BCLラジオのほとんどは大型のポータブルラジオで、本格的な通信型受信機より安価といっても、1970年代前半に2万円台の価格は小中学生が気軽に購入できる(買ってもらえる)ものではなく、小中学生でBCLラジオを所有しているというのは、一部の富裕層に限られた。
特にブームのさなかに発売されたスカイセンサー5900やクーガー2200は3万円前後の価格帯になった。実際に多く購入していたのはもう少し上の世代の「大人」の男性と考えられる。
彼らは、住宅事情や仕事の忙しさから本格的なアマチュア無線はできず、帰宅後の少ない自由時間(短波受信は夜間が有利である)に楽しむためにBCLラジオを購入したようである。気軽に使える短波受信機としてアマチュア無線局のサブの受信機として使われることもあった。
トリオや八重洲などのアマチュア無線機メーカは、据え置き型でゼネカバの通信型受信機をBCL向けに販売していた(アマチュア無線用はトランシーバが主流となっていた)。国産品では八重洲のFRG-7や、真空管式で多少古くなっていたがトリオの9R-59DS、外国製品としてはドレークのSSR-1が有名だが、これらの本格的な通信型受信機は高価で少年を中心としたBCLファンには手の届かないものだった。
1977年にはスカイセンサー、クーガーのそれぞれ上級シリーズとなるワールドゾーン、プロシードといった高級機種が発売された。
ラジオと言うより通信型受信機である。マーカや周波数カウンタを装備し、周波数が直読でき待ち受け受信が可能なった。BCLにとっては夢の装備であった。
BCLブームとマスコミの動き
ブームの仕掛け人やはじまりについては、より深く資料を調べることが必要であろう。しかし、ブームの前にスカイセンサーシリーズを発売したソニーと、アマチュア無線の受験講座を放送していた日本短波放送(NSB)の役割が大きかったであろうことは容易に想像できる。
BCLの情報は、アマチュア無線誌「CQ ham radio」や技術誌「無線と実験」などに古くから掲載されていたが、若年層向けの技術誌である「初歩のラジオ」「ラジオの製作」などが本格的に取り上げるようになり、1976年には専門誌「短波」が日本BCL連盟から発行された(1983年休刊)。ブームのピーク時には平凡パンチなどの若者向け週刊誌がBCLラジオを取り上げることもあった。
しかし、市販の高性能BCLラジオが出回るようになると、単行本に紹介されるジャンク部品でアンテナカプラーや受信機を組み立て、広い庭にロングワイヤーのアンテナを張るという本格的な(一昔前の)SWLの姿と一般のBCLとは乖離していった。
BCLブームの終焉
BCLブームの終わりについて明確にすることは困難だが、1980年代初めには下火になっていたとみてよいだろう。
ブームの中心が若年層だったために、容易に聞ける日本語放送を聞いて、ひととおりの「べりカード集め」に終われば飽きてしまったというのも下火になった一つの理由だろう。
海外の日本語局の次は「遠くの中波」ということで国内の中波局のべりカードを集めるような動きもあったが、長続きしなかった。べりカードを集めるためだけに適当な内容の受信報告書が大量に届くということで放送局が迷惑していたということもあったようである。
もう一つの理由としては、機材が年々高性能化するにしたがって高価になり、青少年にはとても手が出ないものになっていったというのも衰退した理由の一つだろう。BCLに興味を持った少年たちがアルバイトで稼いだ自分のお金を使えるようになるまでは少し時間が必要であったが、それまでブームは持たなかった。
BCLブームの終焉後は次回に。