国鉄旅客輸送今昔 60 急行 白兎 のお話 | 鉄道ジャーナリスト加藤好啓(blackcat)blog

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福祉と公共交通の視点から、鉄道のあり方を熱く語る?
blackcat こと加藤好啓です。
現在の公共交通の問題点などを過去の歴史などと比較しながら提言していきます。
随時更新予定です。

昨日は、伯耆(ほうき)の話をさせていただきました、昭和50年3月のダイヤ改正以降は伯備線の急行列車として活躍することとなり、より地域に根ざした愛称になったと思います。

国鉄時代は、ある程度列車の名称にはルールがあって、寝台列車若しくはそれに準じる列車は星の名前【銀河、明星、彗星、金星、あかつき・・・等、急行・準急列車等は、旧国名等をつけるのが大原則だったようです、【紀州、なにわ、よど、六甲、能登、越前、・・・】
寝台特急は、後発だったこともあり当初は、「あさかぜ」に代表される天候を表す名前で始まり、姉妹列車も「さちかぜ」と風シリーズで計画したのですが。列車名が紛らわしいと言うことで、平和号となります、しかし、その後20系化に際して、昔の3等特急であった、「さくら」に変更されて平和はお蔵入りになりました。
その後設定された列車は「はやぶさ」、「みずほ」とつづき、ブルートレインに関してはかなり混沌(こんとん)としていました。

などと無駄な前置きはこのへんにして、今日は昨日に続き、「はくと」のお話をさせていただこうと思います。

画像はWikipedia

 

現在は、鳥取と関西を2時間半ほどで結ぶ列車ということで、「スーパーはくと」が運転されています。

運営会社は、鳥取県智頭から兵庫県の上郡までをショートカットする智頭急行です。

赤字経営に苦しむ第3セクター鉄道が多い中では数少ない黒字の三セク鉄道です。
また、「スーパーはくと」は、高速バスから旅客を取り返したと列車としても有名です。

この列車のルーツを遡ると昭和31年に京都~松江間を福知山線経由で運転していた準急「白兎(はくと)」まで遡ることができるようです。

昭和38年の時刻表から


昭和36年10月のいわゆるサンロクトウの改正で、急行化されました。
なお、この列車は、新幹線開業前までは、京都で、特急つばめ・はとと接続する列車としての使命を持っていたそうです。
新幹線開業後も山陰方面に向かう列車としての人気は高く、昭和43年12月号の部内誌国鉄線を参照しますと。
座談会で年末年始輸送に関してと題して、上野駅と京都駅の苦労話がなされていました。
特に、京都駅では着席券を発売していたのですが、新幹線利用客がこうした着席券の存在を知らないため、折角一時間前に到着したのに、白兎号の希望する席に座れなかったと言った苦情が絶えないと言ったことが書かれています。

国鉄線昭和43年12月号の記事から

 

なお、昭和36年当時の時刻表を参照しますと、京都発山陰線経由の急行列車と、福知山で分割して同名称で大阪に向かう二つの列車として設定されていたようです。
大阪発着の編成は、昭和43年10月の改正で「だいせん」に統合されることになりました。

 

 

昭和42年の時刻改正号
その後も、「白兎(はくと)」は京都駅始発の山陰線急行として君臨しますが、1982年に京都~米子間の運転に変更され、1986年の改正では国鉄増収政策の一つで「特急 あさしお」に統合されて廃止されています。


しばらくはお蔵入りしていた愛称ですが、智頭急行が開業することで、新設される特急として公募の結果「はくと」が選ばれ、名称も「スーパーはくと」として鳥取県民の期待の星となっています。

鳥取県内の子供たちは新幹線を直接見たことがありませんので、スーパー白兎(はくと)を「山陰の新幹線」だと言っているなんて事を、確か鳥取県知事のお話として読んだことがあります。

なお、「はくと」漢字で書けば「白兎」【訓読みすれば「しろうさぎ」】ということで、因幡(いなば)の白うさぎ伝説に基づく「白兎(はくと)海岸」から取ったものです。

 

 

「はくと」の名称の由来となった「白兎海岸」


「急行だいせん」がどちらかと言うと島根県と関西を中心に結ぶ列車だったのに対して、「白兎」は鳥取県と関西【京都】を直接結ぶ列車としての意味合いが強く、鳥取からの場合大阪の場合は、急行伯耆【後のみささ】、京都へは白兎が一番人気だったように思います。
昭和53年の時刻表では、鳥取から「急行いでゆ【旧・白兎の大阪編成】を併結していたようですね。

 

鳥取から乗車する場合、白兎の人気は高くて指定席が中々取れない列車として言われていました。(新幹線連絡や、新幹線開業前からの伝統のようなものもあったのかもしれません)

そうそう、指定席の話で思い出しましたが、急行伯耆は鳥取始発だったと思うのですが、自由席の場合はラッシュ時の席取りよろしくドアが開くと走らないと座席が確保できないくらい混んでいました。
もちろん多客時しか知りませんから、閑散時はどうだったのかは知りませんが、グリーン車以外は伯耆なども常に混雑する列車だったと記憶しています。

子供だったら3人がけしろとか見知らぬおばちゃんに言われたりしましてね、従ったら当然一つ空く席にそのおばちゃん座って・・・自分が座りたいから子供に無理強いさせたなと少しだけ腹がたったこともありましたが、それぐらい混雑していたのも事実でした。
みなさんにとって思い出の列車というのは何があるでしょうか?
 

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