 そうだな、とうなずく。

 

 人は生まれて生きている。
 だから、生きて逝くこともある。

 

 それを、摂理、と人は言う。

 

 

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