いわさきちひろ生誕100年 Life展@ちひろ美術館・東京(練馬) | ☆♪ブラックジャックの気ままな日記♪☆

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過日、NHK日曜美術館「夢のような甘さをこえて」が放送されていました。(初回放送は8/12)

 

タイトルだけでは分かりづらいのですが、要約すると、「いわさきちひろ」がテーマになっています。


今年は、いわさきちひろの生誕100年であり、「生誕100年 いわさきちひろ、絵描きです。」@東京ステーションギャラリー(9/9まで)が開催されていました。見所は、

 

「絵描き」としてのちひろの技術や作品の背景を振り返る。


僕が訪問したのは、10/28(日)まで開催されている、東京都練馬区にあるちひろ美術館で見所は、

 

ちひろ生誕100年を記念して、7人のアーチストとコラボした「Life展」を開催し、見て、触れて、あそんで、ちひろを再発見。

 

 


Eテレの日美では、ちひろの生涯を辿りながら、みなさんが知っているちひろの絵に至るまでの道筋に焦点を当て、最晩年の変化についても触れていました。


いわさきちひろ(1918~1974)は、こどもや母子を描いた作品で有名。その作品は、「こどもから大人まで幅広い層に愛されて」おり、「海外でも高い評価を受ける」。作品数は9000を越えて、その殆どが「こどものための絵」。

 

ちひろは、『自分の絵に、もっと「ドロ臭さ」がなければいけないのではないかと、ずいぶん悩んできたものでした』

 

「ドロンコになって遊んでいる子どもの姿が描けなければ、ほんとうにリアルな絵ではないかもしれない」

 

「その点、私の描く子どもは、いつも夢のようなあまさが、ただようのです」


いわさきちひろさんが好きな芸能人が語ります。


・ちばてつやさん
目の表情に個性があり、通常は白目と黒目を描くが、ちひろの場合は、スイカの種みたいな目を描く。嬉しそうな表情が伝わる。全般的に余白を残し、絵そのものの世界観を描写する。

 

好きな作品は、「母の日」。

 

その手法を、「あしたのジョー」の最終場面に応用。

 

全てを出しきったジョーが椅子に座り、説明的な描写を極力避いた(描かないでも感じさせる)。

 


ちひろ(岩崎治弘)は、陸軍で働く父と女学校で教師をする母の間に長女として生まれた。

 

ちひろが感化されたのが絵雑誌「コドモノクニ」。12歳で女学校に入学し、二年生になり、絵を描く。17歳の時、最年少で女流画家グループの展覧会に入選し、審査員には藤田嗣治もいた。

 

両親の強い勧めもあり、見合い結婚。夫の転勤先である旧・満州(大連)へ向かう。愛していない夫と結婚し、二年後、夫は精神を病み自死。1941年に帰国し、絵に没頭し、描く事で過去を忘れる様に。

 

そんな中、開拓団の女子たちに習字を教える様に、満州行きを頼まれる。絵の道具を持ち、途中で東洋のパリと言われたハルビンに立ち寄りスケッチする。

 

ただ、開拓団の拠点に着くと物資も食料も不足し、習字の教室どころでは無かった。あまりのひどい環境に、ちひろは体調を壊して、知人の軍関係者の計らいで帰国した、教え子たちをその地に残したまま。生徒たちを守るべきはずだった大人の私が知らず知らずのうちに見捨てていた。

 

この経験が、その後のちひろの歩みに影響を与えたと、黒柳徹子さんが言う。

 

・黒柳徹子さん

「全部、自分が気付いていなかった事が悲しく、恥ずかしく、なんと自分は至らない人間だったのだろうと」という気持ちになられたと思う。


子供をたくさん描くことで、「子どもたちを泣かさないようにお願いします」


戦後、ちひろは親元を離れる。そして一人で画家としての道を歩みだす。丸木俊の画風に影響を受けて、鉛筆を押し付けて、強い線で描いていた。また、当時の労働者階級を描いた、力強く生きる大衆、生活の泥臭さを出すのが、セオリーだった(当時の作風)。

 

ちひろが31歳の時に、再婚する。親が決めた相手ではなく、自ら恋におちた人。(彼女は、いわさきちひろ、絵描きですと自己紹介した)

 

翌年に長男(猛)が誕生し、油絵で「ハマヒルガオと少女」を発表。ちひろというと水彩画のイメージが強いのですが、元々、戦前に絵描きを目指していた時も油絵を描いていた。描いているもの・対象は、お花と子ども。ちひろの油絵作品は厚みが無い(薄い:空間的なもの)が、水彩画になると薄い空間のまま成立し、浸透する。描いているものは変わらないが(お花、少女、親子)、ただ、それを現すための表現方法、材料が変わった(墨があったり、鉛筆、或は油絵、水彩:材料で遊びながら描きたいものを描く)。

 

1970年に「となりに きた こ」を発表。当初は墨によるモノクロームの作品を構想していたが、全てを描き直す、全てを鉛筆ではなくパステルで。鉛筆よりも太い線となるパステルを使い、パステルの腹も。その中で、水をたっぷり含んだ筆で、パステルを溶かす。適度にざらつきがある事で、透明感ある姿と共に子どもたちのわんぱくさを表現した。


愛する家族と暮らし、好きな絵の仕事も順調だった。しかし、病が襲う。
(東京都練馬区にあるちひろ美術館では、アトリエを再現した部屋があります)

 

亡くなる一年前、54歳の時に「ぽちの きた うみ」を発表。
そして同じ年に、全く対極的な絵本を手掛けた「戦火のなかの子どもたち」(当時のベトナム戦争の悲惨さに心を痛めた中での作品)


・高畑勲さん
ちひろの絵の顔の向きに注目し、「見る人に感じさせる 考えさせる絵」と表現する。

 

2017年4月16日に安曇野ちひろ美術館の講演会にて、以下述べている。

 

「ちひろさんの横顔の特徴は、つい見つめざるをえない、こちらに直接訴えるのではなく、こちらが能動的に、この子は一体何を考えているのだろう?気持ちを読み取ろうという 気分にさせる力を持っている」

 

この横顔に応用された作品が「母をたずて三千里」の第一話で、主人公の自分(マルコ)にだけ母親の行く先を知らされていない、スネて頑なに見送ろうとしない横顔。

 


いわさきちひろ生誕100年「Life展」あそぶ Plaplax

 

https://100.chihiro.jp/

 

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展示が4つのブロックで成立し、展示1、2では作品と共に、絵具、鉛筆などを触ると音が奏で、白い絨毯で動くと、色合いが変化し、展示3は上述の通り、ちひろのアトリエが復元され、展示4では絵を見るための遊具であり、展示4のみ写真可能。

 

アトリエ付近に書いてあった文章も印象的でした。

「捨業(すてわざ)、惜墨(せきぼく)と書いて、小さくまとまりがちな自分の画風を崩し、細部にこだわらずにより大胆に描く」

 

以下は、展示4の場所。

 

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僕は、何時ものチケット屋さんで購入したのですが、チケットを提示することで葉書などが一割引きでした。個人的に好きな作品3つを購入しました。

 

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最寄り駅は、上井草で、交番で場所を聞いてみると、案内図を配布されています(地図で確認したものの、交番のお巡りさんに聞きました)。