旅立ち 07
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リリアナは、本当に久しぶりにベッドにまともに横になった気がした。ここ3ヶ月程朝も晩も働きずめだった。
1年ぶりの船旅から戻ってくる恋人を新しいドレスと部屋のカーテン、それに美味しい食事を用意して迎えたかったから無理をして働いていた。
働くことは嫌いじゃない。でも、それでも働いても働いてもお金がたまらないので時々路上に立って売春婦の真似事をする。その時だけは…体も心も痛み、耐えれないと思うこともしばしばあったが。嬉しそうな年下の恋人の笑顔を思えば我慢できないことなど何もなかった。
顔中を覆う包帯にそっと手で触れてみる。痛みは驚くほど無かった。ヴァインズの紹介だと言って来てくれた医者の処置の的確さと、置いていった痛み止めのおかげだろう。治療代は…闇医者にしては信じられない程の安い額しかとられなかった。ヴァインズがその辺の交渉も事前にしてくれてたのだろう。
(ヴァインズ様か…。)
リリアナは、ヴァインズとは何度か面識があったし仕事の紹介も受けたことがあるが、気難しい渋面しか見たことが無い。はっきり言って嫌われてると思ってたし、自分も彼を苦手に思っていた。彼のその瞳の冷たさに、何度ぞっとしたかしれない。だから…場末の自分みたいな女が役にたたなくなったら、すぐにボロ雑巾のように捨て置かれるだけと考えてたし、それが当然だと思ってた。なのに…。ふいに涙がツンと鼻にこみ上げてくる。
ヴァインズ様に頼んだのはきっとクライズだ。この界隈を一手に取り仕切る冷酷無比なヴァインズ子爵の、唯一の泣き所。それが青い瞳をしたかの有名な麗人なのは彼の下で働く者なら皆知っていた。それでも、例えクライズに頼まれたからとはいえ助けてくれた気持ちが嬉しかった。
(ありがとう、クライズ。ありがとう、ヴァインズ様。)
声にならない嗚咽がこみ上げてきて、リリアナはとうとうわんわん泣き出した。傷に障るとわかっていたが、止められなかった。そして、ひととおり涙が枯れるまで泣いたら自分のせいで死なせてしまった名も知らない人の為に祈ろうと考えた。
どれぐらいそうしてただろう…。ふと、外の通りの騒ぎが耳に飛び込んできた。
「ちょっ…副船長、そんなとこで吐かんといてくださいよぉ。」「早く戻りましょうって。きっと船長カンカンですよ!」
なんて複数の話し声が聞こえてくる。どうやら酔っ払いのようだった。
「うっせぇ。俺は今それどころじゃねぇーんだ。あぁ苦しい。おえっ」
(もう!汚いなぁ。)
声だけを聞いたのだが、状況をまともに想像してしまってなんだかリリアナまで気持ちが悪くなってしまった。どこかに早く消えて…。なんて願いながら寝返りを打ったちょうどその時、コンコンという家の表扉を叩く音がした。
こんな時間に誰だろう…。
扉を叩く音がだんだん大きくなる。
「こら、このアマァ!家にいるのはわかってんだ。出てこんかーっ!!」
聞いた事の無い声が外からそう怒鳴ったかと思うと、家の扉を激しく蹴るような音がした。蝶番がきしむ。
(やだ…。壊される!!)
リリアナはぶるぶる震えて布団の中で丸くなるしかなかった。簡単に打ち付けただけの錆(さび)だらけの蝶番(ちょうつがい)だ。すぐにドアは蹴破(けやぶ)られてしまうだろう。
「俺達の仲間を殺しておいて、安穏(あんのん)と寝てんじゃねぇー!!」
さっき怒鳴った声とは、また別の声がそう叫んだ。
それで…相手がなんの用件で来たのか、彼女は知った。なんとなく、そうじゃないかなと思い始めたところだった。リリアナはグスりと鼻をひとつ鳴らすと、静かに覚悟を決めてベッドから起き上がった。
枕もとに立てかけた、恋人の小さな肖像画に目を向ける。絵の中で、優しそうな丸顔がにっこりと笑いかけていた。
リリアナは彼の笑顔がとても好きだった。そう言ったら、恋人は彼も貧しいだろうに、無理をして画家から自画像を買って贈ってくれた。商船に乗って長旅に出る前のことだ。「君のもとに戻ってくるまで、僕だと思って持っていて欲しい。」それが彼が別れ際に言った言葉だった。その日以来、リリアナはずっとその絵を大切にしてきた。でも…。
(ごめんね。もう…私無理みたい。)
頑張って生きてきたけど。今度こそ無理みたい。絵にそっと告げ、彼女はベッドから立ち上がった。
思えばあいつの仲間が仕返しにくるかもって考えもせずに、楽観視してた自分のほうが悪いのだ。
ドアに辿りつくと、今にも破られそうに悲鳴を上げてるボロボロのドアがあった。蹴ってる拍子に、ドアの腐った箇所を突き破ってしまったらしい。
ドアの破れた板の隙間から、かなりの人数の大男が押しかけてきてるのが見てとれて、覚悟してきた筈なのに…リリアナは怖くて足がガクガクと震えた。
「おぉ!出てきたか。早くこのドア開けやがれ!」
ドアの隙間からリリアナを見てとった男の一人が、にんまりと笑った。怖い…!このまま時間が止まってしまえばいいのにと彼女は願った。だが、いつかはドアは破られ大男達がこの部屋に押しかけてくるだろう。どうせ結果が同じなら、せめて逃げずに自分から出て行きたい。
リリアナは唇を血が出る程強く噛み、その痛みで足の震えをなんとか押さえた。
「今開けます。」
自分で思ってたよりも、ずっとしっかりした声が出た。それに勇気づけられて、リリアナはドアを開けた。
大男達は全部で6人だった。それがずらりと扉の前で彼女を威嚇するように囲んだ。
「あの…なんですか?」
とっくにやったことがバレてるとわかってはいたが、無意識に聞いてしまう。
男達の表情が、とぼけんなとばかりにさらに険しいものに変わったので、彼女はたじろいで後ろに下がった。下がりながら、なんとはなしに泳がせた視線の隅に、さっき聞くとも無しに聞いた酔っ払いらしき3人の人影がうつる。
「た、たすけて…!」
思わずそちらに向かって声をかけた。声は震えて叫びにならなかった。小さく押し潰(つぶ)したような声しか出ない。
それでも。人影の中心で屈んだ男が彼女のほうを向いた。もとは良い品だったのかもしれないが、泥で汚れたよれよれの「元」白いシャツに、馬皮と思しき茶色のズボンを履き崩したいでたちの男だった。髪は…かつら屋に売ったら高そうなハニーブロンドで、それを頭の後ろでひとつに結んでいた。
その男は、精気の無い虚ろで真っ青な顔をリリアナに向け、そして…逸らした。
声が届いたと思ったのは気のせいだったらしい。あるいは、奇跡的に聞こえたにしても関わり合いになるのが怖かったか。
(そうよね…それが普通だもん。)
リリアナは目を背けたその男に向かって思わず沸いた怒りを、無理やり押さえ込んだ。
誰だって自分が生きるので精一杯。私があの人の立場でも…きっと関わりたくはなかった筈だ。もしかしたら逃げ出してたかも。クライズのように腕が立ち、優しい男のほうが珍しいのだ。
「中に入って話そうや。」
にやにや笑って6人の大男達の一人がリリアナにそう言うと、彼女は諦め顔で、黙ってうなずき男達を中に招き入れた。
「いいんですかい?」
大男達を飲み込んで閉じられたドアを見つめながら、酔っ払いの中の一人が言う。気づかないふりをしていたが、その実その場にいる全員がその騒動には気がついていた。まぁ、あれだけ騒げば当たり前だが。
「うっせぇ。そう思うならお前らが助けてこい。」
輪の中心で屈んでそう言い返した金髪の青年はまだ嘔吐感が抜けきれてないらしく、屈みこんでお腹を押さえている。
「そんなぁ。」「無茶言わんといてくださいよぉ。」
なんて周りを囲んだ二人が口々に言うのを手で制して彼は、「だってめんどくせぇんだよ!!」
と非道この上ないセリフを、堂々と威張りくさって言い放った。
>>08へ続く