出羽神社(でわじんじゃ・いではじんじゃ)
山形県鶴岡市羽黒町に鎮座。旧社格は国幣中社。
御祭神として出羽国の国魂である伊氐波神(いではのかみ)と、
五穀豊穣の神である稲倉魂命(うかのみたまのみこと)を祀る。
その他に、月山神社の祭神である月読尊と、湯殿山神社の
祭神である大山祇命・大巳貴命・少彦名命を合祀している。
Part1では出羽神社の創建の歴史と手向地区にある出羽三山神社の
随神門界隈の風景を、
Part2では随神門から先の風景と諸社を御紹介させていただきました。
Part3では、羽黒山山頂の風景と御社を御紹介いたします。
随神門から2,446段の石段を登り、羽黒山山頂へ到着です。
車で羽黒山有料道路を登った場合、羽黒山頂駐車場に到着します。
羽黒山頂上駐車場の境内入口(2015年)。
2017年もあんまり変わってはいません。写真の参道両サイドには
売店や軽食を取ることができる場所、御神湯授与所・焼印所などが
あります。
まず最初に、駐車場側から境内に向かいます。
駐車場側から杉の木立の中の舗装路を歩き、参道を進んでいきます。
途中にはJA庄内たがわの売店があります。
進んでいくと、巨大な流造の社殿を模した建物があります。
これは『出羽三山歴史博物館』です。こちらの博物館では、主に
出羽三山の神仏習合時代の修験道の宝物を展示しているそうです。
(定休日:木曜日、8:30~16:30まで開館、入館料:大人300円)
出羽三山歴史博物館の前を過ぎると、左手に大きな御社が
見えてきます。
羽黒山 玉垣内 天宥社(てんゆうしゃ)。
御祭神として、羽黒山中興の祖であり、羽黒山第50代執行別当である
天宥法印の御霊『天宥霊神(てんゆうれいしん)』をお祀りしています。
戦国時代の混乱をうけ出羽三山が衰微し、また、各山への登拝口が
独立して運営が行われるなどしていた頃、天宥別当は25歳の若さで
羽黒山の別当という重職に就きました。
天宥別当は、上野寛永寺の天海僧正に師事し、修験者の旦那場や
霞場などの布教政策の確立や出羽三山内の宗教政策を正すなどの
改革に取り組まれました。
また、参道の石畳の敷設や植林田畑の開梱、祓川の須賀の瀧の
造営や山内の堂塔の改築造営などを行い出羽三山の威厳を整え、
絵画や彫刻、庭園の手入れなどにおいても非凡な才能を発揮される
優れた人物であり、その力を出羽三山の神々の御神威発揚のために
捧げられました。
しかし、晩年になり、天宥法印の改革へ反対するものたちによる
讒言を受けて伊豆の新島へ流刑になり、82歳で入寂されました。
天宥法印の偉大な業績を敬慕する人々により、天宥法印は入寂後に
御霊社にお祀りされ、慰霊祭が執り行われてきましたが、明治時代に
なり、神としてお祀りされることになりました。
現在の社殿は御開山400年の記念事業の一環として、平成4年秋に
竣工されたものだそうです。
羽黒山天宥社御朱印。
御朱印は平成28年頃から授与開始となっています。
天宥社に参拝して奥に向かうと、小さな柵のようなものが見えます。
柵についている小さな扉には天皇家の御紋である十六弁菊花紋が
付いています。柵のなかには、杉の木々と小さな円墳のようなものがあります。
崇峻天皇皇子・蜂子皇子墓。
この円墳が出羽三山開祖である蜂子皇子の御陵とされています。
蜂子皇子の御陵とされる地はこの場所の他にもあり、
同じく羽黒山山頂の三神合祭殿裏手の『開山廟』(後述)と、
蜂子皇子が昇天した地とされる皇野の開山塚といわれる場所の
三ヶ所が御陵の地として比定されています。
なお、この蜂子皇子の御陵は、東北地方で唯一の宮内庁所管の
陵墓となっています。
蜂子皇子の御陵から境内に戻る途中には、松尾芭蕉の像と
文政8年(1825年)に月山旧登山道であった野口地区に建立された
『三山句碑』が置かれています。三山句碑には、松尾芭蕉が
出羽三山についてを詠んだ俳句が書かれています。
松尾芭蕉像と三山句碑を過ぎ、境内入口の東鳥居に着きます。
そばに手水舎があるので、そこで手を清めて参拝の準備完了です。
次に、手向地区の随神門から2,446段の石段を登って境内へ。
石段の先の両部鳥居を超えると、羽黒山山頂の境内です。
能除太子御坐石・月山遥拝所。
この御坐石は、蜂子皇子(能除太子)が羽黒山に登拝した際、
この石の上に座り休憩したり座禅を行った石とされ、また、蜂子皇子が
昇天した際に召していた沓がここに置かれていたという言い伝えが
あるそうです。
両部鳥居をくぐり、右手には護摩壇があります。
この護摩壇では、台風で稲などの秋の実りが被害に合わないように
祈願する『八朔祭』などの修験神事が催行されています。
両部鳥居の左手に2つの大きな御社が鎮座しています。
羽黒山 玉垣内 厳島神社(いつくしまじんじゃ)。
御祭神として海や航海の女神であり、豊漁や財福・技芸を司る
宗像三神(多岐理毘売神・狭依毘売神・多岐都毘売神)を祀る。
その他に玉垣内の拝所である津速魂神社(つはやむすびじんじゃ)の
御祭神である津速魂神(つはやむすびのかみ)を合祀している。
津速魂神は春日神である天兒屋根命の祖神であり、火の神である
火産霊神と同神とされているそうです。
また、2017年の暴風で倒壊した埴山姫神社の御祭神である
埴山姫神も一時的に合祀されています。そのため、縁結びの赤い糸を
結ぶ格子戸が厳島神社の社殿前に置かれています。
こちらの厳島神社は神仏習合時は弁財天を祀る辨天堂でした。
辨天堂では宇賀弁才天がお祀りされていましたが、明治初期の
神仏分離令により、御本尊であった宇賀弁才天は石段を背負われて
羽黒山の麓の正善院黄金堂に遷されました。現在も宇賀弁才天は
黄金堂内の左手奥に安置されています。
また、合祀されている津速魂神は、神仏習合のときは虚空蔵尊堂で
お祀りされていた虚空蔵尊を本地仏としていたそうです。
厳島神社の社殿の向拝部分には龍の見事な彫刻があります。
左側が降り龍、右側が昇り龍が彫刻されています。
昇り龍と下り龍は水分の循環を表す農耕の守護神で、
龍は春分に水蒸気とともに天に昇り、秋分になると天から雨とともに
地上に降り、深淵に潜んで春の訪れを待つとされているそうです。
この昇り龍と下り龍の彫刻には金網で保護がされています。
一見すると「破損防止のための保護かな?」と思ってしまいますが、
実はこの金網は『龍が動かないようにするため』の措置という
話があります。
そして他の摂社・末社と違い、何故、表参道である随神門からの
石段の最終地点そばの一等地に厳島神社が鎮座しているのか?
お話しによれば、羽黒山の石段は龍の形をしており、石段を登った
頂上の入口という場所に厳島神社が鎮座しているのは、
羽黒山頂にある鏡池の主で、蜂子皇子と伊氐波神の対面を仲介した
九頭龍王の妃神として弁才天をお祀りしていたからなのだそうです。
そして、向拝部分の龍の彫刻は生命を持っており、鏡池の水を飲みに
自由に動き回る姿が頻繁に見られていたのだそうです。そのため、
参拝している人々がびっくりしてしまうということが起きたため、
『きれいなお妃さまもお招きしたんだし、龍神様もそろそろ落ち着いて
いただけませんかねぇ…(懇願)』という意味を込めて、彫刻の四方を
金網で囲って動きまわることができないようにしているのだそうです。
羽黒九頭龍王の妃神を祀る厳島神社の隣には、
出羽三山開祖である蜂子皇子を祀る蜂子神社が鎮座しています。
羽黒山 玉垣内 蜂子神社(はちこじんじゃ)。別名蜂子社(はちこしゃ)。
御祭神として出羽三山開祖である蜂子皇子(はちこおうじ)を祀る。
もともと蜂子神社は『開山堂』とされていた御堂で、社殿の内部は
畳敷きの部屋になっており、部屋の中央には鳳凰の彫刻がついた
金色の内拝殿があります。金色の御扉の奥は二重になっており、
その一番奥に御神体である蜂子皇子の木像が安置されています。
平成26年の午歳・羽黒山御縁年には、蜂子神社の御神体である
蜂子皇子の木像の御開帳が行われました。
その時に拝観した蜂子皇子御尊像は、よく知られている人々の苦悩を
一身に受けたため醜くなったという絵の姿とは違い、肌白く、穏やかな
御顔をされた『悟りを開いた後の僧侶の姿』を表したものでした。
御神体の蜂子皇子の木像は、江戸時代初期までは羽黒山五重塔の
内部に安置されていましたが、1619年(元和5年)になり、現在の
蜂子神社(旧開山堂)に安置され、信者や修験者からの拝観を受けて
いたそうです。
その後、明治時代の神仏分離令や廃仏毀釈の影響を受けた際に、
開山堂を蜂子皇子の木像を御神体とする「蜂子社」という神社に
することで廃仏毀釈の手から逃れることができました。
そのため、蜂子皇子の木像は明治の神仏分離以降、人の目に
触れることが一切なくなったのだそうです。
神職さんのお話しによれば、羽黒山第50代別当であった天宥法印は、
「五重塔」「羽黒九頭龍王の大梵鐘」と「蜂子皇子の御姿(御神像)」を
『どんなことがあっても守るべき羽黒山の3つの御物』として
指定していたそうです。
また、言い伝えによれば、蜂子皇子の御神像は前途の通り、
明治時代の廃仏毀釈の際に蜂子神社の御神体とされましたが、
その際に一部の氏子には『蜂子皇子の御神像は埋められた』と
伝えられていたそうです。
これは土中に埋められたという意味ではなく、蜂子皇子の御神像が
『社殿の奥に鎮められた』という意味の比喩だったのではということ
でした。
蜂子神社御朱印。
御朱印は三神合祭殿の御朱印授与所で拝受できます。
写真左側の御朱印は平成26年の午歳御縁年の時の蜂子皇子の
御尊像御開帳の際に授与されたものです。
写真右側のものが2017年現在授与されている御朱印となります。
厳島神社と蜂子神社を参拝して、境内を進みます。
蜂子神社を過ぎると、茅葺き・朱塗りの巨大な建物が見えます。
ついに出羽三山神社・三神合祭殿に到着です。
羽黒山 出羽三山神社・三神合祭殿。
御祭神として伊氐波神・倉稲魂神・玉依姫神(伯禽州姫命)を祀る。
その他に月山頂上に鎮座する月山神社の月読神、
湯殿山に鎮座する湯殿山神社の大巳貴神・少彦名神・大山津見神を
合祀している。
こちらの出羽神社には出羽三山の他の山々の主祭神、すなわち
月山の月読神、湯殿山の大巳貴神・少彦名神・大山津見神が
合祀されており、その3つの山々の神々を合祀してお祀りしているため
『出羽三山神社・三神合祭殿(3つの山の神々を合わせ祀る御社)』と
呼ばれています。
三神合祭殿内部に安置されている御神像。
『出羽三山 羽黒山・月山・湯殿山―開山1,400年記念』という
本によれば、中央が月山の月読神、左側が湯殿山の大山津見神、
右側が羽黒山の玉依姫神の御神像とのこと。
現在の三神合祭殿は、もともとは『羽黒山寂光寺大金堂』で、
羽黒修験の根本道場でした。建立されてから、幾度の改築や火災に
よる再建を受けていて、現在の三神合祭殿は文政元年(1818年)に
建立されたものです。
出羽三山神社・三神合祭殿は羽黒修験独特の『合祭殿造』という
独自の建築様式になっており、高さ28m・桁行24.2m・梁間18mで、
杉を建築材として使用しており、内部は総朱塗りになっています。
また、屋根の茅葺きは2.1mの厚さがあるそうです。
出羽三山神社・三神合祭殿内部。
社殿内部正面の扁額の下の御簾から先は『内陣』と呼ばれ、
内陣には金箔押しの3枚の御扉があり、その御扉の内部は
『内内陣(御深秘殿)』という御神体を安置する御神座のある場所と
なっています。
中央の御神座には出羽三山神社の月読神、向かって右側(左座)には
出羽神社の主祭神である伊氐波神・倉稲魂神・玉依姫神、
向かって左側(右座)には湯殿山神社の大巳貴神・少彦名神・
大山津見神がお祀りされています。
また、内陣の御扉の左右には『客殿』とよばれる神座があります。
写真左側の柱の後ろには『熊野殿』(御祭神:家津御子神(豊穣の神)
速玉神(死や穢れを禊ぎ祓う神)・夫須美神(冥界を司る神))の厨子が
鎮座し、右側の柱の陰には内部に黒色の大黒天の御神像を祀る
『大黒殿」(御祭神:大国主命)の厨子が鎮座しているのが見えます。
『西の客殿(熊野殿)』(写真左)と『東の客殿(大黒殿)』(写真右)。
熊野神(熊野権現)は、由緒によれば、熊野神が天竺から日本に
やってきた際、羽黒神の社殿に3年あまりお宿りになられたそうです。
その時、羽黒神は熊野神に西国二十四ヶ国を分け与えられたという
故事に基づくのだそうです。
大黒天(大国主命)は古代中国の哲学思想において、北の方角を司る
太極の神霊化された象徴であり、北の方角である子歳(ねどし)は
すべての物事の始まりや兆し・身籠りを象徴する方位で、子年の対に
ある南の方角を司る午歳は、子歳に身籠った生命が誕生する方位と
されているそうです。
また、大国主命と関係が深い子(ネズミ)は十二支の最初であるから
生命の増殖を司るとされているそうです。
午歳を御縁年とする羽黒山で執り行われている羽黒修験道の
冬峰である松例祭は、大晦日の子の刻に穀物の神霊が身籠るように
修行した山伏による結願神事です。身籠った穀物の神霊は、燦々と
した太陽の光を浴びて増殖し、午の月(陰暦の5月)に結実します。
午の月は恵みの始まりの月であると同時に、そこから枯れて死にゆく
季節へと向かいます。そのため、午歳を御縁年とする羽黒山は、
生と死・恵みと枯死が巡り会う場所とされており、陽と火の象徴である
羽黒山の午と、陰と水の象徴である大黒天の子を一緒にお祀りすることは、
身籠りと結実のサイクルが永遠に循環し、火と水のバランスが
保たれることにより五穀豊穣につながるという祈りが込められている
そうです。そのため、三神合祭殿の客殿では大黒天をお祀りしてると
いうことです。
羽黒山頂 合祭殿 出羽神社(いではじんじゃ)。
三山拝所一覧によれば、御祭神は宇迦之御魂神と玉依姫神、または
伊氐波神(いではのかみ)と稲倉魂命(うかのみたまのみこと)をお祀りしています。
出羽神社は、延喜式神名帳において、
『田川郡鎮座 伊氐波神社 名神小 伊氐波神』と記載され、旧社格は
国幣小社でもあります。
現在の御祭神は伊氐波神と稲倉魂命とされていますが、
平安・鎌倉時代の出羽神社の御祭神は羽黒三所権現を祀るとされ、
聖観音菩薩を本地仏とする伯禽州姫命(しなとりひめのみこと)、
軍荼利明王を本地仏とする羽黒彦命(うがひこのみこと)、
妙見菩薩を本地仏とする玉依姫命(たまよりひめのみこと)の三柱が
お祀りされていました。
伯禽州姫命(しなとりしまひめ)は鵜草葺不合命の妃神であるとされ、
伯禽州姫命は龍王の娘である玉依姫命と同神で、龍宮にいるときの
名前が伯禽州姫命だそうです。
伯禽州姫命は干珠・満珠という潮の満ち引きを司る宝玉を持っており、
そのことから玉依姫命という名前で呼ばれていたそうです。
また、龍宮では生死による穢れを強く忌むという掟があり、
そのため、人の世に留まり龍宮に戻らなかった伯禽州姫命は
『大物忌尊(おおものいみのみこと)』という別名で呼ばれ、
子供を産んで龍宮に戻ってしまった姉の豊玉姫命は龍宮に
穢れを持ち込んだため崇められず、
『小物忌尊(おものいみのみこと)』と呼ばれていたそうです。
玉依姫命の姉神である豊玉姫命が彦火火出見尊と結婚し、御子の
鵜草葺不合命を産むと、豊玉姫命は龍宮に帰ってしまったので、
伯禽州姫命は鵜草葺不合命を養育し、成長した鵜草葺不合命と結婚しました。
二柱の間には4人の御子が生まれ、そのうちの一人が
神日本磐余彦命(神武天皇)です。
また、一説には伯禽州姫命は玉依姫命の娘神であり、
鵜草葺不合命の第一后であるとされていたことや、伯禽州姫命は
鵜草葺不合命の御子神であるという説もあるそうですが、
いずれにせよ、伯禽州姫命は海神の娘で龍宮の女神とされています。
羽黒彦命は羽黒山の龍神である羽黒九頭竜王の御子神で、
稲倉魂命の別名であるとされていたそうです。
現在の御祭神の伊氐波神は、出羽国の国土に宿り、土地の事柄を
司る神霊である国魂神とされ、稲倉魂命は食物や農耕を司る神と
されていることから、出羽神社は国土守護や五穀豊穣を司る神社と
して崇敬されています。
三神合祭殿と羽黒山山頂の『鏡池』。
東西38m・南北28mの楕円形の池で、一年を通して水位の変動がない
神秘に満ちた池であるとされています。
古来から出羽神社の御手洗池で、また御神体であるとされており、
古書で『羽黒神社』と書いて『いけのみたま』と読まれていたなど、
この池自体が神霊の宿る場所であるとして重視されていました。
池の中からは平安・鎌倉時代に池の神霊に奉納された神鏡が
多く見つかっており、そのことからこの池は『鏡池』と呼ばれています。
また、この池には羽黒山の龍神である羽黒九頭竜王が住んでいると
されています。
出羽三山神社・三神合祭殿(出羽神社)御朱印(午歳御縁年版)。
普段は右上の『午歳御縁年』の判子がないバージョンが
授与されています。
『綾に綾に 奇しく尊と 月山神の御前を拝み奉る
綾に綾に 奇しく尊と 出羽神の御前を拝み奉る
綾に綾に 奇しく尊と 湯殿山神の御前を拝み奉る…』
Part3では出羽三山・三神合祭殿までの諸社を御紹介しました。
Part4は山頂に鎮座する摂社・末社などを御紹介します。
< 地図 >