もう春だというのに、その日は昼になっても寒かった。
そんな時、麓の人々はあと二日は続くだろう、と誰もが言う。
土地の者は慣れたものだ。しまい込もうとしていた上着をもう一度引っ張り出してはおる。どうせ明後日までだとそのままでいるものはいない。春の最後の寒さで凍え死ぬなど馬鹿げているからだ。
山の頂上はまだ雪化粧のまま。夏の特に暑い日でもなければ頂上は化粧は落とさない。
男たちは洒落たお山さんだといい、女たちは厚化粧なお山さんだと笑う。
笑いさざめく声は風に乗り、高く高く舞い上がる。
聞きつけた耳が、高いところにあった。
釣られて笑うこともない。
風向きが変わり、笑い声が遠くへ去ると、また歩き出す。
雪は浅い。険峻な山の土は浅く、凍って滑りやすい岩が顔をのぞかせている。足元は頼りない獣道。すぐ右手は目もくらむような崖、左手は吸い込まれそうに深い切れ目が走っている。
切れ目の向こうには雪から覗いた緑があった。もうすぐ白い花を咲かせるだろう。いや、黄色かもしれない。
ゆったりとした足取りは確かで、通いなれた散歩道を歩くようだ。その証拠に、左右は危険な崖と谷底が待ち構えているというのに、フラフラ、チラ、とよそ見をしていく。
何かを探しているようだ。
土地の者ならまず入り込まない場所に何があるというのか。雪と岩と少しばかりの土と草木ばかりの山中に何があるというのか。
必死な様子でもないが、諦める気はない。
次第に頭上を雲が覆い、粉雪が舞いだす。
頬に冷たい一線を残し、鼻の奥をツンと冷やす。首に巻きつけたマフラーで鼻を隠す。浅い呼吸が顔を温める。漏れた呼吸は白い姿を一瞬だけ踊らせ、冷たい風に流されていった。
ぎゅっ、ぎゅっ、と足音がする。