あの時も、開くのは気の早い蕾たちだけで、まだ冬の名残のような風が吹く頃だった。

 どうしてそうなったのか、登った木から降りられず、幹と枝の境で彼女は途方に暮れていた。

 あの時は教えてくれるものがいなければ気付かなかっただろう。今見上げる木には自分で声を上げるものがいた。



「おい、何してるんだ。授業に遅れるぞ」

 振り返ると、少年が茂みの向こうにいた。

 少年は彼が縋るように寄った木を見上げる。

「なんだ、猫か」

 ちょっと待ってろ、と茂みを迂回してきて、木に片手をつくと猫をひょいと捕まえて下ろした。少年はほんの少し背伸びをしただけで簡単に救ってくれた。



「飼ってるのか? マギー女史には見つからないようにな」

 猫を差し出しながら少年は言った。

「ありがとう。でも、飼ってはいないんです」

「ノラか。早めに外に出せよ。女史に見つかったら放り捨てられるから」

 そうですね、と気のない返事をした。

 近くで見ると子猫は煤けた茶毛だった。汚れていて遠目に黒毛に見えたらしい。

「俺が出してこようか?」

 惜しそうな顔をしていたのか、少年は笑って猫を取り上げた。

「早く教室に戻れよ」



 少年の襟元で結ばれていたのは黄色のリボン。彼のは緑色だから、少年は一つ上だ。

 彼は少年とは違ってリボンはきちんと結んでいる。少年のリボンは左右がちぐはぐだった。

 上着とシャツのボタンも全部留めている。少年はシャツの上から二つ目までボタンは外したままだで、上着のボタンはすべて空いていた。

 靴は昨晩磨いたばかり。少年はどうしてそうなったのか、泥だらけだった。

 同じなのは、長い前髪。

 それが風になびいて頬をくすぐるのに慣れたのはいつからか。視界で細いものがちらつくのが気にならなくなったのは、どれくらい前のことなのか。思い出せないくらい遠い昔のことなのだ。

 なのに、彼女のことを思い出したのはなぜたろう。あれも同じくらい昔のことなのに。