責任の取り方というものが、どうにも即物的であるように感じる。
世の中の出来事を斜め読みしたり、身近な出来事でもそう感じる。
その物事に対して精通していた人を簡単に蹴落として、責任を取れとそのポジションから外して、
果たしてそれが解決へと繋がっているのだろうか。
後は頼むと言い残された側の負担が増えるだけではないだろうか。
また、後は頼むと言い残された側が蹴落とした側を恨んだりしていることもあるのではないだろうか。
本人はその物事に向き合い、その後も向き合い続けたいと思っていた可能性はゼロだろうか。
その環境に流れる空気がその人一人を消せば何事も解決だという流れに偏っていた可能性はゼロだろうか。
それを、理不尽にしか見えないそのことを、一時期猛烈な恨みと共に考えていたことがある。
そこから、責任の取り方というものについて考えてみる機会は増えた。
世の中の出来事には、疑問を感じる部分が増えた。
まるで、それこそが正しいのだというような思想に、導かれているような錯覚を抱く。
それはなんだか、本意ではない。誘導された先の意見しか持てていないような、人間性を否定されたような感情も抱く。
それはなんだか、私らしくない。反対側の意見も、第三者の意見も、見逃すことなく俯瞰するべきなのだ。
どうしても反対側の意見なんて聞きたくないと思うことも、全否定してやると策を練りたい出来事もあるわけだが、
行動しきれていないまま燻った考えだけ持ち続けてここまで生きてきた私がいるという現実がある。
ただ、考え続けることはやめないでいたいと思う。
それで折り合いを付けたつもりでいるなら、大きな勘違いであることを、
考え続けることはやめないでいたいと、思う。
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