今日のブランシュは、朝から出窓・・・
最近出窓にいる率が高くない?

ブ「年末のファンサービスでしゅ!」
ファン? ・・・確かにご近所に数名いらっしゃるね。
“握手会”でもしてみる?
・・・あ、“猫パンチ会”になっちゃうか・・・!?
それとも“シャー! 会”?
日焼け対策をしっかりして、今日も午後から庭仕事・・・
“バレリーナ”を誘引していた玄関わきには、
鉢植えの“ギスレーヌ・ドゥ・フェリゴント”を誘引しました。

枝の長さが少し足りませんが、
まったくトゲの無い“ギスレーヌ・ドゥ・フェリゴント”・・・
鋭いとげのある“バレリーナ”と違って、狭い場所での作業も楽々です!
さて、中欧旅行記を続けてまいりましょう。
今日は、いつもにも増して長めです!
覚悟してお読みください。
プラハでの自由時間・・・
“市民会館”を出て旧市街を歩きます。

まず買い物をするため、“エルペット”に戻りました。
ランチ前に添乗員さんの案内で行った時に大体決めておいた品は、
お取り置きしてもらってました。
ガーネットのアクセサリー・・・
私用のブローチと、娘用の指輪です。

チェコ産のガーネットは、黒に近い深みのある赤色をしていて稀少価値があるそう。
お値段の相場はわかりませんが、
思ったよりいいお値段がしました。
旅の思い出の品として、大切にしたいと思います。
次に“ムハ美術館”に行きました。
(日本ではフランス読みの“ミュシャ”の方が一般的ですが、
チェコ語では“ムハ”ですね!)

チェコ生まれのムハ・・・
挿絵画家として演劇雑誌の仕事をしていた時に迷い込んできた
フランスの大女優“サラ・ベルナール”のポスターの仕事をきっかけに、
ポスター制作や衣装、舞台背景のデザインなどの分野で大きな成功をおさめます。
草花を多用した繊細でち密な手法、流れるような曲線美・・・
彼が描いた明るく華やかで神秘的なポスターは、
日本にもたくさんのファンがいますよね。
(私も大ファンの一人です。)
“ムハ美術館”には、それらのポスターの他、
ムハの家族によって未公開のまま保管されていた作品が、展示されています。
アメリカ各地でも個展を開いたり、美術学校で教授をしたりして活躍をしたムハですが、
1910年、“市民会館”の壁画制作のためにプラハに戻ります。
ムハ美術館では、プラハに戻ってきてから手掛けた作品の展示も見られます。
オーストリア・ハンガリー帝国時代にチェコ語教育資金を集めるためのポスターなどには、
故郷を愛するムハの魂が感じられます。
でも・・・
1フロアだけのこじんまりとした美術館で、
日本で開かれた数々の“ミュシャ展”を観てきた私にはちょっと物足りなかったかな?
“ヴィート教会”のステンドグラスも“市民会館”の市長の間も見られなかった今回の旅行・・・
その悔しさを晴らすほどの満足感は、残念ながら得られませんでした。
因みに、ムハがスラブ民族の民族意識の復興を求めて描いた大作・・・“スラブ叙事詩”は、
旧市街から少し離れたヴルダヴァ川対岸の国立美術館で展示されているそうです。
今年の春、新国立美術館で開かれた「ミュシャ展」で観ていましたので、
今回の予定には入れていませんでしたが、
半日の自由行動では、時間的にも無理でした。
その次に、今回の旅行で夫が一番行きたかった場所を尋ねました。
それは、この“ヴァーツラフ広場”にあります。

広場と言うより大通りのよう、
周りにはデパートやホテルが立ち並び、プラハ最大の繁華街になっています。
後ろを振り返ると、白薔薇の咲く花壇越しに“国立博物館”と“ヴァーツラフ像”が見えます。

1956年に起こったスターリン批判の影響は、チェコスロバキアにも波及し、
当時の政権に対する批判が高まってきました。
1968年1月改革派のドブチェクが党の第一書記に就任し、自由化政策が取られ、
「人間の顔をした社会主義」を目指します。

言論の自由を得た人々は、
この“ヴァーツラフ像”の周りでデモをし、演説をして「プラハの春」を謳歌します。
しかし、同年8月には、ソ連軍が軍事弾圧にかかります。
戦車が広場になだれ込み、
市民の抗議の嵐の中、プラハの中心部を制圧し、
ドブチェクらを連行していきます。
「チェコ事件」と言われるこの出来事で、「プラハの春」は踏みにじられてしまいました。
夫が尋ねたかったのは・・・
3つ上の写真にも写っている植え込みの一角、
気づかず通り過ぎてしまいそうな場所にひっそりとある、こちらの碑・・・
ソ連軍の侵攻に抗議して焼身自殺を図った二人の青年の名前と顔が刻まれています。

当時21歳だったヤン・パラフとその仲間たちは、その決行者をくじ引きで決めたそう。
この事件の後には、祖国のために殉死する者が何人か出ました。
彼らの死は「プラハの春」の悲しい結末を象徴する出来事となったのです。
1989年の「ビロード革命」を経て、晴れて自由な国になった祖国を、
この場所から2人は、どんな気持ちで眺めているのでしょう。
ガイドブックにも載っていない小さな碑ですが、
市民が備えた花束が置かれていました。
「プラハの春」、「チェコ事件」は、社会に興味を持ち始めた当時中学生の夫にとって、
とても衝撃的な出来事だったようです。
小説「プラハの春」(春江一也著)にも、この広場の光景が描かれているそうで、
共産主義の招いた悲劇の舞台となったこの場所を、
いつか尋ねてみたいと思っていたようです。
夫より少しだけ若い私は、まだそんなことには興味がなく、
(・・・というか、大体そういう社会情勢には疎い
)
当時の記憶はありません。
その後も不勉強で、よくわかってませんでしたので、
今回の旅行をきっかけに、改めて勉強しなおしました。
添乗員さんにも薦められた「プラハの春」・・・
時間があったらいつか読んでみたいと思います。
こんな悲しい出来事があったことを忘れたかのように、
たくさんの人で賑わう現在のヴァーツラフ広場・・・
「プラハのシャンゼリゼ」と呼ばれることもあるそうです。
広場の周りには、おしゃれな建物が並びます。
イギリス資本のデパート“MARKS&SPENCER”の隣の“スグラフィット装飾”の建物は、
16世紀ころのものでしょうか?


19世紀~20世紀初頭にかけては、“アールヌーボー様式”の建物も建てられました。
こちらの“ホテル・エヴロバ(ヨーロッパの意味)”は、
プラハの“アールヌーボー”の最高傑作と言われています。

お隣の“MERAN HOTEL”も素敵です!

この他に、ウィーン分離派の流れをくむヤン・コチュラが建てた建物もあったそう。
・・・あとで知りました。(写真はありません。)
プラハでも、市場に行く時間はありませんでしたので、
代わりにスーパーをチェック・・・

黄色とオレンジのパプリカがやたら目立ちます。
キュウリは日本の2倍くらいの大きさ。
ヨーロッパでは定番ですね!
調味料コーナーには、わさび、お醤油、海苔、
そしてガリまで!

お寿司ができそうですね!
生鮮食品売り場には、魚は1匹もいませんでしたけど・・・・?
“カレル広場”を通って、“新市民会館”の建物を横に見ながらホテルに戻りました。

この後、ディナーに出かけて、中欧旅行最後の夜を楽しみました。
その様子は次回に改めましょう。
オマケ・・・
散水栓のハンドルの横に、何やら怪しいものを発見!
冬眠中のカエルです!

毎年このあたりにやってきて眠っちゃうのですが、
今年は、よりにもよって、ハンドルのすぐ隣!
起こしてしまうのはかわいそうだから、そっとしておいてあげるけど・・・
暗がりでハンドルをひねるのだけは、やめておきましょう。

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