米国人が日本人を JAP と言う事がある。太平洋戦争前に日本の地域名コード (正確には国名の略語) を、戦時中に敵国である日本や日本人を侮蔑し差別するために使われていた。今の地域名コードは JPN になっている。
また、高度成長期にはエコノミック・アニマルやイエロー・モンキーと蔑まられていたが、逆手にとった彼ら
の海外公演のお陰で印象が少し変わってきた。
同様に日本人が朝鮮半島の人を
チ〇ンと呼んでいた時期があった。これも侮蔑語です。今も差別がある。
それに反して「
朝鮮 朝鮮 パカにすな~ 同じメシ喰ってどこ違う~ 足の先がちょっと違う」と反発する歌があった。近所では短縮して「同じ人間どこ違う」と聞いたことがある。
これ
は10年以上前に出回った画像で、複雑な事情で反韓感情が盛んであったが「冬のソナタ」やKPOPの浸透で収まった感がある。日本人が持つ差別意識のほんの一例です。
親の世代以上では今だに侮蔑語を使う人もいるが、僕の幼少期は良い環境で育った。
通っていた小学校は市街地・農村・下町・同和地区を学区としていた。木造校舎に加えて鉄筋コンクリート造りの校舎が併設されていた。ベビーブームの名残で生徒数より多くの教室があった。
何故か校門が三箇所あり、様々な地区の子供が通い分別するためにあるのかと勘ぐった程です。実際は各地区から登下校するのに便利だからです。
下町や同和地区からは職人や
ヤから始まる3文字の職業の子息で乱暴であったが賑やかでもあった。農村からはのんびりして大人しい子、市街地からは裕福だが冷めた感じの子が集まった。
大人の事情で特別学級なる教室があった。余った教室を埋めるためか、養護学校を建設で中だったかは解らなかった。近所に孤児院もあり、母子家庭の子供も一緒に通っていた。
幼い子供にはそんな事情は関係なく、休み時間は別け隔てなく遊んでいた。差別や陰湿なイジメはなかった。
そう言う環境だったからイジメは一時な暴力で片付いていた。自身も殴られ返った事もあったが、翌日には普通に遊んでいた。今、考えると理想的な平等社会です。
大人になって新居をかまえると隣には在日夫婦が住んでいた。近所付き合いで徐々に仲良くなると衝撃的な話しを聞いた。元々住んでいた場所での差別や、朝鮮人学校の女生徒への嫌がらせ、酷い場合はチマ・チョゴリを切られた事です。
今だに馬鹿で差別的な日本人が存在するとは思わなかった。犯人は歴史的事情は解らず、ただ伝聞だけで行動したと考えている。そう言う馬鹿は根も葉もない噂を信じて右往左往するのだろう。日本の恥です。
そういう僕も Youtube で反韓動画を観ていた時期があった。その感情が調べる好奇心となって事情が解り、無駄に煽られたと反省している。