sadness





  人は必ず悲しいことを覚えて生きていくのに、悲しいことは必要性のないことでやっかいなことって考えてる。
  悲しみは美しい、そんな言葉がありふれているけど、どうも詩的で現実味のない装飾的な言葉。ませた少女に「かわいいね」ってお世辞をいうように軽い言葉。
 その真意を求めている人はいるんだろうか。
  
  悲しいことばかりおこると、もう散々!って思うけど逆に悲しみって美しいって自分に言い聞かせてみる。
 その由来や、そのあとなにが待ってるのか、主観的にも客観的にも考えて、この悲しみになんとか意味を持たせようとしてみる。
  ネガティブをポジティブに変換・・・それは、悲しみに失礼なことになるだろうか。

  悲しみがそっと私を包み込む。孤独で、危うくて、苦しくて、冷たくて耐えられない苦痛。そうしたものを感じるとき、つい最近、私がそれを感じたとき。こう思った。
 「悲しみよ、君は私をどうしてくれるの」・・でも、悲しみはこっちを見もせず、答えもしない。じっとそこに在って、私の孤独を増やしていく。
 でも逃げ出すこともできず、耐えることもできず、私は悲しみの背中を見つめる。背中なのか、正面なのかわからないけど、ひんやりと心が冷えていくのだけ感じてた。
  悲しみは、何を言うでもなく、いつか去っていく。でも、それをきっと悲しみはわかっていて、なのにその瞬間すっぽりと私を包み込んでしまう。いつかふり払われて、口も利かず、慰めも受けず、責められもせず、無意味に処理されて終わるのをしってて、それでうっとおしいなんて言われるのもしってて、きれいにすっぽりと私を包んでしまう。
 それはどこか優しさに似てる。でも優しさは頼りなくて、少しおしゃべりすぎる、少し騒ぎすぎる。信じられなくなったり、疲れたり・・・なのに悲しみってやつは、何も語らない。なのに人をどっと疲れさせて・・でもときに、それが終わった後にすっきりさせてくれたりする。それなら無意味なことなんてないのに。なんで悲しみはああも悲しいんだか。
 あそこまで人を覆い尽くせる力もそうない。それに、そこまでしても簡単に取り払われるものもない。悲しみ自体に打ちひしがれる人は少なく、悲しみがやってきた道を途方もなく見つめたり、その道を避けて避けて嘆く人ばかりで・・悲しみのしごとは、その人をすっぽり包み込むこと。
 そのあとには、だれかの慰めがあったり、立ち直りだったり、学習だったり、ときの流れにもまれて悲しみはどこかへ行ってしまう。その軽さ、重さ、やわらかさ、硬さはなんて自由で美しいんだろう。醜いと思う人はいるんだろか。
  私は美しいと思うな。その人を簡単にすっぽり包んで、どこかへいってしまって、それに厚かましいことなんて何もない。そっとそばに来て、すーっと消えて、またやってきて、人を悲しませて、また笑わせたり、その人を終わらせてしまったり。だとしても、悲しみは美しい。なんて潔いんだろう。

  そんな悲しみを突き飛ばして、それでももう悲しみのなかに包まれているのに、あがいて、あがいて、わめいて、それなのに傷つきもしない悲しみ。もっともっと、その人を包み込む。そんな生きていくうえで感じている悲しみというなの"自己愛"。
 なぜそう喜びや、優しさなんてものを人は求めるのだろう。形のない感情というものたちのなかでも、一番信じられるのは悲しみだろう。危ういけれど、たしかに自分という心の一番近い知り合い。一番安心していいもの。
 たとえ苦しかろうと、耐えがたかろうと、私はそれを否定しきれない。毎日が幸せで、楽しくて、優しさに満ち溢れている。それがリアルな人生といえるんだろうか。そんな日々を振り返って、人はほんとうに幸せだったといえるんだろうか、孤独でなかったと。
  孤独を知っている人が、本当に人との時間を理解できる。幸せに満ちた人が、悲しみをよく知っている。そうゆうものだと、だれもが理解できるだろう。

  「悲しみよ、きみは私をどうしてくれるの」なにも答えない悲しみは、なんて謙虚で美しいんだろう。優しさのように、幸せのように、「それは私がいればあなたは幸せになるから」とも言わない。人を不幸にさしてるのを知ってる。でも謝りもしない、笑いもしない。何も言わない。ただその人を包んで、いつか自由にしてくれる。
 ある種の教育者のように、悲しみはやってくる。ある種の母のように、悲しみは私たちをきれいに包み込み、その涙をみとって、その苦しみを乗せて、私たちに歩き方を教えてくれる、寛大な女神だと思う。
 悲しみよ、私はあなたに感謝したい。そしたらあなたは私を呪って、一生悲しいままにしてしまうんだろうか。きっと悲しみは知ってる、いつか幸せにならないと、私の存在はなくなってしまうから。幸せと不幸、喜びと悲しみは、たがいに存在しないと、私たちは生きていけないから。そう知っている。それは自分自身が幸せになるための"自己愛、人間愛"。
  だから悲しみが去っていくのを感じて、なにもいうわけでもなく、やってくる幸せを自然と受け入れて、悲しかったこともいつかの瞬間に忘れる。そんな心の人生に、人間として語らう人生でなく、だれも知らない、感情というなの来訪人に感化されて、人は人生とかっていうのを生きられる。人格というものを知っていく。

  悲しい。つらい。耐えられない。痛い。
 その言葉たちは、なんて美しいんだろう。刀は美しい、けれど人を切るものであるから醜い。そうゆうことだろうか。人を苦しめる、けどそれを作り出したのは人で、その存在に感化されている人間は、たくさんのことを学ぶ。
 命、技術、なすこと、成されること、美しいと思うこと、考えること、すべて・・・
  そして私は思う。悲しみは美しい。喜び、優しさ、幸せは耐えがたい。そうして悲しみは私を包んでいくけど。そのすべては私自身のなかの感情たちで、いつもそばにいる存在で、そのすべてを"人"というなら、なんて人は美しいんだろう、と。

  幸福の連続は耐えがたい。そんな悲しい言葉を言った人がいる。そんな悲しい言葉はなんて美しいんだろう。その言葉で思いを巡らせると、幸福はたまにちゃんとした姿を表してくれる。幸せとはなんだろう。そして、毎日笑えること、生きていること、悩むこと、気楽でいること・・そうしたありふれた幸せを考え直す。
 そのすべては、悲しみのおかげでできてることを知る。まるでカオスから生まれたガイアのように、地という大きな存在で、でもその存在を大きく知らしめて、そしてたくさんのことを私たちのなかに産み落としてくれる。人はいつも反抗期だ。自分自身のことに対して腹を立て、悩み、泣き、嘆き、でもいつかきっと笑える日がきっとくる。それは誰のおかげでもなく、自分が生きて時間をきちんといただいているから。
 そして、悲しみという女神にきちんと胸に抱かれているから。危ういというのは、自分ひとりの孤独がなすこと。孤独とは、対比させるものを失って、盲目の闇。でも、そこに降り立つ悲しみはいつも正解を示してくれる。孤独であっても、悲しみはそっとそばにいて。悲しくない。なんていわれたって、そこに悲しみの悲しみがやってくる。
  しつこくて重たいもの、でもそのおかげで私たちはいつだって考えることが、生きることが、学ぶことができる。
 
  優しさは美しいですか。悲しみは醜いですか。
 私は、悲しみに優しい少女でありたい。そして、悲しみのように、どうせ完璧など目指せないのなら、悲しみでいっぱいでも、なにかを生み出せる少女でありたい。ありふれた、偽物の優しさ、幸福を信じてまた悲しみに振り返ることなら、私はいつも悲しみに微笑みかけて、いつも悲しみに泣かされて、それでも悲しみによりそって、たまに訪れる幸福を抱きしめて、たまに悲しみもその輪に混ぜてあげたい。
  悲しみが無意味だとしても、必然的にやってくるそれに、どう耐えられるか。それを考えると私は悲しくなる。つらくなる。これがまた現れると思うとつらくて泣きそうになる。だけど、たまに現れるそれらの感情に頼りない安心感と不安を覚える。
 悲しくてつらいけど、私は心の底から思いたい。悲しみは美しい。なんて寛大で、たくましく、潔く、人を作っていくうえで大切なことなんだろうと。ネガティブでなにがいけないんだろう。貧しくて、不幸で、なにも悪くない。自己愛に埋もれて、いつかその自己愛に救われることもあるだろうと思う。自分を否定しない。それがどれだけ幸せなことか。
  
  そして悲しくてしょうがない私はそう思いながら、少し楽になる。悲しみに美しいなんていって、さらに彼女を退けているのもわかる。でも、そう、きっとあなたはまた私のもとへやってくる。それでも私はあなたを離さない。それから私は悲しみも喜びも自由になりたい。自分を愛して、その感情を大切にして、生きていく。
 こうして私は幸せになっていくんだ。私は、幸せに優しい少女でありたい。