航空機のフライトプランのように、他の公共交通の停車駅や停留所みたいに、パーキングエリアや少し目を引く看板などの目印のように。
私の人生が進んできた道に分かりやすい道標があったかと言われると、学生時代の卒業から先には無かったような気がしてならない。
正確に言うと、過去を振り返るとあったと言えるけれど、未来に進んでいく上ではあって無いようなものに感じるのだ。
確かな目的地を決めなくても右に左に彷徨っているうちにいつの間にか何かしらの未来に繋がっていて、振り返ると道標と言えるような名前を付けることができる。その繰り返しだ。
道標となる出来事や場所の計画を立てて進むことももちろん楽しい。しかし日時まで細かく予定を立てすぎると、いざそれが御破算となってしまったときの混乱は比例して大きくなる。
思い当たりがありすぎて自分自身や取り巻く状況に失望すらしてきた私は、何が起こるかその時になってみないと分からない、先の見えない未来を好むようになった。
アタフタすることはもちろん十二分であるが、何でもいいからとにかく進む!と潔く覚悟を決められることが多いので、行き当たりばったりさが好きな性分なのだろう。
そうじゃなきゃ例えばこのエッセイをひいひい書いていることなんてないのだ。前にも書いたぞどこかのお題で。
誰かが立てた旗を目指して進む人生なんてつまらない。
誰かが歩いた道をそのまま後ろからなぞっていくなんてもっとつまらない。
人生という旅には誰かしらの血族なり同伴者なりその地のサポーターなり村人Aなりがいる。
そんな他人と出会い悲喜こもごもを味わいいつかは分かれる。旅は道連れ世は情け、この言葉は人生の旅にも相通じるものがある。
しかし時にはこの言葉を肯定できない。
旅は独りで世は自己責任、今の世の中この言葉が正しいように思えてならない。
順調に思い描いた道標を辿ってきたはずだったのに、景気含め世の中の風当たりの強さに道標が損傷している人だっていることだろう。
次にどの方向へ進めばいいか見失ってしまう。どこに進んだって生きにくい旅路しか待っていない。そう考えている人も世の中にはいることだろう。
だったら、独り旅を始めてしまえばいいのだ。自由を得るための自己責任を背負う覚悟を決められたら、それだけで旅路の荷物はきっと軽くなる。
どこを目指してもいいからとりあえず初めの一歩を踏み出したくなる。
良くも悪くも自己責任で突き進んでいる人を見ていると、どこかのタイミングで独り旅を始める覚悟を決めていたのではないかと考えてしまうことがあるのだ。良いことばかりであってほしいのだけれど。
もしも未来の道標まで細い糸で繋がっていたとしたら、それは未来が現在を変えていくということになるのだろう。
未来の自分が道を繋ごうとしてくれているなら、ありがたく受け取って自分の糧にしてしまえばいい。
時には垣間見えた未来からの糸を無視して進んでしまうこともあるかもしれない。無視したと思ったら別な糸に絡め取られて~なんて某同人CDの一幕のような言葉遊びをしてしまいそうなのでやめておくが。
これからも数えきれないほどの選択をするだろう。身近な道標を意識の中でいくつも設置するだろう。
そのすべてを私らしく辿っていけたら、きっと、満足して生き抜いていけそうな予感がする。そんな未来に立っていることを、まず現実の私は信じよう。
(C)Aoi Tact