😸おやじの家庭は貧しかったのか倹約家であったかは不明です。幼少期にテレビは存在せずにラジオが欄間で鎮座していた。

六人家族を養う若い😸父の給料は少なく😸母の倹約で持っていた。😸父が仕事から帰って来ると酒を飲みながらの食事、飲み終わったらラジオで野球中継を聴いていたら。その後に寝るが、中継がない季節は酒乱おやじに変身していた。

隣の空き地が真空管ラジオの墓場であった事と、上記環境で早くからラジオに囲まれて育った。

ラジオやテレビが音声や映像を受信して再生する原理は全く分からなった。そんな😸おやじも雑誌を参考にラジオを作ったのです。

真空管ラジオでは最寄りの名古屋の放送局に加えて、山地を隔てた大阪の放送局も受信できていた。ダイオードラジオはNHK名古屋と民放一局がやっとです。

Google Mapより引用
勉強してラジオの原理が解ると📻️に対する興味が深まったのです。

そのまま勉強すれば無線通信の技術者になりたいと思っただろう。飽き性と他の誘惑が重なって様々な趣味に興味を持って転々とした。
意識はしてうなかったが、その間もラジオは手元にあった。これらは特別に高性能ラジオと呼べないが、一目惚れして買っていた。後に高性能ラジオも買っている。

おやじになっての懐古趣味でしょうか。一時的に高性能ラジオを使いこなしていたが、暫くして押し入れに直行です。何年か後に発掘するまで埃まみれでした。

😸おばさんの癌が発見されてからの😸おやじは活動的になり、忘れていた押入れを整理するようになった。そこからは古いラジオを沢山発掘して並べて楽しんでいた。
彩りを与えるために上と下のラジオを買っていた。
その後は中国・台湾製の高性能ラジオを買って暴走したのです。
あとの祭り
働き盛りの高収入を得られない今は、お金の掛かる他の趣味に走れないが、ラジオ少年時代を思い出してラジオ親父をやっている。
今はラジオと😸が一緒