Dean Arnold Corll
ディーン・アーノルド・コール

1939年12月24日
インディアナのフォートウェイン生まれ

メアリー・ロビンソンとアーノルド・エドウィンコール夫婦の長子


父親はコールに対して非常に厳格だったが
母親は反対に甘やかした

コールの両親の喧嘩は絶えず
コールの弟スタンリーが生まれた4年後の1942年に離婚した

ただ
父親が出て行ったとはいへ近くに住んでいたので
いつでも会う事はできた

だが
離婚した後に父アーノルドは空軍にとられ
母メアリーは住居を売り
一家はテネシーのメンフィスでバック・トレーラー住まいとなった

ちなみに
コールの両親はその後和解を試みる


コールは内気で静かな子供で
他の子供たちと遊ばない引きこもりの傾向があった

7才の時に医者に心臓病を言い渡され
リウマチ熱も起し
それが理由で不登校になりがちになる


1950年
コールの両親は再婚してパサデナへ引っ越したが
和解は長くは続かなかった

1953年
母親が親権を保持する形で夫婦は再び離婚
この離婚は友好的根拠で
二人の男の子は父親と会う事ができた


2度目の離婚の後
彼の母はジェイク・ウェストという名のセールスマンと結婚し
一家はビダーという名の小さな町へ引っ越し
1955年
妹ジョイスが生まれた

ビダーにおいて
コールの母と継父は小規模のキャンディ会社を彼らの家のガレージから始め
まだ学生だったコールも学校に通いながら日夜手伝っている

コールはティーンになっても幼少の頃と同じく一匹狼だった

ビダー高校においてはハイスクール・ブラスバンドでトロンボーンを担当
卒業まで優秀で模範的な学生と考えられていた


1958年
コールのビダー高校卒業後
家族はヒューストンのハイツ地区へ引っ越して「ペカン・プリンス」とゆー名の新しい店とを開いた

1960年
コールは祖父母と一緒に暮らすためにインディアナに移り
そこで2年ほど暮らし
ガールフレンドさえできる

しかし
家族のキャンディ・ビジネスを手伝うため
1962年にヒューストンに呼び戻された

彼は店舗の上に引越し
さらに後
アパート引っ越しす

1963年
コールの母親はジェイク・ウェストと離婚しディーンをキャンディ会社副社長に任命した

同1963年
キャンディ会社の十代の男性従業員がコールの母親に
コールが彼に性的な接触をしたとクレームをつけた

応えて母親は単に若い男性従業員をクビにした


1964年8月10日
コールは米国陸軍に徴用され
ルイジアナのフォートポーク基礎訓練所に配置され
その後
無線修理士としてテキサスのフォート・フッド
そして正式着任地としてジョージアのフォート・ベニングへと移動することになる

伝えられるところ
彼はファミリー・ビジネスを理由に"履行困難による解任"を申し込でている

これはコールが兵役を嫌ったせいだと言われているが
1965年6月11日
軍は彼の上申を許諾し
10ヵ月従軍をもって名誉除隊となる


軍からの名誉除隊の後のコールはヒューストンに戻り
家族のキャンディ・ビジネスの副社長に復帰する

1965年
コールが兵役を完了直後に
コール・キャンディー・カンパニーはハイツ小学校通りをまたいだ

彼は
地元の特定の10代の男の子を選んで無料でキャンディを与えるということで知られていた

ファミリー・ビジネスも
従業員を雇う同族会社になっていた

彼は
従業員や地元の若者の歓心を買うために工場の裏にビリヤード台さえ設置し
特に10代の男性従業員に対して軽薄な振る舞いをしているよーに見受けられた

1967年
コールが無料でキャンディを与えていた多くの小学生たちの内の1人
デービッド・ブルックス12才と友達になった


最初
ブルックスはコールの工場裏に集まる多くの若者の1人でしかなかった

コールによって
仲間内での南テキサスのビーチへの定期的なバイク・ツーリングにも連れて行ってもらった

コールはいつでもブルックスの金銭的な相談に応じていた


1970年
ブルックスが15才の時
彼の両親は離婚し
彼はハイスクールを中退して母親と一緒に暮らすためにボーモント(ヒューストンの東の都市)へ引っ越した

ヒューストンの父親を訪ねる時はいつでも
ブルックスはコールも訪ねた

コールは自分のアパートにブルックス泊まることを常に許可した

コールが求めると二人はすぐに体の関係になった

そもそもコールはブルックスが子供の頃
ブルックスに金を払ってフェラチオをさせてもらっている

とにかく1970年
ブルックスはコールのアパートを彼の第二の家と考え始めた


1968年6月頃
コールの母親は3回目の結婚をし
家族のキャンディ会社の閉め
妹ジョイスとともにコロラドへ引っ越していく

そして彼女は
コールとは二度と会うことはなかった

キャンディ会社の終了後
コールは電気技術者の職を得る

そして
エルマー・ウェイン・ヘンリーに殺される日までその仕事に従事する


1970年から1973年までに
コールは少なくとも13~20才の男28人を殺している

ほとんどの犠牲者はヒューストンハイツという低所得者の住居地で誘拐されている

数人の犠牲者はコールの共犯者二人どちらか一方の友人だった

そして犠牲者の内の二人
ビリー・バウチとメイリー・ウィンクはコール・キャンディー・カンパニーの元従業員だった


コールの手口の典型は
犠牲者をパーティまたはリフト(ヒッチハイクなどで車に乗せてあげること)を口実に彼のバンに誘い込み
彼の家まで送り込まれるというものだった

そこでは被害者らは
アルコールを強いられるか
薬で気絶させられるか
騙されるか
単に力ずくか
このどれかで手錠をかけられる

それから裸にされ
彼らが恒常的に使用していた合板製拷問台かコールのベッドに縛り付けられ
肛門姦され
拷問され
絞殺か
或いは
22口径の拳銃で撃たれるかして殺された

彼らの死体はプラスチック・シートに包まれ
4つの場所のいずれか一つに埋められた
・賃借したボート格納庫
・ボリバル半島の浜辺
・サム・レイバーン湖(彼の家族が湖畔にロッヂを所有した)の近くの森林地帯
・ジェファーソン郡の浜辺


コールは家族に電話するよう犠牲者に強制したり
自ら被害者の両親に手紙を書いたりするが
これは犠牲者家族を安心させるためで
不在の理由をでっち上げていた

そして
コールは他のシリアルキラーと同様に
被害者の遺品を保持している

青年を拉致・殺害している間
コールは頻繁に引っ越しているが
1973年の春にパサデナへ引っ越すまで
彼は常にヒューストンハイツ周辺に住んでいる


コールの話はまだ続くがここで一息入れる


コールがヒューストンハイツ周辺から離れられなかった件はシリアルキラーにありがちなものだ

恋人と一緒に過ごした場所からそー簡単に離れられないよーに
自分が安心して行為に及んだ場所からは簡単に離れられない

だがそれはいわゆる「安全地帯」とは意味が違っていて
ファンタジーを追求するための欲求とおおいに関係している

コールが被害者の遺品を保持していた件も同様だ

これもシリアルキラーには一般的な"署名的行為"と言われているもので
戦利品を保持せずにいられないという執着心の現われだ

この戦利品を見る度に犯行時の興奮を反芻しファンタジーに浸る

時にはオナニーさえする

この戦利品を見て勃起が持続できなくなると
ファンタジーに浸りきれなくなると
次の犠牲者が発生するのだ

2/3(http://blogs.yahoo.co.jp/show_p_dion_ne_jp/6264769.html)に続く