北海道へ行っていました。
この猫、ご飯で「待て」ができるのはありがたい。
待てを言わないと、ご飯を入れている最中にでも食べ始めてしまうのだが。
あとは、名前を呼べばどこからともなく来てくれる。
黒いネコって発見しずらいので、結構この習性は重宝しています。
下手したら「黒いハンドバック」に本気で話し掛けてしまうくらいに分かりずらい。
おそらく黒猫を飼ったことのある方は皆同じ経験をしているのではないかと思いますが。
東京は流石にジメジメした湿度で不快です。
私がまだこの世に生まれていない時代の1975年に出版された本。
この時代に、ここまで深く、そして分かりやすく身近な題材で語られた精神論の本は稀少です。
今ではちらほらと同じ様な事を述べられている書籍を目にしますが、約40年以上の歳月が経っても、もしかしたら精神論の分野は進化が最も遅いのかも知れません。
人間はそもそもフェチ主義の生き物であって、この書籍を教えてくださった方も、その昔に出版物を書かれていた方で、その中の特集で「今月の変態」という企画があったそうです。
日本全国にいる「変態」を取材しに行って、人間の奥底に眠る本質を追求していたとのこと。
当然記事を書かないといけないので、一体何に快楽を感じているのかという奥深くまで聞き出し、見せてもらうそうです。
変態という言い方は、何か一般的人とは隔絶されているかの様に使われますが、人間なんて人には言えないけども、五感を刺激する妥協を許さない快楽刺激というのがあるものです。
むしろ無い方が変態なのかも知れません。
著者の知り合いの方からの教えて頂きました。
昭和40年代の書籍ですが、3次元どころか6次元について数学的に紐解く試みをした書籍です。
実に哲学的に述べられていて、現代の様に、哲学もなく、部数獲得目的もなく、そしてまだ分かっていない世界を独自の意見で論じている。
これこそ文学。
例えば、宗教についても述べておられるし、六次元世界と色彩についてはとても興味深い見解が述べられている。
ちょうど先日、国際宇宙ステーションかたX線撮影した写真が紹介されている記事を読んだが、まさにこのイメージ。
そして一見非科学的と揶揄されそうな内容でもあるけども、実はこの書籍の著者は医師であるというなんとも理系らしい計算式尽くしの内容もある。
中でも、数霊を理解すると、あらゆる予測に活用できるという、まさに私のよく言っている内容。
そっか、だからオススメしてくださったのね。
いつも狙っていたのに無理だった、日本の国道最高峰の志賀草津ルートからの天の川の写真がようやく撮れました。
AM1:00くらいだったと思います。
標高が2000m以上のところ走行する道路ですが、夜になるとかなりの確率でガスが掛かってしまうんです。
先日は上手い具合に夜が冷え込みましたので、条件が整いました。
ちなみに車の外気温度計は0℃になってしました(^_^;)
おかげで車の窓だけを開けて、三脚を出して撮影。
それに、クマとかもいますのでね。
っで、写真を撮っていたら、一台の車がやってきました。
同じ目的かな?と思ったら、中年の男性が車から降りてきて、手際よくトランクからリュックにカメラに三脚にヘッドライト、そして小さめの音のクマよけ鈴を出しました。
ま、まさか・・・と思ったら、ためらいもなく真っ暗な藪の中の登山道へ一人で。
私は凝り性ではないので、あそこまでやる勇気はないですね〜。
幾分離れているとは言え、一昨年噴火をした草津の白根山ですからね。
もちろんそちらの方は通行止めですが。
ブログは文字(言葉)を活用し、人が人に対して何かを伝えることの出来るコミニュケーションツールです。
一方で、人というのは、個々でそれぞれが違った価値観を持ち合わせているため、結果的に文字や言葉は人によって、「捉え方やその重み」というものもまた違うものです。
この価値観というものは、おおよそ人間の脳の形成段階において、親による洗脳教育(悪い意味ではない)から始まるものであり、それが脳の初期データーとなってゆきます。
厳密には親ではなくても、例えば義母に育てられた子供でも同じことが言えます。
言葉や文字は重要か?と聞かれれば、私の場合は「重要ではあるけども、こだわる部分でもない。」と答えると思います。
その理由は、あくまでも言葉や文字は、社会的なコミニュケーションツールであって、先に述べたように、それぞれが違う価値観を基に活用していることから、たとえ日本語の様に、より多くの表現方法を用いて細分化したとしても、結論として、赤も桃色も桜色も紅色も、結局は最後はあなたと私とで同じ色に見えている確証がないわけです。
脳には大きく大別して2つの区分があります。
爬虫類や哺乳類の時からある古い脳と、人間になってから急激に発達した新しい脳。
古い脳は、生命維持に関わる呼吸や脈拍やホルモン分泌、内臓の機能などの中枢が存在し、まさに体が生命維持をする上でも重要な健康維持中枢です。更にその外層の部分では、感情を司る部分もあります。
ですから、人間以下の動物であっても、この部分の脳の発達が見られるために、例えば犬であっても「喜怒怖安」の感情があるわけです。
人が「笑うと健康に良い」「泣くとストレス解消になる」と言われるのは、この生命維持の脳が活性化するためであって、映画や絵画、音楽、美食などでも五感を伝って近い部分を刺激することができます。
一方で、人間において高度に発達した「新しい脳」は、言語脳とも言われるくらいに、社会的な知識や常識、ルール、合理性、新しいものを開発する文明発展などが含まれます。
であるからして、人間は道具を使ったり、科学を発展させる道が選択できたのに対し、動物や恐竜にはそれができなかったというわけです。
通常、赤ちゃんの時代には言葉を喋ることができません。まだここで言う「新しい脳」が未発達段階であり、社会的に教育を行えないからです(言葉が通じないから)。
しかし、親は社会的な脳を持ち合わせていますから、この赤ちゃんが親にどのように分かるように物事を伝えるのかというと、「泣く(古い脳)」という方法で欲求を伝えています。
泣くと言うのは、一種の感情欲求であって、赤ちゃんは親から世話を必要とするために、古い脳の生命維持の叡智ということになります。ある程度までに社会的な脳が発達してきたときには、少しづつ言葉というツールと感情を使って知らせてゆくることを覚えます。
よって、新しい脳は又の名を「言葉脳」とも呼べるのです。
ちなみに赤ちゃんは、学習(洗脳)がされていないから、この時期の表現は全てにおいて芸術性が高く、プロの絵描きや音楽家では、一定のレベル以上から、この時期の再現性に興味を示すことになります。
ここで着目すべきは、新しい脳が発達していない赤ちゃんであっても、身体は健康維持を行う部分の機能はあるということ。そして、人間以下の動物や爬虫類でもそれはあるということです。
すなわち、健康性というものは古い脳のエリアに属し、そこが得意としている部分でもあるわけです。
当たり前ですよね?心臓を意図的に考えて動かしているわけでも無く、食べたものを意図的な運動技術によって消化しているわけでもありませんから。
一方で、発達しきった大人の場合、日常生活では新しい脳が優位になります。
つまり、言葉や文字といった価値観優位の生き方になるわけですが、これが古い脳(健康脳)を抑圧してしまうという現象が起こるのです。
その代表的なものが自律神経失調症。
その繋がりは明確で、悩み事があれば胃が痛くなったり、レモンの果肉を搾るところを見れば唾液が分泌したり、嫌いなゴキブリが目の前に現れたら呼吸や脈が乱れます(赤ちゃんは学習していないから全く動じない)。
つまり、新しい脳は学習した情報によって古い脳への反射経路を作り上げ、間接的に健康性に影響を与え得るという事。
そして大人の多くは社会的であるが故に、新しい脳が強く、古い脳が弱いというバランス崩壊に陥りやすいわけです。
では、新しい脳を弱くしたらいいのか?という疑問点が湧いてきます。
感覚派や右脳的生き方がもてはやされた時もありましたが、これが優位になり過ぎると社会が成り立たない。
自己の感情や欲求に忠実に従ってしまうために、法や政治、医療や福祉、会社や経済が機能しなくなってしまうのです。
それを証明するためには、1840年代の清が、アヘン中毒で社会機能が停滞し、国力が衰退していったのが良い例でしょう。
イギリスとのアヘン戦争によって一定の解決がなされましたが、欲求に忠実になり過ぎれば、脳は個の世界の独裁政権状態となり、社会での協調性が掛けてしまう。
まるで、道路交通法(新しい脳の学者)のない公道のように、左側通行も右側通行もみんなバラバラで「気分で右走行」とか、信号も赤は進んで青は止まる。理由は?「青の方が綺麗だから」となってしまう。
芸術系の方に協調性が薄い人が多い事も、新しい脳より古い脳を優位に働かせてしまう部分にあります。
見たり聞いたり感じたりするのは、基本的に学習をしなくてもできることですから、古い脳が働きやすいのです。
今月は、某大学の研究会に出席しましたが、そこでの発表者の内容で、上記の理屈に噛み合わない部分がありました。
そこで、最後に質問として私が伺ってみたら大バトルが勃発。
なぜかというと、宗教がどのように健康性に影響を与えるのかという内容にも関わらず、新しい脳の研究しかしていなかったから。
発表者が「研究は哲学的である必要がある」という前提で発表されていたのに対し、宗教は不必要であるという方向からの研究がされていなかったのです。
つまり、古い脳の暴走(主に欲求)を律することができ、そして古い脳との均衡状態を取ることができるとしたら、宗教の必要性が減るのではないか?
逆に言えば、それが宗教の成している一つの重要な部分でもあるわけです。
何故アダムとイブが禁断の果実を食して、生殖器をイチヂクの葉で隠したのか。
その上で、宗教の必要性について調べた結果を伺いたかった。
宗教は古い脳に属すというご意見なのか、新しい脳に属すというご意見なのか。
どちらの答えにも、実は踏み絵が存在しているという事に気がつきます。
それが新しい脳に属すというのならば「宗教は生まれる前から選ばれていない(受胎告知否定)」ということになる。その理由は「宗教は赤ちゃんの時に言葉がない以上は学習脳にある」ということになるからです。
そして古い脳に属すというのならば「例えば赤ちゃんであっても、汗を出したり、唾液を出したり腸を蠕動運動させたりできる様に、祈りによって大人と同じ様に脳波に反応が出なくてはおかしいし、動物も爬虫類も敬虔な信徒であって、魚すらも食べることを許すべきではないのでは?」となってしまう。そもそもそれ以前に、わざわざ信仰などせずとも古い脳に属するのなら、自律神経機能と同じく、自動的に機能していなくては辻褄が合わなくなるわけです。
私は宗教は新しい脳に属すと思うから、よって、仮に赤ちゃんに法王が触れたとしても、涙も喜びも、脳波では反応しないと思っています。
さて、だとしたら問題が浮上します。
新しい脳から古い脳へ、何かしらの情報伝達をしなければ、宗教が健康性に影響を及ぼすことがないという点です。先に述べた様に、古い脳は、新しい脳が発達してから急に出来上がった機能ではないから。
ま、ここについても私的に一定の答えは持っているのだけど、宗教全体がひた隠しにしている歴史まで掘り下げなくてはならないので、迂闊に言及してはならない部分でもあるのだが。
まず、洗脳という現象について解きほぐしてゆかなければ辿り着けない経緯もある。
どの手法や、ルールにも一定性はある。
悪用も簡単にできてしまうが故に、今日はこの辺で終わらせておきたいと思う。