男はため息した。

 黒い布をかぶりなおし、髪をすっかり隠してしまう。



 羽ばたきの音がした。

「うっ」

 開けられたままの扉の向こうに、滑空してくる鳥の姿が見える。真っ青な空からぐんぐんとその姿が迫り、まっすぐこちらに飛んでくる。

 逃げようとした男の襟首を青年が掴んだ。

「お役目じゃないか」

「僕は雑用係じゃないよ!」

「そう。君は名誉ある左遷を、受けた身だ」

「何が名誉なもんか! 僕はいじめられてるんだよ」

「君をいじめる理由は、あの方にはない」

「あるよ。僕が……ぎゃっ」

 男はよろめいた。

 大きな鳥に体当たりされたのだ。明らかにわざと。



 あっさり襟首を離された男はしりもちをついた。

「ルー!」

 鳥が喋った。

 今ここに先ほどの少女がいれば、悪魔が来たといって逃げるだろう。

「いやー!」

「何がイヤーだ! 気色悪い。報告が遅れているぞ」

 鳥は嫌になるほど聞き慣れた人の声で言う。



「今日中には済ませます」

「そうか。取り急ぐことじゃないが、大師が来るかもしれない。知らせておく」

「な、た、どうして、大師が?」

「俺が知るか。リハビリとか言って、山登りでもするんじゃないのか」

 恐ろしい。

 これから雪も降ろうという時期に山脈に挑もうなんて。

「……了解しました」



「ダンク、先日の件は了解した。近々送ろう」

「ありがとうございます」

 青年は丁寧に頭を下げた。

 はたから見ると鳥に頭を下げる様子は滑稽だ。絶対おかしいと男は思うが、口にすれば三倍になってかえってくることは間違いない。



 言いたいことだけ済ませると、鳥は崖に向かって歩いた。ちょこちょこ歩く姿が可愛いが、そのなかに何がいるのかわかっているものには複雑だ。どう見送って良いのか悩む。

 崖までいくと大きく羽ばたき、見事に上昇して行った。

「暇なのかな」

 その姿が完全に見えなくなって、男はぽつりと言った。

「気分転換でも、なされたんだろう」

「向こうもオジサンばっかりだからねー」



 少女から見れば自分も「オジサン」と呼ばれてもいい年頃だということを棚に上げた男は、以後二十余年間を小さな村で過ごす。

 魔導士たちは彼のことを「麓のルー・ル」と呼んだ。

 それは、大魔導師の後見人でありながら、大陸最高峰の山脈の門番を押し付けられた彼への、せめてもの賛辞だった。



「ところで、ルー・ル」

「え、なに?」

「鍋から黒い煙が出ていたようだ」

 それは鍋が焦げているということだ。

「どーして下ろしてくれないの!?」

「わたしに鍋を持ち上げろと?」

「……………………」



 たとえ鍋が焦げようが、やかんが飛ぼうが、包丁が踊りだそうが、ナイフ以上に重たい台所用品は持たない--恐ろしいことに、それが青年の常識だった。



「うわーん!」

 鍋がー、鍋がー、と叫んで男は走っていった。



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