突然あなたは裁かれますなどと言われてみて、思い当たりがあるかと問われたら、現時点では無いと言える、と思う。
ただ、無いと思ってみても、もしかすると何かしら思い当たらないところに理由があるのではないかとも考えてしまう。
私にとって罪ではないことが裁く誰かにしてみると罪だったり、逆のことも大いにありえるだろう。
だから基本的に、私は何かしらの指摘を受けたとき、どんなにぶっ飛んだ内容であったとしても、そのことについて考えを巡らせるようにはしている。
ただ、匿名という形であれちゃんと指摘してくれないと考えない。陰口は論外なのだ。
私以外の人間が首を縦に振っても、私自身が首を横に振ってしまうような内容であれば、正攻法遠回しはその時々で決めるとして一応反論もする。
結果的に私が間違っていたとしても、間違っていたことを不服に感じたまま受け容れるのは、どんな相手であれよろしくないと思うのだ。言わないで後から文句を垂れるのは実にみっともない。
正義感といったものに対しての私のポリシーは実に頑ななのだ。
みんな違ってみんないい。人にはそれぞれ感情や考え方があるということを私は人一倍心得ているつもりである。私自身が人並み以上に個性的なのを自覚しているからだ。そしてそんな自分自身を周りに受け容れていただいている現状がある。
ただそんな中でも他人にはやりたくない、というよりやらないと決めていること、やられたらあらゆる手段を使って反撃すること、
そして他人事でも周りにいる人がやられていることを知ったら烈火の如く怒れることが私の中にはいくつか存在する。
法を犯すことはもちろんとして、その中でも他人のものやお金を奪ったり悪用したりといった悪さをすること、謂れのない罪を他人に擦り付けることだ。
前者も後者も、もしかするとやむにやまれぬ事情があったり他人にそそのかされて行ってしまう場合だって勿論あるだろう。ただしそれは事実の後付けにしかならない。
行われたことに傷つき被害を被る個人や集団は確実に存在するのだ。大事と考えず偶然の連鎖の末軽い気持ちで行われたことには特に虫唾が走る。罪に問われないなら今すぐにその面をぶん殴ってやりたいと常に思える。
おっと、つい言葉が過ぎてしまった。まるですでに起きているかのように語ってしまった。いや起きているんだけど。もう数年耳に入れてから怒りが収まらないのだけれど。
私が特に怒れるのは、周りにいる大切な人たちが被害を被ったときだ。怒りの念で犯人に罪を償わせられたらどんなにいいかと思う。私には一欠片もそんな力は眠っていない。
私がやりたくないことはもう一つあって、それは大切な誰かが被害を被ったとき、必要以上にしゃしゃり出て場を混乱させないということだ。
出来ることなら私が代わりにぶん殴ってやりたい。ただそれは大抵の場合本人にとって余計なお節介になってしまうのだ。それも過去のいろんな場面で痛感した。
ただでさえ過剰な正義感を持っているであろう自分は、そのことを常に念頭に入れて行動しなければいけないと思っている。それは今も実行し続けている。
代わりに動けない分、傷を和らげるために話を聞いたり、または立ち向かう背中を押すためにやはり話を聞ければいいと思う。他人事に関して、私自身にできること、していいことは嫌になるくらい少ないのだ。
正当な裁きというものが果たして起きた出来事に対して真っ当に行われるかと言われたら、残念なことに行われないとしか答えられない。
真っ当な裁きが下されるというなら、誰かにとって大切な人を殺めた者はみな等しく息の根を止めることで償わなければいけないように思えてならない。
現実では全てが全てそうなっていないことがそれを証明しているように感じる。そしてその憤りは、時に連鎖していき止まらない。
誰かを不幸にしようとするなら、同じくらい自身が不幸になる覚悟無しに、他人を不幸にしてはいけないのだ。
そう、私は、怒り続ける出来事を思い返しながら、いつもその言葉を繰り返す。自戒のように。
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