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Dear my master

この関係。

…どう言ったら、一番しっくりきて……正しいのかな?


『義兄』×『義妹』=『?』


甘さ強めの、ちょっとギャグ。


目次はこちら。

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#13:幼馴染

「ねぇ、ひより。ずーっと昔に苛められた男の子の事…覚えてる?」
「…っ…!ごほっ!ごほごほ!?」
「あーあー…。ちょっと、大丈夫?」
「くっ…るし…!…ッ…んもう!お姉ちゃん!いきなり何言い出すの!?」
「えー?だってぇー」
「……もぉ…」
久しぶりに、3人で臣くんの美味しいご飯を囲む夕食。
…だと言うのに。
『あ、そうそう』とまるで今思い出したみたいな顔をしたお姉ちゃんは、お箸で私を指しながらとんでもない事を言い出した。
……もぉー…。
そんな話、聞いてないよぉ…。
「………」
「ん?どしたの?」
「………覚えてないもん」
持ったままのお茶碗に視線を落とし、お箸で……ご飯粒を弄る。
……うー。
思い出したくない。
思い出したくないの、その話は。
「………」
…それなのに。
そう言う意味をこめてちらりとお姉ちゃんを見ると、彼女は『忘れるワケないじゃない』なんてため息を見せた。
……うーー。
確かにね?
そ、それはもう……忘れろって言われても、無理だって答えるしかないくらい……無理な事なんだけど…。
――…だって、忘れられる訳ないじゃない。
…あんな事、これまで生きてきた中で一度きりしかなかったんだから。


あれは今から、10年以上前の事だった。
昔から仲のいい従兄の家へと遊びに行った時……そこに、見知らぬ男の子がいた。
『男の子』と言うには少し自分より大人びていて。
当時まだ幼稚園生だった私には、『お兄ちゃん』と言うよりもまるでずっとずっと大人の人に会ったみたいな衝撃だった。
2人の従兄も私と結構年が離れていたから、恐らくその友人だったんだろう。
楽しそうに話していて、遊んでいて。
当然のように、私とお姉ちゃんも一緒に遊んで貰う事になった。
かくれんぼをしたり、鬼ごっこをしたり…。
…あ、そういえば缶けりなんかもしたかな。
……だけど。
そうやって一緒に遊ぶようになった、そんなある時。
…皆で、歌を唄う事になった。
当時流行っていたグループの、幼い私でも知っているような有名な曲。
それは今でも、殆どの人が口ずさむ事が出来るだろう。
…それ程に、流行った曲だった。
皆で歌って、皆で笑って。
二人の従兄と、私とお姉ちゃんと……そして、その子。
5人で唄って――…もうすぐ、最後のフレーズ…と言うその時。
不意にその男の子が私を指差して、こう言ったのだ。


『ヘタクソだな…。お前は歌うな』


あの時の事は、当然だけど今でも忘れる事は出来ない。
そんな風に酷い事を言われた事がこれまで無かったというのもあったけれど、でも、何よりも……それまで凄く優しくしてくれていたその子が、突然そんな事を言い出した事がショックだったんだと思う。
あまりの事で何も言えずに、ただただた彼を見るしか出来なかった私。
それで、お姉ちゃんや従兄達が慌てて庇ってくれたけれど――…それを見たその子は、嫌そうな顔でこう続けた。


『我侭なヤツ。分からないのか?お前が皆にそう言わせてるのに』
『お前みたいなヤツ、大っ嫌いだ』


あの時初めて、泣く事も出来ずに…ただただ我慢するという事をした気がする。
…その日以来。
その男の子は私に対して凄く素っ気無くなって。
一緒に遊べばすぐに怒られるし、何かと文句を付けられるし。
……本当に、本当に嫌だった。
今思えばどれもこれも理不尽な理由ばかりなのに、当時は何も言えずに、泣く事も出来なくて。
だって、泣けばすぐに『泣き虫』って言われるし、怒るなんて事は…恐くて出来なかった。
――…アレ以来だ。
私が、自分の感情を我慢する事を覚えたのは。
……そして……歌を人前で唄うのが苦手になったのは。


「……はぁあ…」
「あーあー、可哀想なひよりちゃん。…好きだったのよね?その子の事」
「…っ!…そ…れはもう、昔の話だよ。それにっ!私が好きだったのは、その子が優しかった時なの!」
苛められてからは、嫌いになったもん。
お姉ちゃんからまた視線を外してもごもごと呟くと、『はいはい』なんて笑いながら彼女がおかずを食べた。
……うー。
折角の美味しい臣くんのご飯なのに、なんだか味気ない…。
それもこれも、いきなりこんな話をしだしたお姉ちゃんのせいなんだから!
「…何でこんな時にそんな話するの…?」
「んー?…ふふーん。知りたい?」
「……知りたい…」
「それじゃ、教えてあげる」
なぜか私に『知りたいでしょ?聞いた方がいいわよ』なんて顔をした彼女に首を振り、お箸を置いて両手を膝に揃える。
――…でも、この後すぐに後悔するはめになった。
だって、まさかそんな答えが返って来るなんて……思いもしなかったんだから。


「最近、その子に会ったのよねー」


ぴた。
そんな音が聞こえる位見事に、動きが止まった。
と同時に身体が強張り、首を動かすだけでギギと言う鈍い音が聞える。
「……うそ…」
「ホント」
「…うそっ…うそうそうそ!?やだっ…!なんで!?」
「んー?ほら、久しぶりにたっちゃんの家へ行ったから」
「ふぇ…。それじゃ……何…?その子とたっちゃん達って……今でも付き合ってるの?」
「みたいよ」
「うぇえ!?」
どうしよう。
ど…っ…どうしようどうしよう…!!
だってだって、まさかそんな事になってるなんて、思いもしなかったんだもん!
『たっちゃん』と言うのは、私とお姉ちゃんの従兄。
もう一人『あっちゃん』と言う従兄がいるんだけど、その人のお兄さんだ。
……ふぇ…。
やだよぉ…。
たっちゃんとは暫く会ってないけれど、でも、遊びに行って――…もしもその子が居たとしたら…?
うぅっ…!
そんなの、ダメ!絶対ダメ!耐えられない…!!
「?なぁに?ひより。そーんなに、その子と会うのが嫌なの?」
「やだっ…!やだやだ!!」
「…何でよー」
「だって…!!絶対また、苛められるに決まってるもん!」
ぶんぶんと首を振ったまま、半泣き状態でお姉ちゃんにしっかりと告げる。
だけど、なぜか彼女は楽しそうにこちらを見つめたままで、悪戯っぽく顎元に指を当てた。
「…でも、あれからもう10年以上でしょ?彼だって、もう……24だし。イイ男になってるかもよ?」
「……そんなの、関係ないもん…」
「何で?ひよりがこーんなに可愛くなってるんだし、むしろ『付き合わない?』なんて言われるかも」
「っ…!?やだぁ!!」
「…あらら。酷い嫌われようね」
「……だって……。…凄い意地悪だったんだよ?そんな人が、十数年経ったからって……臣くんみたいに優しくなってるとは思えないもん」
くすくす笑いながら私の反応を楽しむお姉ちゃんに眉を寄せ、すぐ隣でご飯を食べている臣くんを見てみる。
…そうだよ。
臣くんみたいに、とっても優しいお兄さんならばいいけれど……でも、昔散々苛められたんだし、人の性格がそんな急に変わるとも思えないし…。
きっと今でも、人の事を苛めて楽しんでる人に違いないんだから。
「………政臣みたいに…ねぇ?」
ふぅん、と何やら意味ありげに呟いたお姉ちゃんが、お箸をくわえたままで臣くんを見つめた。
…もー。
また、そんな格好して。
臣くんに怒られるよ?
行儀悪い――…って……。
「…?臣くん?」
「…何だ?」
「どうしたの?……食欲無い…?」
「…いや。別に」
いつもだったら、こう言う時必ず臣くんは口を出した。
…それに、さっきだって……。
私がお茶碗持ったままご飯弄ってたら、絶対に『ひより、行儀悪いぞ』なんて言うはずなのに…。
……おかしい。
臣くん、絶対にどこか具合悪いんじゃ…。
「…大丈夫?臣くん」
「ああ。…別に。何でもない」
こちらを全く見ずに、どこか伏目がちな彼を下から覗きこむようにする――…ものの、なぜか臣くんは私と視線を合わせようとしてくれなかった。
…うーん。
やっぱり、具合悪いんじゃないのかな。
……それとも、何か……あるとか…。
「…でも、可哀想よねぇ?ひよりは」
「え?」
臣くんを見つめたままで居たら、おもむろにお姉ちゃんが声を上げた。
…うー。
また、その男の子の事?
……もういいのに…。
別に会いたいとも思わないし、会うような事も――…無いと思いたいし。
「その子のせいでしょ?人に遠慮ばっかりして、どんな小さなお願い事も『我侭』だって決め込むようになっちゃったのは」
「……多分…」
「あーらら。それじゃ、余計その子に責任取らせなきゃいけないじゃない」
「やっ…!それは嫌なの!いいの!もうっ……その子の事は、もうおしまい!!」
楽しそうに宙を見つめながら、またその話を蒸し返す。
……もーー。
本当に、いいってば。
それよりも今は、臣くんの方が心配――……
「…臣くん…?」
「ご馳走様」
「え?えっ…?もう?」
「ああ」
ガタン、と椅子を鳴らして席を立った臣くんが、そのままキッチンへと向かってお茶碗を置いてしまった。
…うー…。
「…ほらぁ。お姉ちゃんのせいだよ?」
「え?何が?」
「臣くん!…きっと、お姉ちゃんがそんな人の話ばっかりするから、機嫌損ねちゃったんじゃ…」
仮にも昔の話とは言え、『他の男の人』の話である事に違いは無い。
…だからきっと、臣くんはずーっと面白く無さそうな顔してたんだよ?
それなのに………もぅ。
「っ…お姉ちゃん!」
「あはは!だってぇ」
眉を寄せて臣くんを見つめていたら、やけに楽しそうで――…しかも可笑しそうに、お姉ちゃんが笑い出したではないか。
よりにもよって、お姉ちゃんが笑う事じゃないでしょ!
でも、そうは言ってみるものの、一向に気にする様子は無かった。
……もぉ…。
ほら、お姉ちゃんのせいで、臣くん何も言ってくれないじゃない。
いつもだったら、こういう時だって何らかのレスポンスがあるのに。
「ま、一度会ってみたらいいんじゃない?…ひよりは、特に」
「…ずぇったい、イヤ。……って言うか、お姉ちゃんしつこい…」
「あっはは。だってさー」
「…もーいいの!ほっといて!おしまいなの!!」
「はいはぁい」
……ホントにもーー。
この期に及んで、まだ私に傷付けって言うの?
…そんなの、まっぴら御免なんだから。
やっと傷が癒え掛けて来たんだもん、こんな所でえぐったりしないで欲しい。
そう思って、笑い続けるお姉ちゃんを無視して臣くんのご飯を食べると、小さくため息が漏れた。


――…ちなみに。
臣くんの様子は、翌日の朝もちょっぴりいつもと違っていた。
…うーん。
どうやら、よっぽど気に入らなかったというか……。
でも、なぜか何となく私を見る目が変わったように思えたのは――…まぁ、多分私の気のせいなんだろうとは思うけれどね。

#12:ギリギリ(2)

「まーーどーーかーーーさぁーーーん!!!」
「なぁーーにぃーー!?」
「あのぉーー!ちょっとー、聞こえないんですけれどもーーー!!」
「えぇーー?なーーにぃーー!?」
「いや、ですからぁーー!!」
「…………」
「…………」
物凄い音量の音が溢れている館内には、こんな時間だと言うのに本当に沢山の人たちがひしめいていた。
…うぅ。
久しぶりにここへ来たけれど……なんかもう、頭ががんがんする。
……こんなに、うるさかったっけ…?
ああ、それともいつもは…プリクラを撮りにしか来ないから、分からないのかな…。
「…あ」
「大丈夫か?」
「……うん……。平気…」
ふらついた私の手を取ってくれた臣くんに弱弱しく笑うと、小さくため息をついてからその手を引いて――…外へと連れ出してくれた。
「…はぁ……耳がくゎんくゎんする…」
「……苦手だったら、そう言えばいいじゃないか」
「んー…別に、嫌いじゃないよ?ゲームセンターは」
少し呆れた顔の臣くんに苦笑を見せ、緩く首を振る。
だけど、やっぱり……信じてくれてないよね。その顔は。
…あはは。
まぁ……一雅さんよりも先に倒れそうになっていたら……信じられないだろうけれど。
「…臣くんは、やっぱり…」
「ああ。来た事あるよ」
「そうだよね」
何でも、一雅さんは一般の中学高校には進まなかったらしい。
それはやっぱり長男だからと言う事もあるけれど、専門的な学校へ通わせると言うのがたっての希望でもあったから…だとか。
……勿論、ご両親じゃなくて――…お祖母様の。
臣くんのお祖母さんには何度か会った事があるけれど、とっても……何て言うのかな。
言うなれば、気難しいとでも言えるかも知れない。
きちんとした身なりをしていて、綺麗な着物をいつも身に着けていて…。
だからこそ勿論、礼儀作法には本当に厳しい人。
……だから…お姉ちゃんは、かなり言われていたらしい。
だって、対照的だもんね?
モデルって言う仕事をしているから、見た目だって本当に華やかで……綺麗で。
…でも、お祖母さん的に言うと、やっぱりどうも好ましくないとかで…。
鎌倉の臣くんの実家へ行く時は、わざわざお祖母さんが何かしら用事があって留守をしている時を、見計らっていた。
「…………」
…ベンチに腰を下ろして眺めていると……ふと、目線の先にカップルが映った。
私と同じ年か、少し上くらいの子達。
仲良く手を繋いで、それはそれは楽しそうな顔で――……
「…あ」
二人が向かった先を見たら、不意に声が出た。
それを見て、臣くんは『どうした?』なんて顔を覗き込んでくれたけれど。
「………えへへ」
「…?何だ?」
まじまじと臣くんを見たら、へにょんと顔が緩んで笑顔が浮かんだ。
臣くんと一緒に暮らすようになって、1年と少し。
…でも、こんな風に一緒にゲームセンターへ来た事はなかった。
………と言う事は、イコール……


「臣くん、一緒にプリクラ撮ろう?」



満面の笑みとも言えるそれで、提案が言葉になった。
……ん?
…あれ…?
てっきり臣くんは、いつもみたいに『ああ、いいよ』って言ってくれると思った。
…だからこそ、こんな事を言ったんだから。
………でも。
でも、なぜか臣くんは――……とっても嫌そうな顔で、瞳を細めた。
「…いくらひよりの頼みでも、それだけは断る」
「えぇ!?な…なんで…?」
「……悪いが、よそを当たってくれ」
「そんなぁ!臣くんっ!」
ふいっとこちらへ背を向けた臣くんは、そのままゲームセンターから遠ざかるように足を向けた。
…っ…そ……そんな。
いや、あの、でもっ…!
「っ…ひより…」
「お願い、臣くんっ…!ね?一枚でいいの!一枚でいいからっ…!」
「…だから、嫌だと言ってるだろう?何度頼まれても、これだけは――」
「そんな事言わないでっ…!…お願い、これだけでいいからっ……だから……叶えて欲しいの…」
たっと走ってその腕を両手で掴み、眉を寄せて懇願する。
…だって、一枚も持ってないんだもん。
臣くんの写真も、写メも、当然プリクラも。
だから、たった一枚でいいから欲しかった。
どうしても……。
…特別な人だから。
臣くんは、私にとって――…かけがえの無い人だから。
「………」
「…ダメ…?」
瞳を細めたままで私を見ていた臣くん。
…が……ようやく、瞳を閉じてため息をついた。
「…分かった。だから、そんな顔をするんじゃない」
「っ…ほんと…?ホントにホントっ…!?」
「ああ。…ただし、一枚だけだぞ?」
「うんっ!!…っ…ありがとう、臣くん!」
やったぁ、と小さく声を上げてから彼へ抱きつくように腕を回すと、『仕方ないな…』なんて呆れながらも、笑みを見せてくれた。
…嬉しい。
えへへ。
特権だし、何よりもきっと今のは――…我侭に分類されると思う。
でも、それでも臣くんは笑って許してくれて。
…それが、本当に嬉しかった。
臣くんの優しさを、ダイレクトに感じる事が出来たから。
……ああ…。
私、もしかしたらバチが当たってしまうかもしれない。
だって、本当に本当に……幸せ過ぎるんだもん。


「どうやって撮ろうかなぁ」
空いていた機械を見つけてお金を投入し、早速それぞれの項目を選択する。
…えへへ。
臣くんと二人で撮るなんて、何だか本当に贅沢な気分。
……あ。
やっぱり、お姉ちゃん達も呼んできた方が良かったかな…。
「え?」
「…選ばないのか?」
「……あ…」
画面を見つめたままそんな事を考えていたら、臣くんが肩を叩いた。
…危ない危ない。
そう言えば臣くん、あんまりこう言うので時間遣うのって好きじゃないもんね。
「えっと、それじゃ……これっ」
『ごめんね』と謝ってから画面に戻り、ぽんぽんと指を当てて選択していく。
…別に、皆にあげる訳じゃないから……枚数少なくてもいいよね。
「……よし、っと…」
ぽん、と最後の選択をするど同時に画面が切り替わり、撮影の秒読みが始まった。
「あ、あわわっ…えっと、じゃあ、最初はどうしよう……っ…」
そう言っている間にも時間が迫って、つい慌ててしまう。
…うぅ。
自分で『撮ろう』って言っておきながらこんなに要領悪くちゃ、臣くんに呆れられちゃう…。
「えっと、じゃ、じゃあ!こうっ!」
貴重な3回撮影の1回目。
それは――…丁度臣くんの腕を引き寄せた時に、シャッターが下りた。
「…ふぁあ!?」
慌ててる間に、残りは2回。
…うぅ。
こんなんじゃ、折角の時間が――……
「…え…?」
「時間無いぞ」
「……あっ…」
私の肩を引き寄せた臣くんが、ふぅとため息を見せた。
…そして…。
「っ…」
「…ひより?」
「ふぇ…あ、あっ…あの…っ…!」
ぐいっと肩を一層引き寄せられ、頬が僅かに付く距離で臣くんが顔を並べた。
…ふぇ。
こ、こんな近くで…!?
ドキドキし過ぎて、一体自分がどんな顔をしているかすらも分からない。
「ひより」
「っ…え…!?」


「笑って」


「…あ…」
耳元で聞こえた、臣くんの本当に本当に優しい声。
それと同時にようやく自分らしい笑みが浮かび、2秒後にシャッターが下りた。
「…えっと、それじゃ……最後は…」
折角の最後だから、とあれこれ何をしようか考え始めた時。
僅かに私の方を見た臣くんが、髪を撫でた。
「…え…?」
「目、閉じて」
「…目…を?」
「そう」
……目を…。

臣くんが一体何をしようとしているのか分からなくて、ついまばたきをしてしまう。
…だけど。
その時の臣くんは、これまで余り見た事が無いような……本当に優しい顔をしていて。
……目を、閉じる…んだよね。
「……ん」
彼に身体ごと向き直って瞳を閉じると同時に、自然と頷いていた。
「…臣くん…?」
不意に彼が触れてくれていた手が離れ、何となく不安になってしまう。
…大丈夫、だとは思う。
臣くんが私一人を残して、どこかへ行ってしまうなんて事……しないと思うから。
「…何?」
「あ…。……ううん、何でもない」
自分が思っていたよりも近い距離で、彼が返事をくれた。
…そうだよね。
大丈夫。
笑みを浮かべてふるふると首を振り、改めて少しだけ顔を――…上げた、時。
「っ…」
両頬へ、温かな感触が触れた。
……臣くん…?
きっと、触れてくれているのは臣くんに間違いないはず。
…でも…臣くんは一体、何をするんだろう…。
それはずっとずっと分からない事で、思わず喉が鳴った。
「…………」
「…………」
お互いに黙ったまま。
…聞こえてくるのは……秒読みの声だけ。
……?
何をしてるんだろう。
――…なんて思っていたら、何も起こらないままでシャッターを切る音が聞こえた。
「…?臣くん…?」
「俺は外に居るから」
「…あ…。…うん…」
瞳を開けると、臣くんはそれだけ言って機械から出て行った。
…うーん…?
一体何をしようとしていたんだろう。
……それとも、もう何かしたのかな?
「………」
臣くんだけが知っている、私の空白の時間。
…んー…。
でも、いいか。
次は落書きするんだし、どんな写真か見れば分かるもんね。
そう思って、私はこの時あまり深く考えなかった。


「あ、ひよりー」
機械から臣くんの所へと歩き出した時。
ふいに、お姉ちゃんが向かいから歩いてくるのが見えた。
「っ……」
「?なぁに?あ、プリクラ撮ったの?」
「ふぇ!?」
隠すまでもなく、あっさりお姉ちゃんにバレてしまった。
…で……ででででもっ、あの…。
「はいっ!」
「あら、ありがとー。……あはは!やだー、可愛く撮れてるじゃない」
「……あはは…」
しげしげとプリクラを見たお姉ちゃんは、お財布を取り出して『どっかに貼っとこーっと』なんて楽しく笑った。
…。
………。
……はふぁ…。
「ん?どしたの?ひより」
「ふぇ!?な、ななな何でも!」
「そぉ?…んんー?何か隠してるぅ?」
「やっ…やだなっ!そんな事無いよ…っ」
「んー?でも、何だか――」


「まどかさーん、アレは何ですかー?」


「え?あ、はいはーい」
「…あ」
「じゃ、もちょっと遊んでくるわねー」
……まさに、鶴の一声とはこの事…。
じりじりと顔を近づけながら瞳を細めて悪戯っぽい顔をしたお姉ちゃんは、私が背中に隠したプリクラを取ろうとしたんだけど――…一雅さんの声で、そちらへと身を翻した。
「……はぁ…」
楽しそうに笑う二人を見ながら、大きく…それはもうかなり大きく、ため息が漏れる。
……うぅ。
ごめんね、お姉ちゃん。
…実は……お姉ちゃんにあげたそのプリクラは……全部じゃないの。
「………」
心の中で謝ってから、足を向けるのは…当然建物の外に居る臣くんの所。
……でも、何て言えばいい?
だって私もまさか……こんなプリクラになるなんて、思いもしなかったのに。
「…臣くん」
「ん?」
声を掛けるとすぐに、彼がこちらを振り返った。
――…そして。
「…良く撮れてるだろ?」
「っ…お、臣くん…っ…」
くすっと小さく笑って、私が持っていたプリクラを一瞥した。
…うぅ。
そんなに優しい顔して笑わないでよぉ…。
物凄くどきどきしてしまって、当然だけど、正視出来なくなる。
――…臣くんが『目を閉じて』と言った、あの3ショット目。
あの時のプリクラは――…思いもしない物に仕上がっていた。
「………」
…まさか、こんなプリクラになるなんて…。
……とてもじゃないけれど、お姉ちゃんにはあげられない。


両頬に手を添えた臣くんが、今にもキスしそうな程に顔を近づけている。


…一言で表すと、そんな感じ。
……ううん。
そんな感じって言うか、まさに誰が見てもそうとしか思えない。
まるで恋人同士がするみたいに、すごくすごく近い距離に……臣くんが居て。
…唇が届くまで……あと、僅かの隙間しか残っていない。
私も臣くんも、お互いに瞳を閉じているからこそ――…まさに『キス寸前の顔』だと、どう見ても明らか。
「…どうした?」
「……なんで、こんな…」
「何でって…」
「っ…だ、だだだだって…!」


『キスだよ?』


「………」
そう続けたかったけれど、でもやっぱり、具体的な言葉を言う事は出来なかった。
「…ひより?」
「ふぇ!?…っ…な……ななな、なんでも…無い…っ…」
「そうか?」
「……うん……」
いつもと同じ、臣くんの顔。
…だけど勿論、私は……いつもと同じように振舞う事なんて出来ない。
顔を赤くして、火照らせたままで…。
……笑顔はおろか、臣くんと目を合わせる事すら出来ない。
…………うぅ。
そ、そりゃあ…嬉しくないなんて言ったら、きっと嘘になる。
それはそうだけど――…
「………」
ちらりと臣くんを見てみると、全く慌てた様子も無く、いつもと同じ平静を保っていた。
…やっぱり……私が考え過ぎなのかな。
だとしても、やっぱり………このプリクラは、誰にも見せる事は出来ない。
……。
………うん…。
お守りにしよう。そうしよう。
どうしても目が行ってしまう、大きなカットの……臣くんとのプリクラ。
…はぁ。
きっとこれはもう、いつまで経っても慣れる事の無い写真であり続けるんだろうと思う。


#12:ギリギリ(1)

「…ふわー…凄いですね」
「でしょう?…ふふ。正直な感想を頂けて嬉しいわ」
「いや、それは勿論ですよ。まさかこんな……こんな凄い機械が開発されていたなんて」
お店の前で、一度。
そして、中に入ってから二度……三度目だったかな?
とてもとても珍しい物を見るかのように、彼は身を乗り出して瞳をキラキラとさせた。
…そんな様子が、余りにも普段の彼からは想像つかなくて……。
「…ひよりちゃん、そんなにおかしいですか?」
「あっ、ごめんなさい。…でも、だって……一雅さん、とっても可愛いんですもん」
くすくすと笑いながら首を横に振り、慌てて手を振る。
だけど、一雅さんは全く嫌そうな顔を見せずに、にこにこと笑って『そんな事ないですよ』と続けてくれた。
――…ここは、市内でも今現在最も栄えている場所。
……の、あるお店の前。
そう。
今日は、一雅さんとお姉ちゃんと臣くんの4人で、とある企画を実行中だった。
…えへへ。
何を隠そう、その名も


『庶民の娯楽を体験しちゃおうの会』


なのである。
事の発端は、先日臣くんの実家へと皆で行った時の事だった。
あの時、咲真さんが『新しく出来た回転寿司が美味しい』と言う話をしたんだけれど、その時――…一雅さんが首を傾げて呟いた事があった。


『回転寿司って、何ですか?』


笑顔すら浮かべての彼の言葉に、まさに水を打ったような静けさが広がって。
固まっている私達をよそに、彼は『お寿司が回るんですか?』『それとも、巻き寿司の俗称ですか?』なんてのほほんと言ったのだ。
…あの時のみんなの反応と言ったらもう……言葉には言い表せない。
それ程までに、爆笑と『マジで!?』なんて言う大きな声ばかりが飛び交っていた。
……唯一。
私の隣に座っていた、臣くんだけが……『まだ、行った事なかったのか』なんてぽつりと呟いていたけれど。


――…と言うわけで。
久しぶりの休みになったお姉ちゃんが、この間の事を思い出して提案したのだ。
一雅さんに、庶民の楽しみを教えてあげよう、って。
……庶民。
確かに、庶民は庶民だけど……ちょっと庶民的過ぎるんじゃないのかな。
普段はきっと、一流料亭とか一流のデパートとかしか行った事が無いであろう、一雅さん。
…だから、もしかしたら……回転寿司以外にも、沢山の庶民的過ぎる物を見て、カルチャーショックと言うか、知恵熱と言うか……そんな物が出てしまうんじゃないかと、ちょっとだけ心配ではあるんだけれどね。
「さー!それじゃ、沢山食べましょう!」
「わーい」
「…いやぁ、楽しみですね」
「………そうでもないだろ」
ごー!と手を突き上げたお姉ちゃんに並んで笑みを見せると、すぐ後ろではにこにこ笑ったままの一雅さんが、ため息をついた臣くんを不思議そうに見つめていた。


「…ふぁ、美味しい」
「さすがに海が近いだけあって、新鮮ね」
ぱくっと甘エビを食べて笑みを見せると、うんうん頷きながらお姉ちゃんも笑った。
私達が座っているのは、4人掛けのボックス席。
当然のようにすぐ横では、くるくるとお寿司のレーンが止まる事無く回っていた。
「…………」
「…?臣くん?」
「……。…いや、何でもない」
「?」
ふと隣を見ると、何かを見つめたままの臣くんが頬杖をついていた。
…何だろう?
レーンを…と言うよりは、まるですぐ近くの何かを………。
…あ。
臣くんが何を見ているのか、分かった。
「…あの、奥に消えたお皿は一体どうなるんですかね…」
「あはは。大丈夫よ、ちゃんと向こう側から出てくるから」
「……ああっ!なるほど」
まるで、初めて回転寿司を見た子供のようなハシャギようを見せている、目の前の一雅さん。
…どうやら、臣くんは彼を見ていたらしい。
「一雅さんって、本当に来た事無いの?」
「ああ。…俺も高校までは来た事なかったし……きっと、一番世間慣れして無いと思うぞ。兄弟の中じゃ」
「…へぇー」
お茶を飲みながら臣くんを見ると、シマアジの握りを食べてから小さく頷いた。
「…恐らく、カラオケとかファミレスとか…そういう一般的な物も知らないだろうな」
「うそ…!ホントに?」
「ああ。…下手したら、コンビニも知らないだろう」
「…ふえぇえ…」
と言う事は、ファーストフードとか……も知らないのかな。
「……それじゃあ、インスタントとか…カップ麺も?」
「…さぁ……。その辺は家でも誰かしら食べていたし、知らないはずは無いと思うんだが……」
さすがにそれは無いだろう、と言いながらも……臣くんが一雅さんを見る目は、そうも言っていなくて。
「うわわ!凄い。このお寿司、200円なんですか?」
「そうなのよー。ほら、このお皿の色で値段が分かれてるの」
「…へぇえ…。便利ですね。…いや、本当に驚きましたよ」
「お茶のお代わりはいかが?」
「あ、頂きます」
「…ふふふ」
「うわあ!?こっ…こんな所から、お湯が!?」
「ふふーん。どう?これ。凄いでしょう」
「ええ、とっても…!!…凄い……こんな店がこの世の中にあるなんて……いや、本当に信じられませんね」
湯飲みにお湯を足すお姉ちゃんを、まるで『何も無い所から水を取り出した奇跡の人』みたいな瞳で見つめる一雅さんを見ていたら、自然と……臣くんと視線が合った。
「………」
「………」
「……えへへ……」
「…………はぁ…」


『もしかしたら、カップ麺も知らないかもしれない』


そんな事を思ったのは、きっと一緒だったはず。
…それにしても、本当に凄いなぁ…。
『100円均一』なんか行ったら、驚いて倒れちゃうんじゃ……。
何となくだけど、そんな心配が頭に浮かんだ。


「…はー、美味しかった」
「やっぱり、回転寿司はここに限るわね」
「いやぁ、本当に美味しかったです。まどかさん、ご馳走様でした」
「いいえー」
お店を出ると、当然だけど、まだお昼を少し過ぎた所。
…えへへ。
でもね、今日のプランはもう最初から決まってるんだ。
今日のこの後の予定は――…


「いよっし、カラオケ行くわよ!」


「えぇえええ!!?」

お姉ちゃんが高らかに告げた言葉で、思わず大絶叫してしまった。
「ちょっ…ちょちょちょ、っちょっと待って!?」
「なぁに?ひよりってば…そんな大きな声出して」
「だ……だだだだって…!だって、そんな!かっ…カラオケなんて、聞いて無いよぉ…!」
不思議そうな顔をしたお姉ちゃんに、しっかりと眉を寄せて首を振る。
…うぅ。
カラオケは、嫌だ。
絶対絶対、嫌だ…!!
「ひよりちゃん、どうかしたんですか?」
「…それがね。この子ってば、昔っからカラオケ――…って言うか、人前で歌う事が嫌いなのよ」
「……うぅ」
不思議そうな顔をした一雅さんに、お姉ちゃんがため息をついてから私を見つめなおした。
…確かに、庶民の娯楽としては間違ってないと思うよ?
でも、だけどっ…!
やっぱり私は、カラオケだけは苦手。
…カラオケって言うか……もう、本当に、誰かの前で歌を歌うのだけは一番苦手だった。
お姉ちゃんは、『音痴じゃないんだから気にしなければいいじゃない』って言うけれど、でも、そういう問題じゃないの。
これはもう――…いわば、そう。
トラウマの一種だと思うから。
「…何か嫌な思い出でもあるのか?」
「………うん…」
少しだけ眉を寄せて私を見つめた臣くんに、一度視線を外してから再び合わせて頷いてみる。
すると、私よりも先にお姉ちゃんがため息をついた。
「この子ね、小さい頃遊んだ男の子に『ヘタクソ』呼ばわりされてから、めっきりダメになっちゃったのよ」
「…そう…なのか…?」
「………うん…」
――…あれは、今から十数年以上前の事だ。
従兄の家へ遊びに行った時、丁度従兄の友達が遊びに来ていて……一緒に遊んで貰った。
そこまでの話ならば、とってもいい思い出の1ページとして綺麗に残ってくれるんだろうけれど……。
後が、悪い。
その時流行っていた歌手の曲を、皆で口ずさんだ時の事。
別に私が飛びぬけて大きい声だった訳じゃないにもかかわらず、その子がいきなり言ったのだ。


『ヘタクソ。お前は歌うな』


って。
…酷いと思わない?
お姉ちゃんも従兄のお兄ちゃんも、『そんな事無い』って言ってくれたのに。
なのにその子だけは、ずっとずーーっと私に『ヘタクソ』って言い続けていた。
……あの時以来、歌が唄えなくなったのは本当の話。
しかもあの子のせいで、色々と今でも弊害は残っているワケで。
「……はぁ」
「よっぽど気に食わなかったのね、ひよりの事が」
「…うぅ…」
苦笑を浮かべたお姉ちゃんにため息をつき、視線を落とす。
…いいんだ、いいんだ。
どうせ私は、歌上手くないもん。
お姉ちゃんみたいに、万能じゃないもん。
……まぁ別に、カラオケに行くって言うなら、私は反対しないけど……。
でも、歌わないよ?私は絶対に。
「……?臣くん?」
「え?…ああ……何だ?」
「どうしたの?…具合悪い?」
「いや。…何でもない」
ふと臣くんを見ると、いつもの彼らしくなく、口元を押さえるようにして何やら考える仕草をしていた。
…?
だけど、私が見たら、すぐにそんな素振りはやめてしまって……。
………んー…?
何だか良く分からないけれど……でも、まぁ…具合悪くないなら、いっか。
「よっし。それじゃ、ゲーセンにしましょ」
「…げーせん、ですか?」
「ええ。とーっても楽しい所」
「へえ。それは楽しみですね」
…………。
……………。
…えっと……げ、ゲーセンって……やっぱりその……ゲームセンターだよね…?
あんな場所に行って、平気なの…?
……あんな……騒がしくてたまらない場所に。
「…臣くん…」
「……何だ」
「いいの?お姉ちゃん、止めなくて…」
「…いいんじゃないか?……まぁ……社会勉強の一環だと思えば」
「……う…うん……」
顎に指を当てて彼を見ると、ため息をついてから僅かに肩をすくめて見せた。
…うーん。
ま、まあ……臣くんがそう言うのなら、いい……のかな…?
………。
…………心配……だけど。とっても。
「…………」
何やらとっても楽しそうに盛り上がる二人の後姿を見つめながらも、ただただ温かく見守るだけが確かに私には出来なかった。

#11:食欲

「今日は、何を作るの?」
キッチンに立っている臣くんに近づくと、こちらを見てから材料を顎で指した。
「何か分かるか?」
「………んー…」
こういう時の臣くんは、何だか凄く楽しそうな顔をする。
…うーん。
出ている材料は、『たまねぎ』『牛肉』『ローリエ』『デミグラスソース』……?
………んー…。
「………は…」
「は?」
「はっ……シュドビーフ…?」
「…どうしてそんな不安そうなんだ」
「んー…ハヤシライスと、ハッシュドビーフ…。どっちかなぁ、と思って」
ふっと笑った臣くんに苦笑を見せると、『ちゃんと当たってるよ』と頭を撫でてくれた。
…えへへ。
臣くんのご飯は何でも美味しいけれど、その中でも特にこのハッシュドビーフが好き。
とろとろで、すっごくすっごく美味しいんだよ。
カレーみたいに辛くなくて、独特の甘さがあって…。
「…ひより」
「え?」
「……随分嬉しそうだな」
「うんっ。嬉しいもんー」
「そうか」
…ん?
それはいいんだが……と続けた彼が、タオルを取って私の目の前にそれを見せた。
「なぁに?」
「よだれ」
「……ふぇ!?」
「………ったく」
「……うぅ…ごめんなひゃい…」
少し呆れたような臣くんに、口元を拭われる羽目になった。
……とほほ。
で、でも、本当に美味しいんだもん。
だからつい……なんて言い訳しても、きっと臣くんは何も言ってくれないって分かってるんだけれどね。


「もう少し炒めたらいい?」
「ああ」
たまに…と言うよりは、ずっと多く。
臣くんがご飯を作ってくれている時は、大抵私もこうして彼の手伝いをするようになっていた。
それは、少しでも臣くんの役に立てたらと言う理由と、もう1つ。


花嫁修業


…なんて言う風に、私は勝手に思ってたりする。
臣くんは、本当に何でもそつなくこなすんだよ?
料理もそうだけど、後片付けも掃除も洗濯も。
何でも、ほんっとーーに上手。
だから、少しでも見習いたいと言うか、教えて貰いたいと言うか…。
そんな事を思って、毎日臣くんの傍に居る事が多かった。
……でも、結構邪魔なんじゃないか…って時々思うんだけれどね。
だって、臣くん独りで作った方がずっと早いし、出来も綺麗だし。
…ホント、役にたたない助手だと思う。自分でも。
……でもね?
一度その事を臣くんに言ったら、臣くんは首を横に振ってくれた。
『そんな事思ってない』
そう言ってくれた事が凄く嬉しくて、心底ほっとして。
それ以来、臣くんに色々教えて貰う事を続けていた。
かくいうお姉ちゃんも、実は今花嫁修業の真っ最中。
…誰に?って、勿論それは決まってる。
鎌倉の臣くんの実家に居る、一雅さん。
彼は作法のスペシャリストと言ってもいい位だし、和食がとっても上手。
だから、お姉ちゃんは臣くんと結婚してからと言うもの、ウチよりもそちらへ通っている方が…もしかしたら多いかもしれない。
でも、臣くんは『いいんじゃないか?』と言うだけで、嫌な顔1つしなかった。
……臣くん、優しい。
お姉ちゃんはタダでさえ、仕事が忙しくてたまにしか家に帰って来れないのに…。
「…ひより」
「え?」
臣くんはやっぱり偉大だなぁ…。
なんて事を考えていたら、臣くんが私の手を取った。
「?なぁに?」
「手が止まってる」
「ふわ!?」
そう言うが早いか、臣くんは私が持ったままの木ベラで鍋を手早くかき回す。
…ふぇ。
や……役に立ってない…。
「ごめんなさい」
「…何考えてた?」
「え?…えっと……臣くん優しいなぁー…って」
「……何だそれは」
鍋を見つめたままの臣くんを見ながら笑うと、小さくため息をついてから手を離した。
そして、冷蔵庫から赤ワインのボトルを取り出す。
「だって、臣くん……お姉ちゃんが居ないのに、私と一緒に居てくれるし…」
「当然だろ」
「…でも……」
キュポンっと言う音と共に、ワイン独特の匂いが香る。
…そして、注がれる……赤い液体。
「…臣くん、寂しくないの?」
「どうして?」
「だって、私は――……お姉ちゃんの妹でしかない…のに」
先程までいい音を立てていた鍋が冷たいワインで冷やされ、静かになった。
…途端に、何とも言えない居心地の悪さと言うか、何て言うか……。
……臣くんが何も言ってくれないのが、正直言って辛い。
「……あ…」
「誰がそんな事思ってる?」
「…それは……」
「俺にとってひよりは、無くてはならない存在だよ」
「……え…?」
ぽん、と頭に手を置いた臣くんが、『な?』と顔を覗き込みながら笑った。
…優しい顔…。
そんな風にされたら、私の方こそ……困ってしまう…。
「まどかもそう思ってるから、俺にひよりを預けてるんだろ?」
「…でも…」
「…確かに、俺と二人じゃ不満かもしれな――」
「っ…そんな事ないよ!!」
鍋に蓋をした彼に、慌てて首を振りながら否定する。
少しだけ臣くんは瞳を丸くしたけれど、でも……私はそんな事これっぽっちも思ってなかったから。
だから、それを伝えなきゃいけないって、本当に思った。
「…臣くんが一緒に居てくれて…すごく嬉しいの。一人になる時間が凄く少なくなったし、それに……」
「……それに?」
「…それに……毎日、すごく楽しいの」
これまではずっと、私はお姉ちゃんと二人きりだった。
だから仕事で帰って来れない事なんてしょっちゅうだったし、朝も夜も……一人でご飯食べる事が多かった。
…だけど。
だけど臣くんと一緒に暮らすようになって、いつも彼が傍に居てくれて。
……そのお陰で、寂しい時間を過ごさないで済むようになった。
「臣くんが一緒に居てくれるから……毎日、笑えてるんだよ?」
――…ずっと前。
臣くんと暮らし始めて少し経った頃、お姉ちゃんにもユキにも言われた事がある。
それが……


『良く笑うようになった』


と言う事。
昔の私は、こんなに表情が表に出る事はなかった。
それ程までに、感情を内へ押し込めていて。
……だから、自分でも少し驚いたほど。
ああ、私はこんなに普通に笑えたんだ。
それが凄く嬉しくて、臣くんと一緒に居られる事を心底幸せだと思った。
「…臣くんのお陰なの……だから…そんな風に言わないで」
もしも今。
私の傍から臣くんが居なくなってしまったら――……その時の自分が想像すら出来ない。
…でも、これだけは言える。
きっと確実に、笑顔が消えるという事だけは。
「っ…え…?」
「……俺もそうだよ」
「…臣くん……」
「…俺だって、ひよりが傍に居てくれるようになって、大分丸くなった」
そう言って笑ってくれた臣くんが、まるで抱きしめてくれるかのように両肩へ手を置いて正面を向かせた。
その顔。
そして、その言葉。
それらが、何よりも誰よりも嬉しい。
…幸せって、こういう事を言うんだ。
「…えへへ」
臣くんを見ていたら、自然に笑みが浮かんだ。
ありがとう、臣くん。
…きっとこれから何度言っても足りない位、その言葉を口にするだろう。
「そろそろいいか」
「……あっ…いい匂い…」
臣くんが鍋の蓋を取ると、ふわぁっとしたワインのいい香りが広がった。
……ワイン。
えへへ。
大人だなぁ…って感じ。
………なんて思っていたら。
「…え?」
「味見するか?」
「……いいの?」
「いいよ、別に」
少しだけ笑みをくれた臣くんが、そのまま頷いてくれた。
…味見。
……えへへー。
私、味見って凄く好き。
だって、何だか特別っていうか……独特の美味しさがあるじゃない?
だから、凄く凄く嬉しい。
「…え?」
「少し熱いかもな」
「ん。平気」
スプーンですくってくれた臣くんが、それを口の前まで運んでくれた。
…えへへ。
美味しそう。
「…あー……んっ」
スプーンを口に含んだ、その途端。
………。
……………。
……………ふわ…。
「美味し……」
「それは良かった」
まろやかなのに、凄くコクがあるって言うか…。
……美味しい。
ホントに、ホントに美味しい。
何て言うかもう、この言葉しか当てはまらないと言っても過言じゃない位だ。
「…ふぇ…?」
「付いてる」
「……あ…」
小さく笑った臣くんが、唇の端を親指で拭ってくれた。
どうやら、臣くんに味見させて貰った時に、付いてしまったらしい。
「………」
…その指先を……何も言わずに、舐める…。
………臣くんが。
…………。
「……ひより?」
「……………」
「…どうし――…っ…!」
「臣くん…」
気付いた時には、身体から力が抜けて臣くんへとしな垂れかかってしまっていた。
…身体が、ちょっとだけ熱い。
って言うか、顔がって言うか……。
それに、ふわふわして、なんだか………凄くイイ気持ち。
「臣くん……えっち…」
「…ひより?」
「舐めちゃダメだよ…ぉ…」
えへへと笑いながら、自分でも何を言っているのか微妙に分からない。
だけど、とってもとっても楽しかった。
…えへー。
ふわふわして、変な感じー。
「もぉ……やだぁ」
「待て、ひよ――…ッ…!」
「えへへ…臣くん……好きぃ…」
「ひより…ッ…!」
シンクに身体をぶつけた臣くんの首に、たらんと両腕を回す。
…えへへ。
臣くんらしくないよ、その顔。
……そんな困った顔…初めて見たかもしれない…。
「……臣くん…」
「待てって、だから…!ひより!」
「…えへへ……臣くんだぁ…」
ぎゅうっと擦り寄るように頬を胸へと寄せ、瞳を閉じる。
…臣くんの匂いがする。
「…大好き…」
瞳を閉じて笑みを浮かべたままそんな事を呟いたのが、私の記憶にある一番最後の事だった。


――…次に目を覚ましたのは、2時間後の事で。
なぜかソファで眠っていたらしいんだけれど……その間の事は当然と言えば当然らしく、全く覚えてなかった。
……ただ。
ただ、1つだけ。
…夕食の時……ハッシュドビーフを食べながら少し疲れたように、『今後もう、味見はさせない』と臣くんがため息をついた事が、やけに印象的だった。

#10:迎え(2)

「お疲れ様でしたー」
「っ…!」
試着室のドアをそーっと開けると、いきなり元気の良すぎるお姉さんの声が聞こえた。
「いかがでしたか?……うわー、可愛いー!」
「えぇっ…!?そ、そう……ですか…?」
「ええ、とってもお似合いですよ。ほら、この辺りとか……足が綺麗だから、凄くイイー」
「…うぅ…」
にこやかな笑みのままで褒めて貰えるのは、勿論嫌じゃない。
…嫌じゃないけど………。
……うー。
でもやっぱり、そんなに良く通る声で言われると、物凄く恥ずかしいんだけれど。
「…あ」
「良くお似合いですよ」
お姉さんに苦笑を浮かべながら鏡で後姿をチェックしていたら、そこに――…臣くんが来てくれた。
「……ど……どう…かな?」
「…………」
「…臣くん?」
「………短いな」
「…え?」
「いや、何も」
つま先から腰までしっかりと見た彼が、一瞬瞳を細めた気がした。
…けれど、すぐに彼は首を振って。
そして――…
「っ…」
「似合ってるよ」
「…臣くん…」
ふっと優しい笑みをくれた。
…本当は、誰よりも臣くんにそう言って欲しかった。
試着しながらも、やっぱりどきどきしっぱなしで。
……自分でも余り穿かない長さだし、素材もあまり多く持っていないモノ。
だから、もしも似合わなかったら………。
…臣くんに、『似合わない』って言われたら……。
そう思うと、物凄く不安でたまらなかった。
――…なのに。
臣くんは、今、笑顔で頷いてくれて。
……嬉しかった。
本当に、本当に良かったと思えた。
「…ありがと、臣くん」
「礼を言われるような事はしてないだろ?」
「……えへへ」
少しだけ困ったように笑った彼を見たら、一層笑みが浮かんだ。
「この服、このままで行けますか?」
「あ、はい。大丈夫ですよ」
「っ…臣くん!?」
にまにまと出てしまう笑顔をこらえながら鏡を見ていると、背中の方でそんなやり取りが聞こえた。
…ちょ……ちょっと待って!
そんな勇気、私にはっ……ちょ……ちょっと……無い…。
だって、こんな…こんなに短いんだよ?
ちょっとでもしゃがんだりしたら、その……見えちゃう…かもしれないわけで。
……うぅ。
勿論臣くんが褒めてくれた事はとても嬉しい。
だけど、元々おっちょこちょいと言うか、しっかりして無いというか…。
そんなんだから、凄く不安だった。
…臣くんと一緒に居て、カッコ悪い事したら……臣くんに迷惑が掛かるのに。
「…嫌か?」
「……っ…」
慌てて臣くんに首を振ったら、ふいにこちらを彼が見つめた。
…そう……言われると、困ってしまう。
嫌じゃない。
だけど、ちょっとだけ……恥ずかしい。
………でも……。
「……臣くんがいいなら…」
「それじゃ、決まりだな」
「…………うん…っ…」
判断を彼に託すと、即答でお姉さんと二三言葉を交わしているように見えた。
…なんか……恥ずかしい。
でも当然、やっぱり……嬉しくて。
………えへへ。
臣くんを見ながら、やっぱり笑顔しか浮かんでこなかった。


「ありがとうございました」
お姉さんがタグを切ってくれたお陰で、すんなりとお店を出る事が出来た。
当然のように着ていたスカートは袋に入れてくれて。
……なんだか………夢みたい。
まさか、本当にこのスカートを自分が穿いているなんて。
ある意味一目惚れのようなモノだっただけに、本当に嬉しくて仕方がなかった。
「臣くん、ありが――……」
はた。
「…ひより?」
ショップを出て、本当に少し歩いた所で。
ぴたっと言う音が聞こえる位に、足が止まった。
……ちょ…っと待って…。
だって、このスカート……穿いてる、って事は……当然お会計を済ませたって事だよね?
……………でも。
あれ?ちょっと待って?
…良く考えてみて。
………。
……………。
……私……お会計、してない…よね?
………それなのに…………これを穿いてる、って…事……は………。
「ッ…!!臣くん…っ…!!」
「どうした?」
「私っ…このスカートのお金、まだ――」
…だけど。
眉を寄せてそれを言い終わる前に、彼が頭に手をやった。
「……臣くん…」
「俺が言ったんだから、気にする事はないだろ?」
「っ…でも!!」


「一日一つ、願い事叶えてやる」


「……っ…」
「…あれ、もう忘れたわけじゃないよな?」
「けどっ…けど、あれは…!!」
「金が掛かるとか掛からないとか、そう言う事を気にするんじゃない」
途端に、『それとも気に入らないか?』と少しだけ寂しそうに呟いた彼に、瞳が丸くなった。
「っ…そんな事無い…!すごく…すごく嬉しかったの…」
彼の腕を掴み、慌てて首を振る。
…そんなんじゃない。
臣くんがしてくれた事で、嬉しく無かった事なんか一度もないんだから…!
そう言う意味をこめて彼を見つめると、暫く私を見てから……彼が小さく頷いてくれた。
「…それじゃ、買物して帰ろう」
「………うん…っ」
ぽんぽん、と少しだけ軽く撫でるように。
…でも、臣くんの優しさと……気持ちと。
そのどちらもがしっかりと身体に伝わってきて、心まで温かくなった。
「…どうした?」
「……えへへ」
きゅ、と服の袖を掴み、彼を見上げる。
…少しだけ不思議そうな顔が、ちょっぴり嬉しかった。
「ありがとう、臣くん」
改めて笑みを浮かべ、しっかりとお礼を言葉にする。
……本当に、本当に嬉しかったの。
そんな意味をこめて首を少しだけ傾げると、ふっと笑って正面に向き直った。


夕飯のおかずは、何にしようか。
そんな話をしながら一階の食料品売り場へ移動し、カート置き場へと向かう。
…臣くんと、日常的な事について話をする。
それが出来る事が、私にとっての嬉しい事でもあり……ささやかな幸せでもあった。
…だって、そんな話をしていると、本当に一緒に住んでるんだなぁって実感出来るし…。
……えへへ。
それに、最近は臣くんに料理を教えて貰ってるのだ。
手際が良くて私とは全然違う、政臣先生。
でも、怒らないで最初から最後までちゃんと教えてくれる。
それが、ここ最近の私にとっての、何よりも楽しくて充実した時間になっていた。
「あれ?…ぴよ?」
「え?」
どこか抜けてるようなあっけらかんとした声で足を止めると、そこには――…それはもう良く知っている人物がいた。
「ユキー。珍しいね、こんな所で会うなんて」
「だね」
臣くんの家に引っ越してからと言うもの、なかなかユキとひょっこり顔を合わせるような事が無くなっていた。
だからこそ、毎日学校で会っているにもかかわらず、何となく嬉しくてそちらへ駆け寄ってしまう。
「どしたの?こんなトコで……って言うか、そのスカート。かわいー!」
「ホント?…えへへー。これね、臣くんが買ってくれたんだよ」
「うっそ!お兄様が!?…すご。優しいじゃない」
「…もー。臣くんは、いつだって優しいってば!」
物凄く意外そうな顔をしたユキに眉を寄せると、くすくす笑いながら『だってさー』なんて続ける。
…もぅ。
臣くんは優しいんだってば。
……もっとも…皆はあまり知らないに変わりないけど。
「で?」
「うん?」
少しだけ訝しげに眉を寄せたユキが、腰に両手を当てて私を見た。


「その、優しい片桐先生はどこに居るの?」


「…………」
「…………」
…今……何か、仰った…?
一瞬何を言われたか分からなくて…って言うか……頭が…働かなくて…。
「…え…?」
「え、じゃないわよ。どこにいるの?そのスカート買ってくれた、優しいお兄様は」
「………ふぇ!?」
呆れたようなユキの言葉で、慌てて自分の周りを見直してみる。
……ない…。
…い……居ない…っ…!?
「うそ!」
「…うそ、って…。何よ、迷子になったの?」
「っ…でも、でも!本当に今の今まで、一緒に…」
そう。
間違いなく、今まで…ほんの少し前まで、臣くんと一緒に居た。
…言うなれば、ユキに会う前までは。
「ふぇえ…!ど、どうしよっ…」
「…あーあ。何なら、呼び出して貰った方がいいんじゃないの?」
「それは……っ……」
迷子。
…と言う事は、当然私が迷子になっているわけで。
………でも……。
…だからと言って、館内放送で『片桐政臣様、お連れ様がお待ちです』なんて言って貰うのは、とても…とっても忍びない…!!
「ご、ごめんっ!ユキ、また学校でね!」
「ん?あー、了解ー。…気をつけるのよー」
「ごめんーっ!」
ばっと両手を合わせて頭を下げ、そのまま食品売り場方面へ走り出す。
すると、背中に声を掛けてくれながら、ユキが手を振ってくれた。
…ふぇーん。
まさか、こんな所で迷子になるなんて思わなかった…。
さっきまで一緒に居たんだよ?
……臣くん、怒ってるよね…きっと。
『どこに行ってた』なんて、呆れるに違いない。
…………うぅう。
「…どうしよ…」
食料品売り場横にあるエスカレーターの辺りで人を探してみても、臣くんの姿は見つからなかった。
…まさか、気付かず買物してる…なんて事は無いだろうし……。
…………となると…。
「……うぅー…」
…困ったなぁ。
………。
……………。
………………………あ。
「…そうだ」
ふと頭に浮かんだ事で、ようやく顔が上がった。
…そうだ。
そうだよっ!
どうしてこれまで、気付かなかったんだろう…。
こんな簡単な事なのに。
「携帯があるじゃない」
ポケットを探って取り出したのは、さくら色の私の携帯電話。
…えへへ。
このデザインと色、すっごく好き。
可愛いんだもん。
「…臣くんに電話すればいいんだ」
折り畳みを開いてアドレス帳を出し、そこから――…臣くんを選ぶ。
……えへへ。
選ぶって言っても、そうするまでもなく、臣くんはアドレスの一番最初に来てるんだけれどね。
「……えへー」
何度見ても、ついつい笑顔が出てしまう。
…だって、臣くんのだよ?
彼の、彼だけの、特別な番号とメールアドレス。
教えて貰えた時は、本当に本当に嬉しかった。
「…それじゃ――……ん?」
ボタンを押して、彼に連絡しようとした時。
…ふいに、手元へ影が落ちた。
「……あ…」
「どーしたの?もしかして、迷子とか?」
「うっそ。カワイソー。…あ、それじゃあさ、俺たちが一緒に探してやるよ。なー?」
「そそ」
もしかしたら、臣くんかもしれない。
…そう、思った……んだけれど……。
「…あの…」
「ん?どしたの?」
「大丈夫だってー。探すだけだし」
目の前に居たのは、臣くんより背は低いものの…私よりはずっと高い人で。
…知らない……人。
臣くんと全然タイプが違って、どっちかって言うと……未継君みたいな。
そんな知らない人二人が、楽しそうに私の前を阻んだ。
「…あの…っ…大丈夫ですから」
「いやいや、大丈夫そうに見えなかったんだよねー」
「そそ。すっげー困ってたみたいだし?」
「なぁ?ほら、一緒にいこーぜ」
「っあ…!」
「ねーっ」
「や、まっ…!?」
ぐいっと腕を取られ、そのままそちらへと引っ張られる。
鼻に付くほどの強い香水の匂いと、けらけらと笑う高い声。
…そして――…無理矢理に回される、腕。
そのどれもが嫌で、恐くて……ぎゅっと身体を縮こませながら、足が動かなかった。
嫌だ。
…こんなの、やだっ…!
「やっ…だぁ…!!」
半分泣きそうになりながら、そう…声を上げた時。
それまで肩に回されていた強引な腕が無くなって、代わりに…とっても優しい腕が、私を後ろに引き寄せた。
「……お…みくん…っ」
「手を出すな」
そこに居たのは、紛れも無く…臣くん本人で。
優しく、だけどしっかり私を抱き寄せてくれながら、前の二人を鋭く見つめた。
「っ……ツレ居たんかよ」
「ち。いこーぜ」
それぞれが私と臣くんとを睨むような形で、背を向ける。
…と、同時に。
「…っ…ひより…!」
「…恐かった…っ…」
がくっと身体から力が抜けて彼へしがみつくようにすると、自然に涙が浮かんだ。
…臣くんが居なかったら。
ここに来てくれなかったら。
そうしたら――…私は今頃どうなっていたか、正直分からない。
「……臣くんっ…」
「…あれ程離れるなって言っただろ?」
「ごめ、なさい…っ…」
私の身体を支えてくれるように手を回しながら、彼が髪を撫でてくれた。
…安心する、温もり。
声。
そして――…匂い。
どれもこれもが臣くんを表していて、心底落ち着く事が出来た。
「…あ…」
「買物だけして、帰ろう?」
「……うん…っ」
肩を抱いたまま顔を覗き込んでくれた彼に、しっかりと頷く。
…大きな掌。
そこから伝わってくる、臣くんの体温と……優しさ。
………えへへ。
やっぱり臣くんは……凄い。
でもね?
絶対に、臣くんが助けに来てくれる……って思ったの。
そんな意味をこめて彼に笑みを見せると、ぽんぽんと頭を撫でてくれてから、『気をつけるんだぞ』と続けた。

#10:迎え(1)

「……雨…」
ソファに座って膝を抱えたまま、すぐ目の前にある大きな窓を見つめる。
…ただ、見つめる。
…………。
「…はぁ…」
「……さっきから、そればかりだな」
「え?」
何度目かのため息をついた所で、少し呆れたような声が後ろから聞こえた。
「…臣くん」
「そんなに雨が嫌なのか?」
「……う」
新聞を片手に隣へ座り、同じように窓を眺める。
…だけど、臣くんはそのまま私を見つめて、小さく肩をすくめた。
「…そういう訳じゃないけれど……何て言うか、こう…」
「こう?」
「……つまんない…」
「雨が嫌なんじゃないか」
「………うん」
…そうなんです。
つまんないんです。
……だって、今日は折角の土曜日なのに。
折角…臣くんとお出かけ出来ると思ったのに。
「…………」
なのにこれじゃあ、そんな事出来そうに無い。
むしろ、家の中で勉強とかをさせられてしまいそうだ。
「……ひより」
「え?」
「…買物、行くか?」
「……ホント…?」
「…つまんないんだろ?家に居るのが」
「…えへへ」
仰る通りです。
ため息をついた彼に苦笑を見せると、『仕方ないな』なんて顔をしてから立ち上がった。
「それじゃ、すぐに支度しておいで」
「うんっ!」
すぐ隣の部屋へ向かった彼に頷くと、自然に笑みが浮かぶ。
…えへへ。
臣くんとお出かけ。
それが出来るならば――……雨でも雪でも、いいかな。
何を着ようか考えながら笑みを浮かべ、廊下の突き当たりにある自室へと足を進めた。


「…人、多いねー」
「そうだな」
近所にあるショッピングモールへ、臣くんの車で向かう。
…すると、駐車場は一杯で、立体駐車場の4階にまで上がる羽目になった。
一体どこから、こんなに人が集まってくるんだろう……。
それとも、あれかな?
やっぱり皆、外が雨だからって言う理由で……私と同じくここに来たのかもしれない。
「…皆、考える事は一緒だな」
「え?」
「ひよりと同じで、雨嫌いばかりだ」
「あはは」
思っていた事を苦笑交じりに呟いた臣くんに、つい笑いが出た。
確かに、言う通りかもしれない。
このモールはショッピングだけじゃなくて、ゲームセンターもそうだし、映画館なんかも入っている。
だから、この中だけでも十分一日遊べるほど。
……とは言っても、なかなか一日ここに居た事は無いけれど。
「臣くん、何か見たい所ある?」
「…そうだな……。敢えて言うなら、本屋」
「本屋さん?何か買うの?」
「問題集」
「……問題集……」
「勿論、ひよりのな」
「…ふぇ」
エスカレーターですぐ下のフロアへと降りながら彼を見ると、こちらを見ずに淡々と続けた。
…うぅ。
こ、この前買ってもらった問題集もまだ終わってないんだけれど……。
……でも、そんな事言えない。
だって、『週に一度チェックする』と言われてやっていたんだけれど、最近そのチェックがなかったから……てっきり臣くんも忘れてるんだとばかり思ってたし。
忘れてくれているなら、それはそれで……なんて思った時。
前を向いたままだった彼が、いきなり私を見つめた。
「そろそろ、あの問題集も終わったか?」
「っ…な……」
「……見せて貰うからな」
「うぇ!?」
その瞳は、『終わらせて置くように』と無言で言っていた。
…とほほ。
た、確かに……あれからもう、二ヶ月目になろうとしていたし……。
「家に帰ったら見ようか」
「…ごめんなさいぃ…」
「どうして謝る?」
「………うぅ」
私がやってない事を、彼は知ってるはずなんだ。
…でも、そんな素振りは全く見せる様子も無くて。
………ふぇーん。
どうやら、臣くんにはやっぱり言い訳も内緒事も通じないみたいだ。
「…そう言えば、大分前にもう一冊――」
「いいっ!も、もういい!無いもんーっ!」
エスカレーターを降りると同時に顎へ手を当てた彼に、慌てて手を振る。
これ以上余計な事を思い出されたりしたら、困る!本当に!
そんな理由から、一歩二歩彼の先へと小走りで出た。
「……あ」
その時、目に入った物。
それは――…丁度すぐそこのショップにあった、可愛い色とデザインのスカートだった。
少しだけ短めだけれど、でも、やっぱり可愛くて。
……いいなぁ…。
ショーウィンドーに飾られているそれを、ついガラスに近づいてまじまじと見てしまう。
うー……。
……うー……ん……。
…………欲しい。
でも、今月はちょっと……厳しい。
私はいつもお小遣いとして、お姉ちゃんから月の始めに決まった額を貰っていた。
それは、本当に私が自由に遣っていいと言われている物で、学校の備品を買うお金とかとかとは全く別。
……なんだけど…。
今月はもう、携帯を払って、それにちょっとユキと遊びに行ったりして……お財布の中は厳しい。
だからこそ、本当はバイトしたかったんだけれど……臣くんにああ言われたら…そういう訳にも行かない。
「……はぁ」
実は以前、臣くんに話した事があったのだ。
『バイトをしたい』と。
…でも、その時の臣くん……すごーく嫌そうだったんだよね。
学校でも見せないほどの、恐い顔。
眉を寄せて、心底――…機嫌悪そうで。


『どうしてバイトする必要がある?』
『学業に支障が出ないと言い切れるか?』


そんな風に諭されて、結局『うん』と言うしか出来なかった。
…本当は、やっぱり……二人に全部抱っこにおんぶのままって言う状態から、抜け出したかったって言うのがあったんだけれどね……。
でも、その事をぽろっと言ったら、今度はお姉ちゃんと二人で説得された。
……とほほ。
なので、今では『バイト』と言う言葉が我が家で禁句になっている。
「…買ってやろうか?」
「ふぇ!?」
突然聞こえた声で、妙な声が出た。
見ると、すぐ隣に臣くんが居て。
いつもと同じ顔でスカートを見てから、私を見て『欲しいんだろ?』と続けた。
「ちっ、ちがっ…!あのね、臣くん!違うの!」
「…何が?」
「う。…だ、だからっ……その…」
ぶんぶんと手と首を振って否定するものの、やっぱりそう簡単に『そうか』なんて言ってくれるような気配はなかった。
…うぅ。
別に、ねだろうとか買って貰おうなんて、これっぽっちも思ってなくて…。
…………。
「…あの……あのね?臣くん」
「うん?」
「……これは…その……べ、別に、欲しいとかそう言う気持ちで見てたんじゃなくて…」
「…なくて?」
「………ただ、そのっ……か……可愛いなぁ…なんて…」
ガラスに背中をくっつけながら、えへへと笑って誤魔化してみる。
だけど、目の前で腕を組んだまま私を見つめていた臣くんは、全く気にする様子もなく口を開いた。


「つまりは欲しいんだろ?」


「う。だ、だから違うのっ!」
「違わないだろう」
「…うぅー…」
……意味なかった…。
あれだけ頑張って誤魔化してみたつもりだったんだけれども、結局臣くんはそこから動いてくれなくて。
…とほほ。
情けない事に、視線すら合わせる事が出来なくなった。
「ひより」
「…え…?」
「試すだけ試したらいいだろ?」
「…っ…。……でも…」
「でも?」
「…………」
――…そうしたら、店員さんに『やっぱりいいです』なんて断れないんだもん。
…うー。
こんな事言ったら、臣くん絶対に呆れるに違いない。
でも、昔からそうなんだから、仕方ない事だと思う。
試着とか試食とか試飲とか。
そう言う『おためし』という物は、一番苦手な分野だった。
試すだけならば、勿論いい。
…でも。
その後の、あの……店員さんの何かを期待するような眼差し。
あれがどうしても苦手で、無料だけで済ませる事が出来なかった。
…だから、正直言って試したくない。
試してしまったが最後、きっと買わなきゃ居られなくなるし、それに――……
「…………」
……やっぱりこのスカート、可愛いんだもん…。
――…なんて、ちらりとマネキンが着ていたスカートを見た時。
ふいに、臣くんが頭を撫でた。
「すみません」
「…え…?」
「この服、出して貰えます?」
「っ…臣くん!?」
一体どこを見ているんだろう…なんて思っていたら、臣くんは近くに居たショップのお姉さんに声を掛けていた。
…ちょ……ちょっと待ってー!?
私、まだ何も返事っ…!
「……ひより?」
「…ぅ……だ、だって……私…」
慌てて彼の腕を引き、ぶんぶんと首を振る。<br>
…だけど。
「きっとお似合いだと思いますよ」
「…俺もそう思うけど?」
「……え…?」
お姉さんが言った言葉に、さりげなく……臣くんの言葉が聞こえた。
………ホント…?
それで思わず、スカートと臣くんとを見比べてしまう。
「…それじゃあ……」
「あちらが試着室になります」
「……行ってくるね?」
「ああ」
にこやかなお姉さんに誘われてそちらへ向かいながら、臣くんを一度振り返ってみる。
……優しい顔。
何て言うか、こう……どうして臣くんは私がしたいって思ってる事を、私よりも先にしてくれるんだろう。
お店の入り口に立って小さく頷いた彼を見ながら、嬉しさと気恥ずかしさから笑みが浮かんだ。

#Ex:第一印象

『桜守り』と言う言葉がある。
…いや、言葉とは少し違うか。
それ自体が、れっきとした意味を持つ役の事なんだから。
実家の庭には、昔から幾つかの桜の木が植えられていた。
春が訪れ、時が満ちる事でそれらは何の迷いも無く綺麗な花を咲かせる。
幼い頃からそれは当然の光景で、俺にとって『当たり前』だった。
――…だが、ある日。
祖父が、一本の桜の木の傍に立って色々と何かをしているのを見かけた。
当然俺にとって、その光景こそ不自然極まりない物で。
彼に何をしているのか尋ねたのだが………返ってきた答えは、さらに不自然な物だった。


桜の手入れをしているんだよ。


祖父にとっては、何て事無い普通の答えだったんだろう。
だが、やはり俺にとっては素直に頷けるわけが無かった。
…そうだろう?
桜と言うのは時が来れば何の迷いも無くごく自然に『咲く』モノであって、手入れなど必要ないのだと思っていたから。
人が力添えなどしなくても、桜は自分の力であれだけの花を咲かせるのが『当然』だと思っていたから。
……だが、それは幼い俺の勝手な思い込みだったんだと、それから暫くして気づく事になった。
あれだけの美しい花を咲かせるには、その力添えをする人物が必要で。
どんなモノであろうとも、独自の力でどうにかなるような事など無いんだと。
人が大きくなるのと同じで、桜も誰かの助けが必要なんだ――…と。
「…………」
あれから、幾許(いくばく)かの時が過ぎた今。
俺の目の前には、あの幼い時と同じ――…いや、それよりもずっと立派だと思える桜が花を咲かせていた。
子供だから大きいんだと思っていた桜の木は、今でもずっと大きな物に感じる。
…どうやら、俺の生まれるずっと昔からここに居るこの桜にとって、俺はいつまで経っても追いつける存在ではないようだ。
…………そう言えば…。
昔、必ずと言っていいほど、この時期にこの桜を見に来ては喜んでいた子が居た。
幼い面影しか思い出す事は出来ないが、いつも姉の陰に隠れてこちらを伺い、どこか不安げで、物怖じしていて…。
「…………」
だが、桜の前では姉よりも前に出て、両手を空へと向けていた。
小さい身体で、精一杯に。
そして必ず、良く通る高い声で『綺麗だね』と笑顔を浮かべていた。
いつだって遠目からでしか見る事は無かったが、それでも、はっきりと分かるほど明らかな笑みを。
……今頃、どうしているか。
そんな事を考えるのは、ひどく俺らしくないとは思う。
しかも、これまで全く思い出すような事も無かったのに。
…今になって、なぜ?
「……………」
その答えは、やはり目の前にそびえ立つこの桜のせいなのかもしれない。
そして――…昔彼女に与えた傷に対する自身の後悔の…せい。
…………。
…泣かせるつもりは、無かったんだ。
ただ、上手く表現する事が出来なかっただけで。
あの時はまだ、『可愛い』とか『嬉しい』とかって事を、素直に口になど出せなかったから。
……まぁもっとも、あれから十数年経った今でも、そんな言葉がすんなりと口をついて出るかどうかは甚だ疑問が残る所だが。
「政臣」
名前を呼ばれて振り返ると、そこには一番上の兄が居た。
にこやかな笑みを浮かべたままで近づき、さらりと風に流れる長めの髪を手で抑える。
「…今年も綺麗に咲きましたね」
「そうだな」
彼は普段着として着物を身に付けているので、時折端がふわりと風になびいた。
だが、足元はその格好に不釣合いなサンダルという出で立ちだった。
…家元ともあろう人間がこんなんじゃ、門下生が泣くな…。
きちんとしているようで、実はどちらかと言えばざっくばらんな彼。
まぁ…だからこそ、気を許してしまって後で痛い所を鋭く突かれるのだが。
「………ああ、そう言えば御祖父様が心配していましたよ?」
「…何を?」
「政臣に、『桜守り代理』が務まるかどうか」
「……心配なら、桜を残して家を離れなければいいだろう…」
「ははは。確かに、言う通りですね」
明るく笑い飛ばした彼にため息をついてから、改めて桜を見上げてみる。
この桜の護り主である祖父は今、余生を楽しむなどと言う名目で海外へと身を寄せていた。
『暖かくなったら帰る』とは言っていたものの、この桜が咲いても戻って来ないのだから、下手したら夏になるかもしれない。
…まぁ別にいいんだが。
「……?」
「ん?」
「…いや……。…今何か、声が聞こえたような…」
さわさわと枝を揺らす風に乗って聞えてきた、微かな声。
だが、なぜか自分でも驚くほどに鋭い反応を身体が見せた。
……まさか。
そんな偶然があるはずない。
幾らこの桜が花を開いたからと言って、そんな事があるわけなど。
「…っと。それじゃあそろそろ私は、部屋に戻りますね」
「ん?…ああ。もうそんな時間か」
「ええ」
懐から懐中時計を取り出して笑みを浮かべた彼を見ると、『早いですね』などと言ってから縁側へと戻って行った。
今日は、ある意味特別な日でもあり――…そして忘れる事など出来ない日になるであろう。
……彼にとっても、俺にとっても。
「…………」
この年で、こんな大役を仰せつかる羽目になるとは。
………いや。
むしろ、どうして俺が抜擢されたのかすら良く分からないのだが。
俺じゃなくて、むしろ他の兄達の方が絶対的に正しいと思える今回の取り決め。
なのにも関わらず、彼らが一体どうして俺を指名したのかは分からないが、正直言って……あまりいい気はしないのが正直な所。
「…結婚、か」
スーツのポケットから煙草とライターを取り出し、一本くわえてから火を点ける。
すると、はらりと舞い落ちてきた桜の花びらが煙草に当たって地へと滑って行った。
…近くで吸うな、とでも言っているのか?
風で大きく揺れた枝を見上げると、自然に口元が緩んだ。
「政臣ー」
「っ…」
遠くから聞えた、大きな声。
…勿論、誰が俺を呼んでいるかなんて事は、振り返らなくても分かっている。
なんせ彼女は――…近い将来の約束を交わした相手その人なのだから。
「ごめんね、遅くなっちゃって」
「…いや、別に」
「んもー。相変わらずこの庭広すぎて迷っちゃったのよ。この子が」
「…ごっ……ごめんなさい!」
ふわりと風になびく長い髪を揺らした彼女が、すぐ隣に居た少女の頭を無理矢理に下げさせた。
「ッわ…!」
「きゃ!」
――…刹那。
ごうっと言う大きな音と共に、桜の枝は勿論、辺りにある全ての物を払うかのように一陣の風が吹いた。
瞬間的に目を閉じ、庇うように腕を顔の前に上げる。
だが、本当にそれは一瞬の事で、すぐに辺りはまたシンとした静寂に包まれた。
「……っ…」
腕を下げ、瞳を開いた瞬間。
目に入ったのは、先ほどと同じはずの光景なのに、全く違っていて。
……思わず、喉が鳴ると同時にぞくっとした鳥肌が立った。
「…あー、びっくりした。……ん?…やだ、なぁに?ひよりってば」
「え?」
「桜まみれよ」
「……ふわ。ホントだ…」
先程まで、俺に対して頭を下げていた彼女。
その子の髪は勿論、身に着けていた制服やスカート、そして足元に至る所にまで、桜の花びらがまるで纏わり付いているかのように跡を残していた。
「…あはは。凄いね」
「笑ってる場合じゃないでしょうが!」
「だってー」
そんな様子を見て、ひどく楽しそうに笑う少女に、思わず目を奪われたと言っても過言じゃなかった。
…桜……に好かれた、子。
しかも、ただの桜じゃない。
まるで、ウチの桜が待ち侘びていたかのように迎えた子だ。
「…あ…」
花びらを払おうともせず、むしろ喜んでいるかの如く1つ1つに触れていた彼女を見つめていたら、こちらの視線に気付いたかのように、一瞬瞳を丸くしてから慌てて姿勢を直した。
「は…初めまして。…えっと……あの、月野(つくの)ひよりです」
先程までの無邪気とも呼べる笑顔とは変わって、彼女が見せたのはまさに緊張している事がひしひしと伝わってくるような面持ちで。
…そんなに……畏(かしこ)まられても、こちらが困るんだが…。
余りにも違い過ぎる表情で、思わず笑みが浮かんだ。
「いい名前だな」
「…あ…」
ふっと笑ったままで軽く頷き、手にしていた煙草の灰を落とす。
すると、一瞬瞳を丸くしたものの、彼女はすぐに柔らかく笑みを浮かべた。
――…その顔。
それを見た瞬間、ふと頭に浮かんだのは……そう。
代々我が家に名を残している、『桜守り』と言うあの言葉で。
「…………」
彼女こそ、護り、そして手を差し伸べるべき対象なんじゃないだろうか。
屈託無く笑い、心底から人を疑わずに受け入れようとする彼女を見ていたら、心の底からそう思った。


手を差し伸べなくとも、きっと大きく育つであろう。
何も与えたりしなくとも、色んなモノを得ていくであろう。
――…だけど。
手を差し伸べ、沢山のモノを与えてやれば………きっとその実りは一層大きなモノになるはずだから。
桜と同じ淡く儚い印象ながらも、潔さと芯の強さを持ち合わせる彼女に俺の出来る事をしなければならないとこれ程までに思ったのは、きっと彼女が最初で最後になりうる存在だからだったんだろう。


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#9:リップクリーム

「ぴーよ」
「…ん?」
お弁当を食べ終えた、後。
いつもと同じようにユキと話していたら、『そうそう』と何かを思い出したように彼女がバッグをあさった。
「なぁに?」
「まぁ、ちょっと待ちなさいって」
やけに楽しそうなユキに眉を寄せるものの、こちらを見ずに何やら真剣な様子。
…?
それがどうしてか分からなくて、結局私は待ちぼうけみたいな感じになっていた。
「じゃじゃーん」
「……?なぁに?それ」
「ふっふっふ。聞いて驚け、見て騒げ」
彼女が取り出したのは、一本のリップのような物だった。
…リップ。
ああ、また新しい物買ったのかな?
そんな感想しか持たなかったんだけれど、キュポっと言ういい音で蓋を取ったユキが、私をおいでと手招いた。
「なぁに?」
「ぴよ、これからお兄様の所行くんでしょ?」
「?うん。教科連絡だから」
「んじゃ、ばっちりおめかししないとね?」
「…んー……。…どうして?」
「ふふーん。…エチケット」
「…えちけっとぉ…?」
「何よ。文句あるの?」
「んー…別にそう言う訳じゃないけれど」
頬に手を当てながら、ユキがそれを唇に当てた。
…うん?
何だか、普通のリップよりも柔らかいような…。
それに、凄く凄く甘くていい匂いがする。
「…え?」
「よし。完璧」
ぐっ、と目の前で親指を立てられ、まばたきが出た。
……んー…。
どうして、こんなに楽しそうなんだろう。
…ただのリップなのに。
だけど、ユキは相変わらず『よし!行くんだ、ぴよ!』なんて私をせかしていた。
……分かんない。
その理由が、分かんない。
どうしてそんな、凄く笑顔なの?
「………」
「ほらー、行って来なさいってば!」
「……うん…」
怪しい。
…だけど、何を企んでるのかが分からない。
「…?」
そんなわけで、結局ユキがどうしてあんな顔をしていたのかも分からずに、職員室へと向かう羽目になってしまった。


「失礼します」
いつもと同じように入り口で声を掛けてから、職員室に入る。
お昼休みだけあって他の先生達の所にも生徒が居たりして、結構騒がしい。
だからきっと、こんな風に挨拶しなくても平気…なんて思ってる生徒も少なく無いだろう。
…現に、男の子達は気にせず入ってきてるし。
……。
………私が真面目過ぎるのかな。
でも、臣くんはきっと私がそうしなかったら気にするだろうから、やめられないけれど。
「片桐先生」
臣くんの机に行くと、他のクラスの数学の先生と何やら話をしているようだった。
…けれど、一応声を掛けてみる。
――…と。
「あ、それではまた」
私に気付いた先生が、ちらっと私を見てから臣くんに頭を下げて、どいてくれ――……?
「……?」
「…………」
「…あの…」
「あ。いや、失礼」
じぃっと見つめられる事、数秒。
まるで何かを確かめるかのようにまじまじと見られ、自然に眉が寄った。
…だって、その先生とは面識なんてないし。
それに、一度も喋った事無いんだから。
「…なんだろう…」
声を掛けると同時に少しだけびっくりした顔で、そそくさと席へ戻った彼。
…むー。
だけどやっぱり、何だかスッキリしない。
顔に何かついてるなら、教えてくれればいいのに。
…………。
……まぁいいや。
「ねぇ、臣くん」
「………」
「あ。えっ…ご、ごめんなさい。…片桐先生」
書類を読んでいた臣くんに声を掛けると、瞳を細めてこちらをちらりと見た。
…うぅ。
だ、だってやっぱりクセなんだもん。
それに二人きりになると、どうしてもそう呼んでしまう。
……ごめんなさい。
「……?片桐先生?」
「……え?」
「どうしたんですか?何か付いてます?」
「……いや…」
頬杖をついたままの彼が、少し瞳を丸くしてから私をまじまじと見つめた。
…そう。
先程の、あの先生と同じように。
………もぅ。
一体何?
臣くんまで、こんな……。
…気になる。
凄く凄く気になる。
なのに、臣くんまで何も言ってくれないし……。
何もないなら無いで、そんな素振り見せないでくれればいいのに。
「…片桐先生」
「………そう…だな。今日は普通に授業を続ける」
「前回の続きから、ですか?」
「ああ」
パラパラと教科書をめくった彼が、私から視線を外してまっすぐ前を向いた。
……なん…だろう。
…まるで、わざとそうしている様な……。
「……片桐先生?」
「何だ」
「…あの……」
「…………」
…やっぱり。
敢えて顔を覗き込もうと首を傾げても、ふいっと視線を上手く外された。
…何で?
私、何かした?
……臣くんの機嫌、損ねるような事。
「…………」
「…………」
彼に何も言って貰えない事が、無性に寂しかった。
…辛かった。
…そして、どうしようもなく不安になる。
……何?
どうして、臣くんまでそんな風にするの?
「…………」
…だけど、やっぱり臣くんは何も言ってくれなくて。
………。
…………だから……私も、何も言う事が出来なかった。
「…それじゃあ、失礼します」
「……ああ」
結局、臣くんは最後まで私を見てくれなかった。
…それが、辛い。
何もしてなかったはずなのに。
…なのに、臣くんは――……
「………」
…じわっと涙が浮かぶ。
何もしてないんだよ?私。
………それとも、何もしてないから……いけなかったのかな…。
誰とも視線を合わせずに入り口へ向かい、ドアに手を――…掛けようとした時。


「月野」


「……え…」
少しだけ大きな声で、臣くんが私を呼び止めてくれた。
「なんですか…?」
「…ちょっと」
立ち上がった彼が、そのままこちらに歩いてくる。
…だけど、一瞬視線を合わせて『おいで』と言う仕草を見せただけで、すぐに視線は逸らされてしまったけれど。
「………」
……一体、どこへ行くんだろう。
前を歩くシャツ姿の彼に付いて行く……と。
「…進路指導…?」
すぐ隣の部屋にある、進路指導の部屋へと連れて行かれた。
……?
私はまだ二年生。
だから、正直言ってこの部屋にはまだ来た事は無い。
……来た事は無い……んだけれど…。
「………」
「…あ。ごめんなさい…」
ドアを開けて待ってくれていた臣くんに慌てて謝ってから、小走りで中に入る。
…こんな部屋なんだ。
壁際にはずらりと赤本が並んでいて、間仕切りの隣の部屋には、進路指導の先生達が3年生らしき生徒と懸命に話している。
……私もいつか使うのかな…。
なんて事を考えていたら、臣くんが私の手を引いた。
「…こっち…?」
連れて行かれた先は、3つある部屋の1つ。
ドアには小さなガラスの窓がついていて、『相談室』と言うプレートが掛かっていた。
……相談…?
私は別に、相談なんて事は持ちかけてないんだけれど……。
「…臣くん?」
中に入って、置かれていた机に触れる。
そしてそれから彼を振り返る――…と。
「っ…な…」
「………」
後ろ手にドアを閉めた彼が、そのまま私を引き寄せた。
「…お…みくん…っ…?」
「……何をした?」
「………え…?」
「だから。…何をしたんだ?」
ぐいっと両手で頬に触れられ、顔を上に向けられる。
目に入るのは……勿論、臣くんの…顔。
…だけど、何だか少しだけ苦しそうな表情をしていた。
「…臣くん…?」
「唇に何かしたか?」
「…くちびる…?」
彼の言葉に、瞳が丸くなった。
……唇。
そう言われれば、確かに…まぁ……何かしたと言うか、されたと言うか…。
「っ…」
「………」
彼の親指が、突然……唇に触れた。
途端に瞳が丸くなって……顔が赤くなるのが分かる。
…な…んで?
どうしてこんな……。
「……臣くん…?」
「…………」
まるで撫でるかのように指で触れられ、どきどきと一層鼓動が早くなる。
…なん…だろう……。
そんな愛しげに――…そして少しだけ苦しそうに見られたら、私だってどうしていいのか分からなくなる。
それに、こんな……。
……こんな、まるで……キス、してしまいそうな距離で見つめられたりしたら。
「…っ…ぇ…?」
「学校で付けるんじゃない」
「お…み、くん…?」
「…落としておくように」
そう言うと彼は、瞳を閉じて先に部屋を出た。
……??
なんだったんだろう…。
「………」
ゆっくりと彼の顔が近づいたかと思った、あの時。
寸での所で唇に当てられたのは――…彼のハンカチだった。
…ちょっとだけ、臣くんの匂いがする…それ。
………。
…なんで、何か付けてるって分かったんだろう…。
「…?」
彼のハンカチと今は無いその姿を見つめながら、首が自然と傾いた。


――…その後。
臣くんの授業は滞りなく進んで、今日も無事に終わった。
…なんだけれど……。
なぜか、普段は割と合う事が多い視線も、今日だけはぶつかる事がなかった。
……まるで、避けられているのかと思うくらいに。
で。
その事をユキに話してみたら――…彼女、何て言ったと思う?


「お兄様も、男だって事ね」


だって。
……何?それ。
物凄く意味深なように思えるけれど、でも、そうでもないような気もする…。
…………うーん。
けらけら笑っているユキをよそに、結局私は臣くんへ聞く事にした。
『何か変だった?』って一言。
……だけど。
結局その答えを貰う事は、上手くはぐらかされて出来なかったと言う……オチになったけれど。

#8:知らない顔(2)

「っ…きゃ…!」
「…どうしてそんな格好してるんだ」
「あ…これは……」
「そんな服を着るんじゃない」
「…っ…おみ…くん…」
少しだけ乱暴に椅子へ座らされると同時に、彼がジャケットを私へ放った。
…そんな顔……しないで…。
まるで、心底気に入らない物を見ているような彼に、ぞくっと少しだけ不安が走る。
「ごめんなさい…」
「…謝るなら、どうして最初に断らなかった」
「…そ…れは…」
蝶ネクタイを乱暴に取り、ベストと一緒に手近なカゴへと放った彼をちゃんと真っ直ぐに見れなくて、彼のジャケットをきゅっと掴んだまま膝に乗せる。
……そんなに、似合わない?
そこまで、怒る程に。
「…………」
何も言わずに着替えを淡々とこなす彼の足元だけを見るしか出来ず、無性に切なくなる。
…どうして、私だけダメなの?
一緒に居た若菜さんには、何も言わないのに。
…大人だから?
彼女が私よりも年上だから?
それとも――……若菜さんは、似合っていたから?
「…着なさい。帰るぞ」
私の膝からジャケットを取って、彼が肩にかけてくれた。
臣くんの服は、当然だけど私には大き過ぎて。
でも、そのお陰ですっぽりと腰の辺りまで隠してくれた。
……見られたら、困るから?
自分の義理の妹が――…恥ずかしい格好だから?
「………ど…して…?」
「ひより?」
「なんで…私はダメなの…?若菜さんは良くて、どうして…っ……私だけ、ダメなの…?」
「…何?」
ぎゅっと両手を握って、ようやく彼を見る事が出来た。
だけど、何だかとても聞き分けの無い事をしているような気がして、じわっと涙が浮かぶ。
…我侭だって分かってる。
それに――…今私が言っているのは、ただのヤキモチでしかないって事も。
「私っ…子供、だから…?」
「…ひより?」
「…似合わないのは、分かってる…のっ…。…けど、けど……ッ…私…」
少しだけ眉を寄せて私の前にしゃがんだ彼に、ぼろぼろと本音が零れていく。
…そして、先程の――…若菜さんの姿が思い浮かんだ。


『カッコいいわよね』


そう言って、臣くんを見た若菜さんは微笑んだ。
その顔はとっても綺麗で……あの服にも負けない位、とても可愛くて。
…女性特有の、どきっとするようなモノだった。
――…それに比べて、私は?
若菜さんのように可愛くも無ければ、この服に見合うほどの体型でもなくて。
…だけど。
ちょっとだけ、どこかで期待してもいた。
臣くんが一言……咲真さんのように、『可愛いよ』って言ってくれるんじゃないかって。
「…ごめ…なさ……っ…勝手な事…言ってる…」
黙ったままの臣くんが辛くて、ぐしっと不器用に涙を拭ってから無理矢理にでも笑顔を作る努力をする。
…いいの。
分かってたから。
……最初から、自分の期待通りの言葉なんて貰えないって。
私は――…昔から、やっぱり求め過ぎなんだから。
「…ひより」
「えへへ、ごめんね…。すぐに、着替えるから」
「………」
「あ、なんだったら先に帰って貰ってても…。近いし、一人でも大丈夫だよ?」
「………」
「…だから……ちょっとだけ、ごめんね…」
ぱちん、と一度手を合わせてから、彼の前にしゃがんで顔を覗き込む。
…だけど、臣くんは辛そうな顔のままで。
――…ごめんなさい。
私のせいだ。
私が……こんな事したから。
…あの時、若菜さんの誘いを断っていれば――…今頃、臣くんは笑顔を見せてくれていたかもしれないのに。
あんなにカッコ良く決めた彼を、私だって笑顔で賞賛する事が出来たのに。
……全てぶち壊したのは、私。
私が、我侭を言ったから。
…だから、臣くんは――……
「ッ…え…!」
ふっと視線が落ちた時。
いきなり、臣くんが――…私の事を抱きしめた。
ぎゅうっと強く力の篭った腕に捕らわれ、ぴったりと彼に身体が付く。
「…お…みく…っ…」
少しだけ息が苦しくて。
でも、すぐ隣に彼の顔があって。
……なんで…?
背中に当てられている大きな掌から彼の熱さが伝わってきて、無性にどきどきしてしまう。
しっかりした、身体。
少しだけ掛かる、吐息。
……そして――……身体越しに伝わる、彼の鼓動。
そのどれもが私を容赦なく責め立てて、頭がちゃんと働いてくれなかった。
「っ…ぇ…!」
抱きしめられたままで、彼が髪をすくった。
…いつもと、同じ事。
別に、何て事無い。
……だけど、私自身は……そう思えなくて。
「…っ…は…」
自分の髪なのに、首筋へ触れるとびっくりするくらいぞくぞくした。
足が、手が――…背中が。
ぞくぞくして、震えて。
…力が抜けてしまう。


「…ひより」


「ッ…お…みくっ…!!」
耳元で名前を呼ばれたのが、決定的だった。
がくっと身体が言う事を聞かなくなって、そのまま彼へもたれるように身体を預けるしか出来なくなる。
…力が、入らない。
なに……?今の…。
どきどきと鼓動が早くなっているのに、手が震えて、足が…がくがくする。
「…ひより…?」
「!やっ…お…みくっ…ん…ッ」
「……どうした?」
「やぁっ…だ、めっ…臣くん…やめて…!」
わざと息を掛けるように囁かれて、身体が言う事を聞かなかった。
拒絶したのは、なぜだか分からないけれど……いけないと思ったから。
突然身に起こった出来事に、対処出来なかったというのもある。
…でも。
それ以上に……彼にこうされていると、本当にどうにかなってしまいそうな気がしたから。
「……だからだよ」
「…ふぇ…?」
「だから、そんな服を着るなと言ったんだ」
少しだけ身体を離した彼が、目の前で小さくため息をついた。
…そして、掌で頬を撫でてくれる。
その感触がひんやりと心地良くて、どれほど自分が火照っているかが良く分かった。
「…他の男にこうされたら、どうする?」
「……え…」
「無い、とは言い切れないだろ?ましてやここは、酒が入る場所なんだから」
視線を落としながら続ける彼が、羽織ったままだったジャケットをしっかりと着せてくれた。
…どうして、臣くんはこんなに平然としているの?
あんなに……さっきまでは、全然違ったのに。
声も、雰囲気も……本当に何もかも。
いつもの彼からは想像出来ないような事ばかりを、見せてくれていたのに。
「…だからだ」
「…え?」
「俺は、この服が似合ってないからとか、子供だからなんて理由で言ったんじゃない」
――…そこで、ボタンを留めていた彼の手が止まる。


「誰よりも、ひよりが大事だから言ってるんだ」


そう言って、彼は少しだけ眉を寄せた。
「…若菜に言わずにひよりに言ったのも、そうだ」
「……臣くん…」
「若菜よりも、ひよりが大事だから。…だから、こんな……男の見世物になるような格好はして欲しくない」
「…見世物…?」
「……ひよりは、ただでさえ男の目を引くんだよ」
「…え…?」
「だから、こんな服を着たら――…それこそ、無駄に馬鹿な男達の的になる」
眉を寄せてから、ふっと視線を落とした臣くんが『だから、着るなと言うんだ』と続けた。
……見世物…。
っていうか、それ以前に。
臣くんはそう言うけれど……実際、私はそんな事を感じた事はなくて。
お姉ちゃんと違って目立つような風貌でもないし、これと言ってどこかが優れているわけでもないし…。
………む……胸も、ないし…。
「…………」
「…ひより?」
…でも。
でもそれでも、彼が言ってくれた事は……やっぱり嬉しかった。
……違ったって、分かったから。
彼に嫌われたわけじゃなくて……それ以上に、彼に大事にして貰えているって事が分かったから。
「…私ね…」
「ん?」
大き過ぎて、手が出ない臣くんのジャケットを。
それを、きゅっと掴んでから彼を見ると、先程と違って、少しだけ優しい顔を見せてくれた。
「あんな臣くんの事見るの…初めてだったから。だから……嬉しかったの」
「…嬉しい?」
「うん。…とっても」
思い出すだけでも、当たり前のように笑みが浮かぶ。
…本当に、カッコ良かった。
自分が知らない臣くんの事を見れて、もっともっと彼を知れたような気がした。
――…だけど。
「…でも、知らなかったのって…私だけなのかなって思って…。…そうしたら、若菜さんが――…」
「……若菜が?」
「………臣くんの事、若菜さんは好きなんだよ」
「…何?」
「だって、あんな…!…あんなに……優しい顔で、見てたから」
カウンターに入っている臣くんを見ていた彼女は、本当にとろけるような顔をしていた。
…愛しくて、愛しくてたまらない人。
そんな風に……私には見えた。
「…それで……ちょっとだけ…………悔しかった、の」
「…悔しい?」
「……だって……臣くんは………」


私の、お姉ちゃんの旦那様なのに。


他の誰でもなく、一番私の傍に居てくれた人なのに。
…なのに……他の人が、その間に入って来てしまいそうな気がして。
……それで、ちょっとだけ……恐くなった。
不安になった。
…嫉妬……した。
かっこ悪いと思う。
臣くんにしたら、いい迷惑かもしれない。
…だって、こんな――……まるで、私有物みたいな事を言ってるんだから。
「……え…?」
「…俺は、ひよりがそんな格好をする方が悔しいよ」
「臣くん…?」


「……ひよりは――…」


「…え…?」
「…………いや、何でもない」
先程までと、全く違う顔で彼が私を見つめた。
真っ直ぐに、瞳を逸らしたりせずに。
……心底……愛しげな、顔で。
「…あ…」
「帰ろう。もう、時間も遅い」
「……ん」
ぽん、と頭に手を置いた彼が、私の手を引いてから立ち上がった。
手には、制服を掛けたハンガー。
…臣くんらしい。
その優しい所は、やっぱりいつどんな時も同じみたい。
……でも。
…でもね?臣くん。
本当は、続きが聞きたかった。
…私は……?
私は一体――…何なんだろう…?
彼が思っている事をねだってでも聞けたら、どれだけ良かっただろうか。
…でも、それは……やっぱり出来ない事。
それ以上望んだら、きっと……臣くんに本気で嫌われてしまうかもしれないから。
「…ひより?」
「え?…あ……ううんっ。何でもない」
パタン、とスタッフルームのドアを閉めてからそんな事を考えていると、少しだけ心配そうな臣くんが私を振り返った。
…何でもないの。
本当に、大丈夫だから。
そんな意味をこめて手と首を振り、笑みを浮かべる。
……どうか、壊れてしまいませんように。
こんなに温かくて、居心地のいい――…特別な彼の傍が。
大きく聞こえてきた音楽と喧騒を聞きながら、そんな事を願って瞳が閉じた。

#8:知らない顔(1)

「…あれ?」
いつもより、ちょっとだけ学校から帰るのが遅くなった金曜日の夜。
途中でお姉ちゃんに拾って貰って、色々と話をして、買い物も……して。
それから帰ってきたら、家に臣くんの靴が無かった。
…えっと。
正確には、あるんだよ?
いつも仕事の時に履く、革靴は。
……だけど、お休みの時とか、スーツ以外の時に履く靴はそこには無くて。
臣くんは普段、履く靴しか靴箱から出したりしない。
だから、居るかどうかはすぐに分かる……んだけど…。
「……臣くん…?」
靴を脱いで上がり、リビングへ向かう。
…いつも、居ない事なんて無かったのに。
それとも、何か急ぎの用事とか……?
昨日の夜も、今朝も。
学校でも何も言われてなかったから、どうしても今ここに彼が居ないのが不思議でたまらなかった。
「…………」
――…でも。
やっぱり臣くんは、そこに居なくて。
明かりだけが灯っているリビングは、がらんとして余りにも広過ぎる印象しかなかった。
「………あ…れ?」
鞄を持ったままリビングに入り、丁度……テーブルへと視線を向けた時。
いつもそこには無いような、白い紙が乗っているのに気付いた。
「…臣くんだ…」
少しだけクセのある、だけど綺麗でシャープな字。
それはまさに、学校でも見ればすぐに分かる彼の筆跡だった。


『下に居る』


たった一言書かれた言葉の意味が、最初はぴんと来なかった。
…下。
下って……どこだろう?
マンションのエントランス?
でも、そんな所に居なかったと思うし……。
………うー……。
………。
「…あ」
紙を持ったままで首を捻っていた時、ある事が頭に浮かんだ。
下。
マンションの下。
…と言う事は――……
「…咲真さんのトコ…」
それ以外に、考えられなかった。


「いらっしゃいませー」
カラランと言うカウベルの音と同時に中へ入ると、大きな音楽に一瞬だけ圧倒された。
…こんなだったっけ…。
前来た時とまるで印象が違っていて、一人で――…しかも制服のまま来た事を、ちょっとだけ後悔した。
「お一人様ですか?」
「あ…えっと……あの。知り合いが居るんですけれど…」
「…………」
「…………」
「…わ……若菜さん!?」
「ひよりちゃん!?」
お店で、最初に出迎えてくれたお姉さん。
それは他でもなく、若菜さんその人だった。
「す…っごい……可愛い…!」
「え?そ、そんな事は…!」
「ううん!若菜さん、凄い可愛いー!!
「そんな事無いってばぁー」
普段私が見ている彼女とは、全く違う雰囲気。
臣くんの実家で見かける時は、髪を2つに縛ってエプロンをつけているから、そんなに派手な服装ではなくて。
むしろ、パンツだったり長めのスカートだったりと、落ち着いた格好でいる事が多い彼女。
…だけど。
だけどここに居る彼女は、そんな普段とは全く違う人のように見えた。
アップのポニーテールと、短めのスカート。
そして、リボンとフリルがあしらわれている上着。
……すごい…。
凄い可愛い…!!
「っわあ!?」
「若菜さん、可愛いーー!!」
「ひ、ひよりちゃんっ!」
だからつい、彼女に抱きついてしまっていた。
んもう!若菜さん、可愛い!!
すっごく、すっごく可愛い…!!!
「…っ…あ。…でも、どうしてここに若菜さんが居るの?」
「んっと…実は、時々こうして咲真さんのお手伝いしてるの」
「咲真さんの?」
「うん」
…お手伝い。
………ああー、なるほど。
言われて見れば確かに、若菜さんのその格好はウェイトレスさんだった。
…と言うには、何だかちょっと……ゴスロリと言うか…メイドと言うか……。
いやあの、勿論可愛い事に変わりないんだけれど。
「…それにしても、このお店って……こんなでしたっけ?」
「あ、ううん。ここはね、夜からバーがメインになるのよ」
「……なるほど」
「………それにしても……」
「え?」
『お昼までは普通にカフェなんだけれどね』と苦笑を浮かべた若菜さんが、まじまじと私を見つめた。
………。
…な……なんだろう。
何かを気にしているようでいて、まるで何かをしようとしているような……そんな顔。
「ねぇ、ひよりちゃん」
「はい?」
「折角だから……着てみない?この服」
「え!?」
口元に手を当てた彼女が、顔を上げた時。
思ってもなかった言葉を、聞かされる事になった。


「……わ…若菜さぁん…」
「なぁに?」
「やっぱりコレ……おかしいんじゃ…」
「そんな事無いよ!すっごく可愛いんだからー」
……嘘だ…。
自分の姿を鏡で見ながら、今にも泣きそうな顔をしているのに気付いた。
…うー。
まさか、こんな事になるなんて……。
――…実は、あの後。
『ここに制服で居るのはちょっと…』と若菜さんに言われて、着替えという物を見せて貰いに行ったのだ。
そうしたら――…出てきたのは、この……見紛う事なき、目の前に居る若菜さんと同じ格好。
……似合わないよぉ、絶対…。
「っ…わ!?」
「さ、行きましょ?」
「あ、あっ、まっ…!?若菜さぁん!」
少し短すぎるスカートを両手で押さえるようにしていると、なぜか満足げに笑った若菜さんが私の腕を引いた。
途端に、バックヤードだった静けさは無くなり、一気にまたあの喧騒へと字の如く連れ戻される。
……うぅ。
若菜さんは可愛いから似合うけれど、私はやっぱり不似合いなのにぃ…。
動くたびに頬に当たる髪に結んだリボンに触れると、何とも言えない苦笑が漏れた。
「そう言えば、ひよりちゃんはどうしてここに居るの?」
「…あっ」
余りにも突然過ぎた出来事のせいで、つい忘れてしまう所だった。
「実は私、臣くんを探しに――」
大きな音楽にかき消されてしまわないよう、大きな声で若菜さんに告げた時。
少し離れた場所から聞こえてきた、とってもとっても大きな歓声のようなものに、一瞬で声がかき消された。
「……うそ…」
沢山の人垣が作られている、その先に居た人。
そこに居たのは――…まぎれもなく、臣くんに間違いなかった。
「…おみく…ん……?」
「……かっこいいわよね」
「え?」
隣に並んだ彼女を見ると、どこか…少しだけ照れたような顔をしていた。
…臣くんを見つめている、瞳。
それはまるで――……
「…若菜さん……臣くんの事、好き?」
「え!?あ、やっ、ち、ちがっ…!違うの!そう言う意味じゃなくって…!」
「いいよー、そんな。気持ち分かるもん」
「違うってばぁー!」
慌てて手と首を振った彼女に微笑んでから、再び……カウンターに居る彼を見てみる。
…いつもと、全然違う雰囲気。
髪型は殆ど一緒なんだけれど、着ている服が全然違って。
……本物のバーテンダーみたい。
でも、普通のお店に居るような人とは、全く違う。
ここまで似合って、いいの?
カッコ良過ぎる。
「……ふわ…凄い…」
でも、私が彼から目を離せないのは、他にも理由があった。
カッコイイのは、勿論。
――…だけど。
「っ…すご…!」
まるで、お手玉でもしているように、宙を舞う――…酒瓶。
そう。
あれは、ジャグリング用のピンでもなければ、おもちゃなんかでもない。
れっきとした、本物のお酒が入っている瓶だ。
「……うわぁ…!」
2本3本と手にして宙に放り、器用に片手で掴んで再び宙へ。
…凄い。
っていうか、いつもの臣くんからは想像もつかない事。
……だって、まるで魔法みたいなんだもん。
くるくると瓶を回してシェイカーにお酒を注ぎ、そしてそれを器用に宙へ。
中に入っている液体がこぼれるんじゃないかと冷や冷やしたけれど、そんな心配は全く必要なかった。
「……うあ…」
目の前で作られる、シェイカーを継ぎ合わせたような山。
その端端を彼が両手で持ち上げ、ゆっくりと――…カウンターに置かれた幾つものグラスにゆっくりと傾ける。
――…その途端。
「っ…すごーい!!」
ありえない光景が、目の前で起きている。
重ねられた10個のシェイカーと、それに対するように置かれている10個のグラス。
そこに、全く狂いの無い様子で、それぞれのシェイカーに入っていたカクテルが注がれて行ったのだ。
「…すごい………」
まさに、神業。
そんな事が目の前で起きるなんて――…しかも、臣くんが出来るなんて本当に思わなかったし、信じられなかった。
普段の彼を知っているから、きっと余計にそう思うんだろう。
…だけど、若菜さんはそこまで驚いていなくて。
「…………」
……そっか。
きっと彼女は、臣くんのこう言う姿を見た事があるんだ。
…ううん。
もしかしたら、こんな彼を見た事が無いのは――…私だけなのかもしれない。
お姉ちゃんが知らないはずは無いから。
「っつーわけで、以上がマサのフレアっしたー」
大きな拍手と共にカウンター内へ現れたのは、勿論知ってる人。
…そうじゃなきゃ、おかしいよね?
間違いなく、ここのオーナーである咲真さんなんだから。
「え?」
「それじゃ、行こっか」
「…あ、はいっ」
腕を取ってくれた若菜さんに笑みを見せてから頷き、小走りでまだ人の多いカウンターへと近づく。
…すると、沢山の人に話しかけられている臣くんよりも先に、咲真さんが私に気付いてくれた。
「っひょあ。随分と、ウチのスタッフに可愛い子が居ると思ったら……ひよりちゃんじゃないか」
「こんばんは」
「いやー…可愛いね。って言うか、ヤバイ」
「…え…?…あ、あの……やっぱり似合ってないですか…?」
顎に手を当ててまじまじと私を見つめた彼を下から見上げると、瞳を丸くしてからコホンと咳払いをした。
「…?咲真さん?」
「ダメダメ。その格好もそうだけど、そんな顔は……ヤバイって。本当に」
「…ダメ…ですか?」
「いや、その…何だ。ダメじゃないんだけど、ダメと言うか…」
「?」
少しだけ慌てたように否定してくれる彼の言っている事が、正直良く分からない。
…ダメじゃないけど、ダメ。
それって、一体どう解釈すればいいの…?
なんて首をかしげると、大げさに彼は反応を見せてから――…
「ひよりちゃん、時給1500円出そう」
「……ふぇ!?い、いきなりどうしたんですか!?」
「うん。いや、なんなら2000円でもいい。…だから、ウチでバイトしない?」
「私…が?」
「うん」
「…でも、どうしてそんな急に……」
がしっと両手で肩を掴んだ彼に、自然と眉が寄る。
だけど、その間も散々彼は『だから、ダメだって』と言って苦笑を見せた。
「って言うか、この格好……。…政臣が見たらビビるだろうな」
「…え?臣くんが…ですか?」
「うん。下手したら、泣くかも知れない」
「えぇ!?」
突然言われた、とんでもない事。
…や……やっぱり、私はこんな格好しちゃいけなかったんじゃないだろうか。
そう思って、改めて自分でその格好を見直し――…た時。


ゴッ


「っぐふぁ!!?っ…ぬ…っぁ……!って……っっってぇええ!!!!」
鈍い音がしたかと思いきや、咲真さんが足を押さえて声を上げた。
「さっ…咲真さん!?」
「くぁ!いてーー!!っつーか、骨折れたってマジで!」
「っ…だ、だいじょ――…ッ…!?」
倒れ込んだ彼に慌ててしゃがみ、その手を取ろうとした時。
いきなり、横から現れた白いシャツの腕に、ぐいっと身体を持ち上げられた。
「っ…ぇ…?…あ………おみ…くん…?」
「…何でこんな格好で居るんだ」
「あ、あっ…臣くんっ…!まっ――…ッ…!」
「ダメだ。帰るぞ」
「臣くん!」
咲真さんをちらりと横目で見た彼は、そのまま私を抱き上げるようにしてスタッフルームへと向かった。
途端に周りの喧騒から離れ、一気に静けさと少し冷たい空気に身体が触れた。