まだコロナやるの?第8波で死者最高とマスコミは喧伝するが・・・ | 青い球。blauekugelという名に捧ぐ。

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新年も明けた巷では、第8波による死者数が過去最高とのこと。

 

確かに、オミクロン株は死亡率は低いものの感染者数が桁違いなので、死者の絶対数は多い。

 

しかし。コロナ禍が来てはや3年経つが、どんなに国民がマスクをしようとも、感染を100%防ぐことができないということが明らかになった。むしろ、いずれは感染するものを先延ばしにしているだけという見方もできる。

 

これまでは、先延ばしにも意味があった。特にコロナ元年では、治療法もよくわからず、とにかく患者のピーク数を下げなければいけなかった。だが、この地球上から新型コロナウイルスを無くすことはもはや不可能であることが判明した以上、感染対策自体が目的化している日本は世界でも孤立しつつある。

 

「ちゃんとマスクをしなさい」という掛け声は、「ちゃんとマスクをする」こと自体が目的化されている。マスクをしても感染自体は防ぎ切れないこと、仮にそれを続けるのであれば我々はもはや一生マスクを公衆の場で外すことは不可能であることを、日本人だけが理解できていない。

 

この国は、いつからここまで愚かな国になってしまったのだろう。いや、既に始まっていたか。この国が、失われた10年、20年、そしてついに30年を経ても立ち上がれない理由と全く同じである。つまり、目的を達成するための手段自体がいつの間にか目的化され、もはや規則を守ること、「ちゃんとやる」こと自体が目的化されてしまっている。

 

つまり、自分は何のために「それ」をやっているのか、もはや国民一人一人が自分の頭で考えることができない社会になってしまっているのである。本来、感染防止はコロナ禍によるリスクと従来の日常生活を天秤にかけ、リスクのほうが高いからやむを得ず取った措置のはずである。

 

しかし、現在はもはや死亡率はインフルエンザ並みに落ち、従来の我々が許容していたリスクにまで落ちつつある。無論、インフルエンザとは異なる病気なのだから、完全に同じとまではいかない。それでも、数字上は、日常生活を捨ててまで防ぐべきリスクとは、もはや既に言えないのである。であるからにして、従来以上の感染防止をすること自体ももはや必要がない。

 

それなのに、誰かが「それ」に疑問を呈すれば、ルールを守っていないとたちまちのうちに袋叩きにされてしまう。そりゃそうだ、みんなやりたくてやってるわけじゃないんだ。我慢してルールを守っているのに、「ズル」をして守らない奴がいたら、もう何が何でも堪らないくらい許せないのである。

 

手段を目的化してしまう国民性。公平性を追求するのも、ある意味同じ病理であろう。「公平」であることは、あくまでも社会の構成員が幸福になるための手段である。公平であること自体は、何も意味がない。例え公平でなくとも、社会全体として幸せになれるのであれば、それは許される範囲内の不公平である。けれども、日本人は「ズル」を許すことができない。なぜなら、みんなやせ我慢して、我慢することが美徳だと信じているからである。