派閥や国や人種や宗教や権力などいろいろな理由で人々は境界を作り、その枠組みの中で日々を生きている。
そんな境界を、線引きを神経質に捉えなくたって、人々はみな最初から境界を持って生まれてきているとは考えられないだろうか。
人間は意識を、魂を晒して日々を生きているわけではない。コアを筋肉や皮膚で覆い、さらにそんな肉体を衣類などで守り装飾している。
どんなに近しい人との間にも、同じ想いや時の中で生きていたとしても、肉体や皮膚という絶対的な境界は存在するのだ。
そのことを考え始めると、世の中の境界を奪ったり守ったりするための争いをばかばかしく感じてしまう。虚しくて、とても無意味なもののように思えてならないのだ。
真に境界を超えられる存在なんて、人間というカタチで生きている限り現れない。
たとえ目に見える何かは奪えたとしても、目に見えないものまでは奪いきれないのだ。皮膚の先の魂までは、強制的に奪えたとしてもいつかは魔法が解ける。


もしかすると、人間は本能のどこかで分かっているのかもしれない。人と人との境界を超えることは不可能なのだと。
それでも、超えたいから足掻くのだろう。伝えたいともがくのだろう。
何も憎しみの先で起こる争いに限ったことではない。好意や愛情の先で起こる数々の出来事でも、同じことだ。
その手に触れたいと望む。触れた手から想いが伝わればいいと願う。
温もりで相手の境界を超えられたらいいのにと、境界の先で震える魂が癒せればいいのにと祈る。
まるで悟りきったようなことを書き連ねているように見えるかもしれないが、一応私も人並みには境界を超えられたらいいのにと望んでいる。望んでここまで生きてきた。
叶えられないかもしれないけれど、叶ったら奇跡くらいの感覚で、願ってきた。
現状では叶ったこともいくつかあると思う。望みを引き寄せて今があるともいえるとは思う。
根源的な部分では超えられない境界を意識しながら、居心地のいい時を手繰り寄せて、生きてきた。
これからもきっと、面倒くさいことを考え続けながら、生きていくのだろう。
いろいろな境界のカタチに出会いながら。



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