AGPについて、私から見ると、かなりいい加減なことが言われているので、注意を喚起しておきたい。
 概念の提唱者であるレイ・ブランチャードは、GIDのひとつのタイプとしてこれを言い始めた。又聞きの又聞きといった感じのいい加減なソースに基づいてではなく、少しでも本人の発言に近いところを確認してほしいのだが、フィリップというクライアントを診察している過程で、ひらめいたのがAGPである。

 

 つまり、日常生活に支障が出て困っている人が、時間もお金もかけてブランチャードに診てもらったのが始まりなのだ。ロクに検証もしていないTRAが、AGPは「性嗜好」の話であって、障害の話ではないと言っているが、基本が間違っているわけだ。

 AGPについては、三羽烏といったらいいのか、三人の方々の名前を出さないわけにはいかない。言い出しっぺのブランチャード、概念の普及に貢献した、マイケル・ベイリー、アン・ローレンスだ。
 私は、ピルつきさんにも言っているのだが、AGPを云々する以上は、一義的に彼らの定義を少なくとも前提にはすべきだ、と言いたい。そして、ブランチャードもベイリーも、男性のGIDは、このタイプとホモセクシュアル・タイプの二つに尽きると言っている。

 つまり、AGPはれっきとしたGIDとして提唱されているということだ。

 

 正しいGIDとにせ物のGIDがいて、後者がAGPであるといった受け取り方をされているようだが、これは端的に言って間違っている。AGPは、クロスドレサーとは別の話なのだ。(もちろん、100%無関係であるなどとは言わない。同性愛にしたところで、種としての人間に可能性として存在している傾向であるからには、ヘテロにとっても完全に無関係だとは言えないのと同様だ。AGPが、トランスヴェスタイトとかクロスドレサーとかと、まったく完全に別ものだなどとは言えない。ただ、明確に区別はつくものであるのを理解しておく必要があるのだ)

 TRAは、トランスジェンダーというものを、無理やりにでも性的な面から切り離そうとしている。
 例えば、遠藤まめた氏が責任編集をしているというサイト「はじめてのトランスジェンダー」を参照すると、そのFAQで国連の定義に触れている。その定義では、異性装者もトランスジェンダーのアンブレラの下に入るとされているのだが、それでもトランス女性・男性とそれをなんとか差別化をしようと努めているのが見て取れる。

 このサイトでは、「異性装」は性嗜好の話、トランス女性は性自認の話で、両者は別のものだと主張しているのだ。私は、それが間違いであるのを、事実に基づいてしっかり整理することからはじめなくてはならないと考える。

 

 トランスジェンダーの運動において、原動力になっているのはやはりAGP(の傾向性)だと私は思う。ブランチャードの助力を求めたフィリップにとっては、それは日常生活を送る上での障害になったのだが、こちらの方、AGPの傾向性をもったTRAたちは、自らの内部の葛藤を社会に押しつけることで、そこから免れているのではないか。そして、自分達の無理筋を押し通すために、まったく違う障害であるROGD(Rapid onset gender dyspholia)をイデオロギーで塗りつぶし、少女たちの健康な身体をずたずたにすることもためらわない。

 どう考えても、身体違和(dyspholia)の原因を個々に探求し、解決を図ろうとするのが臨床医としての義務である筈なのに、そこにまで介入して、手術への一本道を歩ませようとする。AGPとROGDの別をゴチャゴチャにして見えないようにして、自分達の追求とセクシャリティとの

関係を曖昧にする目的のための介入である。

 私が言いたいのは、「性的嗜好」でもなんでもいいではないか、それをとことん追求するのをためらう理由はないだろうということ。ただし、社会を巻き込むことなく、その追求は自分の部屋で好きなだけやってほしいということだ。

 ブランチャードの書いていたところによれば、世間一般には殆ど知られていないオートガイネフィリアについて、問われるがままに説明すると、返ってくる反応は一様で、なんと「おぞましい」ことかと言われるそうだ。
 男性のパラフィリア(要するに変態)には、ありとあらゆる形態があるのだが、一般的な人たちの理解からあまりにも遠くへだたっているそれに対しては「そんなのがいるのかあ?」くらいの反応が殆どで、まず「おぞましい」と受け取られることは少ない。
 つまり、そういう反応が出てくるのは、自分では気がついていないものの、その「傾向性」がかなり普遍的に存在する場合だけなのだと考えられる。

 ピルつきさんが、男性の3%ほどにAGP的な「経験」があるという数字をツイートしていた。私は、自身を振り返っても、「経験」については確言できないが、「傾向性」を言うなら、ヘテロ男性の殆どが該当するのではないかという疑いを持っている。
 そういうものであるだけに、逆に感情的な生々しい「おぞましい」という反応が出てくるのではないだろうか。

 上に書いたとおり、TGismについては、AGPについての認知がさらに広まり、「そういう人たちも存在する」のだという共通理解が広がっていくことが、必要になっていくのではないかと私は考えている。
 そして、そのタイプのTGが、「おぞましい」意識を少しでも乗り越え、それを自ら受容できるようになるのが肝心なのではないか。

 そして、繰り返しになるが、自己正当化のために社会に歪みを強要するようなことをせず、いくらでも納得がいくまで、自身の「嗜好」を追求していけばいいのではないかと私は思う(ただし、自分の部屋で。「コットン・シーリング」などという言葉をふりかざすことをせずに)。
 自らの主張を強要し、それによって社会に歪みを生じるような路線からは撤退してもらいたいということだ。