Black*Box -2ページ目

#7:我慢

「臣くん」
「…ん?」
夕食後の、団欒時。
…きっと、ヨソの家庭ならばそんな時間帯だろう。
ウチの場合はお姉ちゃんが帰ってこなければ臣くんと二人きりなので、これといって会話を多くするという事はない。
……それに、別に私が『今日は学校でこんな事があったんだよ』と言っても、『そうだな』って臣くんなら言いそうだし。
だからと言うわけじゃないけれど、夕食の後は二人でソファに座りながら、テレビを見て会話をするのが日常になっていた。
「…実は……宿題で、ちょっと分からない所があるの」
一度部屋に戻ってから取ってきたのは――…そう。
臣くんならばそれはもう、とっても良く知っている……数学の教科書だ。
「……教えて貰える?」
「ああ。いいよ」
「ホント?…良かった…」
どきどきしながら教科書を胸の前で持って返事を待っていたら、頷きながら2つ返事で彼が答えてくれた。
…嬉しい。
別に、家に帰ってから臣くんに勉強を見て貰う事はそんなに少なくないけれど、それでもやっぱり…数学は特別。
確かに、一番臣くんに見て貰う事が多い科目だけど……でも、今日と言う日だけは特別そう思った。
………はあ。
やっぱり今でも、思い出すと結構へこむ。
……勿論それは――…高見澤さんの、あの言葉。
「………」
「…ひより?」
「え?…あっ…!ご、ごめん。えっと、ここなの」
考え込んでいたら、臣くんが顔を覗き込んだ。
…危ない。
要らない心配を彼に掛ける必要なんて無いんだから…しっかりしなさいよ。
こほん、と1つ咳払いしてから教科書を開き、早速見て貰う事にした。
「…これって……どうやって解いたらいい?」
「……ああ、これか」
ぱらぱらとめくってそのページを出すと、臣くんが大きな手でそれを掴んだ。
……綺麗な指。
普段から見慣れているはずなのに、どうしてこんなにも……違った印象を抱くんだろう。
…数学の教科書を持ってるから、かな…。
普段の授業中も、当然臣くんはこうして片手で教科書を持つ。
だけど、今は……それが凄く間近にあって。
………。
…ついつい魅入ってしまう、彼の…手。
……うーん。
もしかしたら私は、手フェチとかなのかもしれない。
「…ひより?」
「……えっ…?」
「聞いてたか?今の」
「…………あ…っ…」
まじまじと彼の手だけを見つめてしまっていたせいで、臣くんの話を……全く聞いてなかった。
…まずい。
怒られる…!
「ご、ごめんなさいっ…!あの、もう一度…教えてくれる?」
慌てて首を振って、彼を見上げてみる。
…だけど。
「…………」
だけど臣くんは、瞳を細めたまま私を見つめて……言葉をくれなかった。
………怒らせた。
間違いなく、私が。
………。
…でも、誰だって怒るよね。
聞いた事を説明してくれているのに、当の本人が…何も聞いていなかったりしたら。
「……え…?」
「まだ気にしてるのか?…昼間の事」
「…あ…」
パタン、と教科書を閉じた彼を慌てて見つめると、小さくため息をついてから私を見つめた。
……それは……。
………。
「……その…」
「じゃなきゃ、どうして今これを聞く?授業中に質問すれば、済む事だろ?」
「っ…」
私を真っ直ぐから見つめた彼に、思わず何も言えなかった。
…だって、臣くんの言う通りなんだもん。
この問題は、あの――…応用問題の次にやった問題だった。
きちんと1から解法を披露してくれた、臣くん。
……それに、一番最後に『何か質問ある者』って聞いてくれた。
だけど……。
……どうしても私はその時、手を挙げる事が出来なくて。
「………」
それは確かに、高見澤さんの言った事もあった。
…でも。
それ以上に――…私が質問するのは、何となく違うような気がしたからだ。
「…あの……ね?」
一度深呼吸してから、やっとで口を開く。
…少しだけ、心配そうな顔。
こんな顔をさせてしまっているのは私なので、凄く申し訳なくなる。
「……ほら、私は…こうして家に帰っても、臣くんに聞く事が出来るから…」
……そう。
実は、そこを一番気にしていた。
学校では、私と臣くんが兄妹だって言う事を知っている人の方が多い。
それは当然ウチのクラスだって当てはまって。
…きっと、私たちがそうだって言うのを知らないのは……高見澤さんだけだったんじゃないかな。
それ程に、皆が知っている事だった。
………だから。
だから、授業中に彼に質問するというのは…自然に阻まれていた。
…だって、何だか…滑稽じゃない?
一緒に学校に来て、一緒の家に帰る私達なのに……他人行儀な事を演じたりするのは。
だから何となく、学校で分からない場所があっても、こうして家まで持って帰って来てしまっていた。
これまではその事を何も言われなかったんだけれど……。
…どうやら、今日の事で臣くんが何かに気付いてしまったらしい。
「……ひより」
「…はい…」
はぁ、と小さくため息をついた臣くんが、ソファにもたれて私を見つめた。
…怒られる。
ううん、それとも呆れられるかな…。
でも、どちらにしろきっとその2つに1つだとは思うけれど。


「それは公私混同でも、我侭でも何でもないだろう?」


「…っ…」
「……そんな事で気を遣うんじゃない」
少しだけ眉を寄せた臣くんが、緩く首を振って私を真っ直ぐに見つめた。
……まさか、そんな風に言って貰えるなんて思わなかった。
だから…凄く嬉しくなる。
そして、とっても………幸せで、幸せすぎて…。
「…ひより」
「……ありがと…っ…臣くん…!」
高見澤さんに言われた事が辛かったのか、じわっと涙が浮かんだ。
…泣き虫って言われても、仕方が無い。
でも、本当に臣くんは嬉しい事ばかり言ってくれるから。
……幸せ者だなぁ、本当に。
そう思う時は嬉しくて、誰よりも自分を誇れる瞬間だ。
「…高見澤が言った事も、別に気にする必要ないだろ?」
「……ん…っ…でも……あれは…。…ちょっと、その通りかなって…思うし…」
髪を撫でてくれながら、臣くんが小さくまたため息をついた。
…そんなに何か…気にさせるような事言ったかな?
でも、どうやら私が思った事とは違ったらしい。
「あまり、他人の言う事を真に受けるんじゃない」
「…え?」
「ひよりは、ひよりだろ?他人がどう言おうとどう思おうと、そんな奴らより俺の方がずっと知ってる」
「……臣くん…」
「言いたいヤツには言わせておけばいい。…俺は……俺だけは、ちゃんとひよりの傍に居るから」
「っ…おみ…くん…!」
――…どうして彼は、こんなに優しくしてくれるんだろう。
たまらなく嬉しくて、幸せで。
…本当に、救われてばかり。
それなのに臣くんは、得意そうな顔なんて1つもしなくて。
……むしろ、私により一層優しくしてくれて…。
「…ありがと……臣くん…っ」
「…何もしてないだろ?」
「そんな事無いっ…!…すごく……すごくすごく、嬉しいもん」
ぽろっと零れた涙を拭おうとすると、私よりも先に、臣くんが指でしっかりと拭ってくれた。
…同時に、ふっと顔を上に向けさせられる。
「…ひよりは、ひよりなんだから。……これからも、ずっとそのままで居るんだぞ?」
「………ん…」
両手で優しく包まれた頬を通して、臣くんの温かさがしっかりと伝わってきた。
…身体も、心も。
………何もかも、臣くんのお陰。


「…ありがとう…」


そのままで、しっかりと笑みを見せる。
…本当に、優しい人。
優しくて、温かくて………大好きな人。
……これからも、ずっとこんな関係で居られたらいいな…。
ふっと微笑んでくれた彼を見ながら、私らしい笑顔がまた浮かんだ。

#6:知らない

高見澤春香(たかみざわ はるか)…?」

「そ。昨日来た、転入生」
週明けの、火曜日。
ようやく熱が下がって学校へ行くと、見知らぬ子が一番奥の席に座って居て。
…そして、なぜか知らないヨソのクラスの子までもがその子の所に集まっていた。
「すごいわよねー、アレ」
「…なぁに?有名な子なの?」
「みたいよ。何でも、自動車メーカーのご令嬢なんだって。……確か、『ルピア』だったかな…」
「あー…」
「?なぁに?ぴよ。知ってるの?」
「…うん」
私自身、車にはあんまり詳しくない。
…んだけれど……臣くんは、やっぱり車とか詳しいし、好きで。
だから、雑誌とかで私が聞くと……彼は言っていた。


『ルピアは、あんまり好きじゃない』


と。
…眉を寄せて、ホントに……ああ臣くんはこの車嫌いなんだな、って分かる程に。
その後も『デザインが他の会社を真似てる』とか『金儲けしか考えて無い』とか色々と厳しい意見を言っていたし。
「……臣くん、あんまり好きじゃないって…」
「あんまり…って……。…『かなり嫌い』って事でしょ?あのセンセ的に訳すと」
「まぁ…そうなる、かな」
ぼそっと呟いたユキの核心を突いた言葉に、ただただ苦笑を浮かべるしかなかった。
臣くんが乗ってるのは、ホンダのS2000と言う車。
深い紺碧みたいな青で、とっても綺麗なんだよ。
天気がいい時はオープンで走ってくれるし……。
…えへへ。
運転してる時の臣くんは、すごくカッコイイ。
普段も勿論そうだけど、それ以上に……とっても。
だって、本当に車が好きなんだなぁって思えるくらい、楽しそうな顔見せてくれるんだもん。
「…ぴよ」
「え?」
「顔が緩んでる」
「……あ。…だってぇ…」
呆れたようにユキに指摘されて、苦笑しか浮かばなかった。
…えへへ。
思い出し笑いみたいなものかな?やっぱり。
だってもう、本当に好きなんだもん。
臣くんらしい洋楽がいつも掛かっていて、居心地良くって……匂いも、すごく好き。
とにかくもう、私にとって最高の車と言ったら、イコール臣くんの車と迷わず答えるだろう。
「…それにしても…」
「ん?」
椅子に座りながら鞄から教科書を取り出し、机に入れる。
………。
……?
そこから続かないユキの話でそちらを見ると、少しだけ冷めた瞳で高見澤さんを見つめていた。
「…お嬢様だか何だか知らないけど……どいつもこいつも、えらい勢いね」
「……何が?」
「だから。みんな、必死だって事よ。気に入られたい、仲良くなりたい……そうすれば自分にも利があるんじゃないか、って」
「…ふぇー…」
『中には、まるで親衛隊気取りの子までいるんだから』とため息混じりにユキが呟いた。
やっぱり、お金持ちだから……そうなのかな。
…うーん。
私はあんまりよく分からないけれど、色々皆には皆の考えがあるんだろうから…。
………。
「…いいんじゃないの?」
「………」
「…え?なぁに?」
「……はー。皆がアンタみたいな考えしてたらねぇ」
「?」
まじまじと私を見つめてからため息をついたユキに、首を傾げてみる。
だけど、『そしたら世界平和ね』なんて呟いてから、前に向き直ってしまった。
丁度その時、先生が入ってきたから。
……勿論、副担任の臣くんも一緒に。
「………」
朝見た時と同じスーツとネクタイの柄。
それが誰よりも特別な感じがして、とても嬉しくなる。
………なんて、しげしげと見つめていた…時。
「……ぁ…」
不意に、窓際へ歩いて来た臣くんと目が合った。
私の席は比較的前の方なので、先生との距離が近い。
……と言う事は、イコール……臣くんとの距離も、今みたいに近いわけで。
「…………」
「…………」
既に担任の深沢先生の話が始まっているので、当然会話なんて無い。
…でも、それでも十分だった。
一瞬で逸れてしまった視線だけれど、『安心した』って臣くんの瞳が言ったように思えたから。
……凄く優しかった。
…………えへへ。
嬉しい。
臣くんと、二人きりで話せたみたい。
「………?…」
そんな風に、にまにまと一人で幸せを噛み締めていた時。
……なんか……あれ?
ふと、背中に感じた視線。
…視線……だと思う。
なんとなーく何かが突き刺さっているように感じる、アレ…だ。
「…?」
だけど、振り返ってみても誰かと視線がぶつかるような事はなかった。
「どしたの?ぴよ」
「…んー…なんか……。気のせい、かな」
頬杖を付いたままのユキに首を傾げてから『なんでもない』と苦笑を浮かべ、改めて前に向き直る。
…気のせい、だよね。きっと。
うん。
そう思い直し、深沢先生の話を聞く事にした。


「ぴーよ?」
「………」
「ぴよぴよー?」
「………」
「ぴよりーん?」
「………」
「………」
「………」
「…んもーー。元気出しなさいってば、ひより!」
「……だって…」
目の前でひたすら手を振りながら私を呼ぶユキすら、真っ直ぐ見れなかった。
…現在は、昼休みに入ったばかりの所。
………そう。
ようやく、数学が終わった……のだ。
……。
…終わってしまった…。
数学が……終わってしまった……。
「……ふぇーん」
「おー、よしよし。いい子だから泣かないのー」
「だってぇー!」
ユキにがばっと抱きつくと、頭を撫でてくれてから背中を叩いてくれた。
…うぅ。
だってだって。
いつもは出来が悪くても、楽しい時間。
それはやっぱり臣くんの数学だから、って言う事が絶対条件だからなんだけど…。
……なのに。
なのに、だよ?
うぅ。
今日の数学は、言うなれば本当に史上最悪。
最低もいい所。
…こんな時間がこれからも続くのかと思うと、本当に本当にやるせなかった。
事の発端は、授業が始まって20分位経った頃。
臣くんはいつも日付と同じ出席番号の人を解答で指名するから、今日は……私の隣のユキから始まる日だった。
……勿論、それは私も理解してたよ?
だから、前もって自分が当たる場所はちゃんと答えて、臣くんにマル貰ったんだから。
…なのに。
なのにぃ……。
その次の、応用問題の時。
…事件は起こった。
転校して来たばかりの高見澤さんがおもむろに手を上げて……何をしたと思う?
いきなり彼女、私を指名したんだよ?
臣くんじゃないのに!先生じゃないのにーー!
しかもしかも、彼女ってば……また凄い事を言ってくれた


「片桐先生の妹さんが数学出来ないって、本当ですか?」


言うに事欠いて、それだよー!?
しかも、『その問題、彼女に答えさせて下さい』とか『幾らなんでも、彼女はレベルが低過ぎです』とか、んもーーー…本当に関係ない事まで、ぺらぺらと喋られる始末だし。
ひどい。
確かに間違った情報じゃないけれど、でも、でもっ…!
あの時の臣くんの顔は、きっと忘れられないと思う。
少しだけ驚いたように瞳を丸くして――…そして、ほのかに……困った顔をして私を見たんだから。
「……はぁあ」
何も、あんな風に言わなくてもいいのに。
間違ってないけれど、あんな言い方じゃ……臣くんに顔向け出来ない。
…って言うか、本当に申し訳ない……。
………もしも私じゃなくて、理系抜群少女のユキが妹だったら……それこそ凄い剣幕で言い返したんだろうなぁ…。
「………」
「…ほらー。そんな顔してないで、元気出しなさいってば!愛しのお兄様のお弁当だよ!?」
「……うん…」
「今日は何かなー。愛情たっぷりー」
「…………えへへ」
机をくっつけたユキを見ていたら、余りにも楽しそうに言ってくれるから……ようやく笑みが浮かんだ。
そうだね。
いつまでもヘコんでたって、仕方ないもんね。
そうだよ、そう
折角臣くんが作ってくれた美味しいお弁当だもん、ちゃーんと美味しく食べなくちゃ!
「えへへ。今日はねー」
「…あら。ご自分でお作りにならないの?」
「……え…?」
鞄から包みを取り出して、机に置いた瞬間。
…やけに上から物を言うような声が、すぐ後ろで聞こえた。
「……高見澤さん…」
「幼稚園児じゃあるまいし。お弁当を自分で作れなくて、どうするつもり?…しかも、お兄様である片桐先生に作らせるなんて。言語道断も甚だしいですわ」
ちらり、と私の手にあったお弁当を見つめた彼女は、瞳を細めてからふんっと鼻で笑った。
…この子は一体、何をしたいと言うんだろう…。
何かと私に突っかかってきて、まるで何でもかんでも難癖つけているような…。
「…っていうか、アンタこそ自分で弁当作りなさいよ」
「あら、ワタクシはいいのよ。それ専門の者がおりますもの」
「あっそ。…ま、どーでもいいけどさ。単に片桐先生のお弁当が羨ましいだけなんでしょ?」
「ちっ…違いましてよ!」
「違いませんわよーだ」
「ッ…笠松さん!?アナタねぇ!」
………。
…ユキって、やっぱり凄いんだね。
いつの間に作ったのか、高見澤さんはまるで自分の御付の人のように、見知らぬ生徒を従えていた。
……それなのにも関わらず、ユキは全く物怖じせずにいけしゃあしゃあと言ってのけたのだ。
「……ユキ、かっこいい…」
「あらホント?サンキュ」
「ちょ…っ…ちょっとお待ちなさい!!」
「…もー。だから、何なのよアンタはー。ご飯位大人しく食べさせろっつーの」
「くっ…!口が悪い人…。これだから、低俗な人間は嫌なのよ」
「……はァ…?誰が低俗だっつーの、お嬢気取りが」
「なんですって!?」
「何よ!やるの!?」
「ちょっ…ちょちょ、ゆ、ユキ!!」
「離して、ひより!私がこーゆータイプ大っ嫌いだって事、アンタも知ってるでしょ!?」
「そ、それは知ってるけど…!でも、待ってってば…!!」
ガタンっ、と大きな音を立てて椅子から立ち上がったユキを、慌てて押さえに掛かる。
だけど、やっぱり私なんかの力でどうにかなるような彼女ではなくて。
…ユキぃ…!
眉を寄せながら彼女と高見澤さんを見つめるものの、お互いに両者一歩も譲ると言う気配が見受けられなかった。
「いいですこと!?月野さん!」
「…ふぇ…?私?」
てっきりユキに向かっている何かだと思っていたので、いきなり私を睨まれてぱちぱちと瞬きをしてしまう。
だけどそれすらもまるで気に入らなかったかのように、彼女は瞳を細めて唇を噛んだ。


「アナタなんかに、片桐先生は渡しませんから!!」


大きな…それはそれはもう、とっても大きなそんな彼女の声が、教室内に響き渡った。
「………」
「………」
彼女の大声に、しぃん…と教室が静まり返る。
――…そして。
「…え?」
「は?何言ってんの?アンタ」
私がユキと顔を合わせるだけでなく、彼女の周りに居た生徒までもが動き始めた。
…何を言ってるんだろう。
って言うか、もしかして……知らないのかな。
確かにまぁ転入したてだし、無理は無いかもしれないけれど……。
………でも。
ちゃーんと良く見れば、すぐに分かる事だよ?
「な…っ…何が可笑しいのよ!?」
だけど彼女は、私たちがどうして苦笑を浮かべているのか、その理由が分かっていないようだった。
…うーん。
本気みたいだし……やっぱり、言っておいた方がいいかもしれない。
「ぴよ」
「え?」
「…教えてやんなさいよ」
「……だね」
どうやらユキも同感だったらしく、やれやれと言う感じに肩をすくめてから、お弁当を広げ始めてしまった。
…しょうがないなぁ。
それじゃあ、やっぱりコレは私が彼女に言っておこう。
「……あの……高見澤さん」
「何ですの!?」
苛々した様子の彼女に、ゆっくりと…落ち着いて口を開く。
……うん。
やっぱり、本気で分かってないみたいだし……ね。


「片桐先生、ウチのお姉ちゃんの旦那様だよ?」


上目遣いに彼女を見つめながら、そう…しっかりはっきりと告げてやる。
――……と。
「っ…な……んですって…!?」
みるみるうちに顔を赤く染め、ふるふると肩を震わせ始めた。
「んなっ…なっ…なな…っ…!!片桐先生が…っ……既婚者…!?」
「…えっと…ほら。ちゃんと指輪してるし…」
足元すらおぼつかない彼女に、自分の左手の薬指を指してジェスチャーを見せてやる。
だけど……。
「……効果無しね」
「…だね…」
全く私達の話が聞こえて無いらしき彼女は、ぶつぶつと何かを小さく呟きながら、よろよろと自分の席へ戻っていった。
………どうやら、相当ショックを受けたらしい。
…うーん。
こればっかりは、本当の事だからなぁ…。
「…ご愁傷様って感じ」
「あはは…」
だから、この時。
私はただただ、肩をすくめたユキに乾いた笑いで頷く事だけが精一杯だった。


――…ちなみに。
次の日彼女は、熱を出して学校を一日欠席した。

#5:おねがい

「…臣くん」
「ん?…ああ、おはよう」
「……おはよ…」
今日は、やけに冷える朝だった。
パジャマの上からカーディガンを着て、足にはしっかりと靴下を。
…でも、それでもまだまだ寒くて。
ぎゅっと両腕を抱いたままリビングに入ったものの、全く室内が暖かく感じられなかった。
「…?どうした?」
「…え…?」
ソファに座って新聞を読んでいた彼の隣に座ると、私の格好に気付いた彼が、新聞を畳んで身体ごとこちらに向き直った。
臣くんは、普段から余り厚着したりしない。
それはきっと体力とか、色々な物の差があるからだとは思うんだけれど、でも――…私と違って、至って普通の顔。
服装だって、薄い黒のタートルを一枚着ているだけ。
…私はそれ以上着てるのに……。
でも、それでもやっぱり寒さは続いたままだ。
……ううん。
むしろ、酷くなってるんじゃ…。
少しだけ心配そうな臣くんに笑みを浮かべる事も出来ずに、ただただぎゅっと身体を抱きしめる。
「あのね?…なんだか、ずっと…寒いの」
「…寒い?」
「……うん…」
ソファに両足を乗せて座り、足を抱く。
すると、臣くんがテーブルに載っていたエアコンのリモコンを手に取った。
「…そろそろ起きるだろうと思って、十分暖めたつもりだったんだが…」
「……そうなの?」
「ああ」
彼にリモコンを見せて貰うと、確かにこの時期にしては少し温か過ぎる設定温度になっていた。
…でも……。
……やっぱり私は、寒い。
ぞくぞくと背中が寒くて、自分でも少し震えているのが分かる。
「……え?」
「これを着るんだ」
「…でも…」
「いいから」
目の前に差し出されたパーカーと彼とを見比べると、戸惑っている私をよそに、さっさと肩に掛けてくれた。
…これ……臣くんがいつも着てるヤツだ。
「……どうだ?」
「ん……温かい…かな」
嘘じゃなかった。
本当に、温かくて、柔らかくて――…臣くんの匂いがする。
それが嬉しくって、ようやく私らしい笑みが浮かんだ。
「…?臣くん…?」
「…………少し熱いな」
不意に彼が首筋を両手で包んだ。
ひんやりとする掌が心地良くて、自然に目が閉じる。
「…熱があるぞ?ひより」
「……そう…なの?」
「ああ」
「……そっか……。…でも……臣くんの手、気持ちい…」
「っ…ひより…!」
少し低くて、甘い声。
そんな声が耳元で聞こえているはずなのに、ちょっとだけ…遠くにあるような気がした。


…なんだろ。
何だか、変にふわふわするような……。
「…大丈夫か?」
「……ふぇ……?」
ふっと目を開けると、すぐそこに臣くんの顔があった。
ちょっとだけ心配そうで、不安そうで。
「……ごめんね、臣くん」
「…ひより…?」
何となく、そう言うべきなんだと思った。
…だけど――…
「…謝るような事、して無いだろ?」
「……でも…」
「…いいから。今は休むんだ」
少しだけ辛そうに眉を寄せた臣くんが、大きな掌で頭を撫でてくれた。
…気持ちいい手…。
魔法みたいに思えてくる。
……それに、この――…場所。
さっき借りたパーカーのせいなのか、やけに臣くんの匂いがする。
ちょっとだけ甘くて、ちょっとだけ……どきどきするような。
…柑橘系のいい匂いもする。
………ここ、どこ?
すぅっと閉じた瞳をもう一度開こうと自分を目覚めさせると、すぐ隣で何か薬のような物を弄っている臣くんが見えた。
「…臣くん……?」
「ん?…ああ、起こしたか?…悪い」
「ううん…そんな事は……」
………。
………………あれ…?
今の話は、何だかちょっと違和感がある。
…起こした、って……。
「……え…っと……。…私、寝てた…?」
「ああ。一時間ちょっと…かな」
「………うそ…」
自分では、瞳を閉じたのはほんの数分だと思ってた。
だけど、まさかそんなに時間が経っていたなんて……。
……なんだろ。
身体が変なだけじゃなくて、頭まで…ちょっとおかしい?
でも、今はあれだけ寒かった身体も、少しだけ温まってきているように感じた。
お陰でもう、震えるほど寒くは無い。
「…薬。飲む前に何か食べないとな」
「……ん…?」
「何か食べたい物あるか?」
ひんやりとした掌が額から髪を撫でてくれて、もう一度瞳が開いた。
「……ここって…」
「ん?…ああ。俺の部屋だけど」
「え…っ…!?」
本当にあっさり言われて、瞳が丸くなった。
と同時に、あれ程だるくて動かなかった身体に、力が戻る。
「…ひより?」
「っ…だめ…!だめ、だめだよっ…!」
いけない。
私は、ここに居ちゃいけない。
…だって、そうでしょ?
この部屋は臣くんの部屋で、私が今居るこのベッドは…当然臣くんの物で。
――…私は、入っちゃいけない。
触っちゃいけない。
だって、お姉ちゃんしか許されない場所なんだから。
…いつもは一緒に寝る事が出来なくて寝室を別にしている、彼女だけなんだから。
「私、もう大丈夫だからっ…!だから、ちゃんと――ッ…!!」
首を振って身体を起こし、そのまま足をベッドから下ろそうとした時。
ふっと目の前に彼の腕が見えたかと思ったら、次の瞬間には……また、さっきと同じ天井が変わらずに見えた。
「…え…?」
「この部屋が一番暖かい。…それに、リビングなら俺が居るから」
「っ…でも、私…!!」


「…ここなら、独りじゃないから寂しくないだろ?」


「っ…臣くん…」
――…どうして彼は、こんなに優しい事を言ってくれるんだろうか。
…何も……出来なくて。
いつだって、お姉ちゃんは勿論、彼にまで……甘えて頼る事しか出来ないのに。
「…ひより?」
「……臣くん…」
「どうした?辛いか?」
「………ううん…。それは、平気…」
自分の手が、彼へと向かう。
そして、それを彼が少し驚いた顔をしてから……しっかりと掴んでくれる。
「………」
そんな様子が、何だか少しだけ第三者みたいな立場で見えて。
……臣くんだ。
ちゃんと、そこに居る……のに。
………なのに………。
「っ…ひより…!」
「…ふぇ……臣くん…っ……おみく…っ…」
独りでに、涙がぼろぼろっと零れた。
「どうした?どこか痛いか?」
「っ…ちがっ……違う…のっ…」
「じゃあ、どうした?何が――」


「…ごめんなさい…!」


「……ひより…?」
「ごめんなさ…っ……臣くん、ごめんなさ…ぃ…っ…!!}
ぎゅっと彼の手を握っての、謝罪。
なぜかそればかりが浮かんで、同時に緩く首を振っていた。
…こんなの、いけないのに。
許されないのに。
なのに、どうして――…私は甘んじてしまおうとするんだろう。
臣くんはお姉ちゃんの旦那様で。
だからこそ、臣くんのモノはどれもこれもお姉ちゃんにしか許されないはずなのに。
…なのに、どうして私にまで貸してくれるの?
妹だから?
それとも――…聞き分けの無い、いけない子だから?
…我侭で、拙くて……自分じゃ何も出来ない、仕方の無い子だから…?
「ぇっ……ぅ…」
子供みたいにしゃくりが上がって、本当に久しぶりに『泣いた』。
自分が情けなくて。
いつだって助けて貰ってばかりで――…何も出来ていない、自分が不甲斐なくて。
「ひより」
「……おみ…っく…」


「それは、何に対する謝罪だ?」


「……え…?」
「…誰かがひよりの事、一度だって咎めたりしたか?」
「……そ…れは…」
「まどかが、何か言ったか?」
「っ…お姉ちゃんは……何も…」
「それじゃあ、どうして?」
「……臣くん…」
「お前が俺に謝る理由は、どこにあるんだ?」
小さくため息をついてから私を真っ直ぐに見つめた彼は、1つ1つ丁寧に言葉をくれながら、しっかりと手を握って居てくれた。
温かくて。
大きくて。
…力強くて。
本当に、安心と言う言葉が沢山伝わってくる彼の手。
――…そして、あの言葉。
「……だって…私…」
「こうして傍に居たいと思ってるのは、俺だぞ?ひよりは何も言ってないだろ?」
「…でも…っ…」
「…むしろ、もっと我侭を言って欲しいくらいだよ」
「……え…?」
きゅっと両手で掌を包んだ彼が、両肘をベッドについた。
そのお陰で彼との距離が縮まり、表情がより一層鮮明に映る。
……そんな顔…しないで…。
少しだけ辛そうに眉を寄せた彼に、思わずまた涙が浮かんだ。
「いつだって、俺にもまどかにも……『うん』って返事しかした事無いだろ?」
「っ…そ……んな事…!」
「少なくとも俺が覚えてる中では、お前が俺達を困らせるような返事は無かった」
首を振って否定した。
…だけど、臣くんは『…違うだろ?』と言って、それを否定して。
…………そんなつもり、なかった。
別に、我侭を言うつもりなんて最初から無かったし、それに私は――……
「…二人の事……好きだから…」
「……ひより?」
「…それに……私は昔からあんまり…誰かに何かをお願いするって事…なかったから…」
多くを望まない子、ってお姉ちゃんに言われた事がある。
…まるで、今の臣くんと同じように。
…………。
…ううん。
もっと、あの時のお姉ちゃんは怒ってたかな。
「…お姉ちゃんにも…同じ事言われたの」
「まどかに?」
「……すごく……昔だけど」
そこでようやく、笑顔が浮かんだ。
あれは、今から数年前の事。
ずっと大切に取っておいたケーキをお父さんが食べちゃって。
…でも、それでも私は『いいよ』って言った。
だけど、お姉ちゃんが代わりにすっごく怒ってくれて。


『ひよりは、どうして怒らないの?自分の意見を言う事は、我侭とは違うのよ!』


なんて、まだ小さかった私に半分泣きながら怒ったんだよね。
…あの時の事、もしかしたらお姉ちゃんはまだ覚えてるかもしれない。
私にとっては衝撃的だったし、それに……何よりもあの時から、少しずつ変わる事が出来たから。
「…我慢して、嘘ついて……それで誰かの機嫌を取っても、自分が潰れるわよ……って。……お姉ちゃんに怒られた」
「…まどからしいな」
「うん…」
いつの間にか、くすくすと言う小さな笑い声まで漏れていた事に、今頃気付いた。
……そして、そんな私を見つめている臣くんも、とっても優しい顔をしてくれていて。
「…えへへ…」
「…ひより?」
「なんか……嬉しい…」
こんな面白くも無い話を、ちゃんと最後まで聞いてくれて。
それだけじゃなくて、臣くん自身の考えも聞かせて貰えて。
…嬉しかった。
本当に、本当に。
………だから、臣くんに甘えちゃう。
お姉ちゃんと……同じ位に。
「…それじゃ、尚更だな」
「……え…?」


「一日一つ、ひよりのして欲しい事を叶えてやる」


「…臣くん…」
瞳を丸くした私に、臣くんは『それなら言えるだろう?』なんてまた優しい笑みを浮かべた。
まさか、そんな申し出を貰えるなんて思いもしなかった。
だって、私にとってそんな言葉は……贅沢以外の何物でもなくて。
ましてや、臣くんにはご飯作って貰ったり、朝だって起こして貰ったり……学校まで一緒に行って貰ったりしてるのに。
…これ以上、臣くんから何かを貰ったら、きっとバチが当たる。
そう思って、彼にはしっかりと首が振れた。
「…ひより?」
「だめ…だよ、そんな……。…私、臣くんに沢山して貰ってるもん」
だから、今のままで十分なの。
そう続けるものの、小さくため息をついてから私を見つめた臣くんは――…本当に、優しすぎる顔を見せた。
「…俺にだけ」
「……臣くん…?」
「俺にだけそうやって甘えて欲しいって言うのは、俺の我侭だよ」
「え…?」
だから、そんな事を言うな。
…そう言って、臣くんは私を納得させるように髪を撫でた。
「……でも…」
「いいんだよ。…ひよりは、いつだって皆の為に頑張ってるんだから」
「けど、私は――」


「…いいから、たまには俺の我侭も聞くように」


「……あ…」
「…分かったな?」
髪を撫でてくれながら、彼は家では珍しく、学校で見せるような少しだけ厳しい顔をした。
…だけど、やっぱり私は好きだから。
どんな時の臣くんも、私の事を大切に思ってくれているから。
「…………うん…っ」
じわっと涙が浮かぶと同時に、だけど今度はちゃんと首を縦に振る事が出来た。
…ああ。
やっぱり、私は贅沢者だと思う。
沢山の人に愛されて、沢山の人に優しくしてもらえているのに……なのに、まだ何かをして貰おうなんて考えてて。
いくら臣くんがあんな風に言ってくれたとしても、やっぱり…社交辞令と言うか、何と言うか。
臣くんはそんな事を言う様な人じゃないって言う事は勿論分かっているけれど、私はそういう風に思う事にした。
……だって。
そうしなければ、本当に……ただの我侭なお荷物の子になってしまうから。
「それじゃ、今日のお願いは?」
「…え?」
「早速、聞こうか」
「……臣くん」
…そんな顔されたら、困る。
だって、私は今――…我慢しようって、決めたのに。
それなのにそんな優しい顔を見せられてしまったら……ダメになる。
ただただ欲しくて、臣くんに甘えてしまうだけになってしまう。
…でも…。
………ホントに…?
優しい顔のまま私を見つめてくれている臣くんを見ていたら、やっぱり少しだけ……揺れ動いているのが分かった。
「ん?」
ぎゅっと握って貰ってる掌に力を込め、改めて彼を見てみる。
「………ホントに…?」
「当たり前だろ?」
「…でも…私……。…え?」
…どうしようか。
なんて考えながら、ふっと視線が落ちた時。
臣くんが小さくため息をついて、私に緩く首を振った。
「ひより」
「っ…」
その時の声は、まるで――…学校で私を『月野』と呼ぶ時のような声で。
…ちょっとだけ……身体が震えた。
家じゃ決して、そんな風に言わない。
いつだって臣くんは、私の事……優しく呼んでくれる。
だから、つい何も言えなかった。
臣くんが、いつもよりずっと真剣な目をしていたから。
「遠慮する事も、気を使う事も。それは当然、大切な事だ」
「……うん…」
「ひよりはそれが出来てるし、いつだって……誰かの事を考えて行動出来るだろ?」
「…そんな――…」
「そうだ」
「………うん…」
否定しようと首を振ったら、ぴしゃりと鋭く遮られた。
…いつもと、全く違う雰囲気。
もしかしたら、臣くんは怒っているのかもしれない。
私が……どっちつかずな事ばかりしてるから。
情け無いような事しか、する事が出来ないから。
「……臣くん…」
「だけど、俺が『良い』って言った事に対してまで遠慮するのは、ルール違反だよな?」
「…でもっ…!」
「でも、じゃない。…それとも、迷惑?」
「っ…そんな事ない…!!」
これまで見せていたものとは、全く違う顔。
一瞬だけふっと視線を落としたかと思いきや、彼は……少しだけ寂しそうな顔を見せた。
…違う。
そんな風に思ってない。
むしろ、とっても嬉しくて…!
「違うよ、臣くん!そんな事無いっ…!」
「…それじゃ、言って?」
「……え…?」
「どうして欲しい?」
そう言って彼は、また、優しく微笑んだ。
まるで、『仕方ない子だな』なんて言う風に。
「……えっと…。……臣くん…」
「どうした?」
「…あの…………あのね…?」
すぅっと息を大きく吸ってから、改めて臣くんを見つめる。
…言う。
迷惑なんかじゃないから。
臣くんが言ってくれた事は、本当に……願ってもないような事だから。
それを伝える為にも、私は必死に目を逸らせまいと誓った。
「……傍に…きてくれる?」
「…傍に?」
「うん……。……少し、まだ寒くて………だから、あの…っ……」


『隣に居て欲しいの』


消えてしまいそうな位の声量で呟くと、一瞬瞳を丸くした彼が、少しだけ可笑しそうに笑った。
「いいよ」
「…っ…ホント…?」
「ああ。…独りで寂しいんだろ?」
「う。……だって…」
優しく笑ってくれているままで髪を撫でた彼が、ベッドをぐるっと回ってから――…私の左側に入ってきた。
臣くんのベッドはセミダブルで、少し大きい。
…でも。
いいのかな。
……私が使っちゃって……。
「…ゆっくり休みなさい」
「………ん…」
肘枕をしながら羽毛布団を被せてくれた彼を見ると、本当に……手を伸ばさなくても届く距離に居てくれた。
…なんだか……小さい頃お姉ちゃんがしてくれた、添い寝に似てる。
……温かくて……優しくて…………いい匂い…。
ふっと瞳を閉じると同時に、彼の手が髪を撫でたのが分かった。
…ああ。
こんなに近くに臣くんが居てくれる事で、こんなに早く安心するなんて。
「……臣くん…温かい…」
彼のシャツを掴みながらそんな事を呟いたのは、きっと夢じゃなかったはずだ。


「………ん…」
ずっとずっと長く続くんじゃないか、と思っていた夢からようやく解放される事が出来た。
…小さい頃から、ずっとそう。
風邪を引いて熱がある時は、必ず同じ夢を見る。
終わりの無い、どこまで行っても黒い空しかなくて。
夜とは違うその雰囲気が、凄く恐くて凄く不安だった。
――…けれど。
「…ぁ…」
ふと手の先を見ると、そこには見慣れたシャツがあって。
「……臣くん……」
まるで、私の事を抱き寄せるみたいに背中へ手を回してくれたままの格好で、彼はそこに居た。
…しっかりと瞳を閉じて。
気息正しい……呼吸で。
「……………」
……ずっと居てくれたんだ…。
すぐに眠ったって事は自分でも分かってるから、きっと臣くんはすぐにベッドを抜ける事が出来たはずなのに。
なのに、それをしないで……こんな風に、ずっと傍に居てくれて。
「……ありがと。臣くん…」
ふにゃん、と緩んだ顔のままで小さく呟き、そーっと……ちょっとだけ、もうちょっと…だけ……彼に身体を寄せてみる。
……温かくて、安心するような臣くんの匂い。
…………ありがとう。
握っていたシャツをそーっと離して彼の方に数センチずれると、落ち着いた鼓動が耳に聞こえて、何とも言えない位幸せな気持ちになった。


――…お互いに目を覚ましたのは、それからもう少し後の事。

#4:昼休み


「…以上。次のページまでは、宿題にする」
チャイムの音と同時に聞こえる、静かな臣くんの声。
それで、ちょっとだけざわつきと言うか――…ブーイングが起こった。
…だけど、それっていつもの事なんだよね。
別に、今日に限っての事じゃない。
皆、『宿題』って言葉が嫌いなだけ。
……なんだけど…。
「…なんか、今日のお兄ちゃま…随分機嫌悪くない?」
「え?そうかな?」
「そーでしょー。…ほら。げんに、ミッチーがぐでんぐでんじゃない」
そう言ってユキが視線を向けたのは、両手を投げ出して机に伏せてしまっている男の子だった。
「…ったく。あんな難しい応用問題、解けるわけないじゃないのよ」
「……うーん…」
確かに、今日の臣くんは……どこか少しだけ変だったような気がする。
普段ならばしないのに、今日に限って――…とても難しい問題を特定の生徒に解かせたから。
…だけど、普段は数学なんて得意中の得意!みたいなその子も、今回ばかりはとても悩んでた。
可哀想なくらいに。
………。
………でも……。
…今回の臣くんの行動には、ちょっとだけ私も心当たりがあった。
それは――…
「…おい、ミッチー元気出せってー」
「そそ。次は飯なんだからさ」
「……はー…なんか俺、もうやる気なくした…」
「あはは。お前、やけに片桐センセに気に入られてるからなー」
「言えてるー!何でかしんねーけど、やけに指されるよな。お前」
「…ほっとけ」
これまでへばっていた彼は、紛れもなくこの前私の…む……胸に触った、未継君その人だったから。
「…ん?」
「あ」
もしかしたら、臣くんはその事で今回みたいな事をしたのかもしれない。
そんな風に思って未継君を見つめていたら、顔を上げて身体を起こした彼とばっちり目が合ってしまった。
「………」
「………」
…お互いに、ある意味で暗黙の了解。
私は苦笑を浮かべるしか出来なかったし、未継君は『ぴよりん、政兄の事何とかしてよ…』なんて言う懇願の顔だったし。
………えへへ。
ごめんね、未継君。
こればっかりは……私にも、臣くんにお願い出来る事じゃないから。
そんな意味をこめて小さく両手を合わせてみると、大げさにため息をついてからまた机に伏せてしまった。
「んじゃ、ご飯にしよっか」
「あ、そうだね」
机をがたがたとくっ付けて来たユキに笑顔を見せ、私も同じようにお弁当を――……。
「…………」
「…ん?どうした?ぴよ」
「……お弁当が……無い」
「は?」
「だから、お弁当が……無いの」
訝しげな顔をしたユキをまじまじと見つめ、緩く首を振る。
…嘘じゃない。
だって、鞄の中は――…ぽっかりとお弁当が入るだけのスペースが空いたままになっていたから。
「ふぇー!?ど…どうしよ…」
「…あーあ。何よ、忘れてきたの?今からじゃ、購買も学食も間に合わないわよ?」
「うぅ…」
そうなのだ。
冷たいお言葉だけど、でも仰る通りで。
この学校は規模が大きいから、当然学食も広く作られている。
…けれど。
生徒数は当然多いので、どうしても『早い者勝ち』になってしまう傾向にあった。
………うー…。
本気で食べたい物がある子は、4時限目の授業を抜け出してでも買いに行く。
…と、言う事は。
「…………」
「…外のコンビニまで、付き合ってあげよっか?」
「ううん……平気」
「何で。どうするの?お昼」
「……ヨーグルト買ってくる…」
「えぇ…?ちゃんと食べなさいよ」
「だってぇ…」
お財布を持ちながら立ち上がると、頬杖をついたままのユキが瞳を細めた。
…うぅ。
だってだって。
ヨーグルトとジュースなら、自動販売機で売ってるし。
…あ。
そう言えば、カップ麺も売ってたような……。
「…行ってきます」
「行ってらっさい」
とぼとぼと歩き出し、教室のドアへ向かう。
その時に一度ユキを振り返ると、苦笑を浮かべて手を振っているのが見えた。


「…………はぁ」
どうして、こんな事になったんだろう。
絶対に、忘れる事は無いって思ってたのに…。
だって、お弁当は臣くんお手製の物なんだよ?
臣くんが作ってくれるご飯は、和・洋・中どれを取っても美味しくて。
だからこそ、毎日作ってくれるお弁当は本当に楽しみだった。
4時限目になってくるとお腹も空くから、どうしても考えてしまうのはお昼の事。
そのせいで、4時限目に多くコマを割り当てられている数学の時間は、臣くんと目が合うとついついにまっと笑ってしまう事が多かった。
……勿論、臣くんはそんな私を見ても動じたりしないけれどね。
慣れた様子で、淡々と授業をこなしていくし。
「……はぁ…」
でも。
…今日は、そんな一番の楽しみが…無い。
折角、すんごくすんごく楽しみにしてたのに。
……臣くんのお弁当…食べたかったなぁ…。
家に帰ったら、絶対食べよう。
夕飯はむしろ、それで十分だから。
「あっ…!?」
階段を降りて、職員室の隣にある渡り廊下へ向かった時。
丁度、右から歩いて来た……臣くんと、ばっちり目が合ってしまった。
………うぅ。
き…気まずい……。
お弁当を持ってきているいつもは、この時間にこんな場所に居る事はない。
ご飯を食べ終わってからジュースを買いに行く事が多いし、それに……この渡り廊下は……パン屋さんが訪れる場所になっているからだ。
「…………」
「…………」
臣くんは、もしかすると――…私がお弁当を忘れた事を、分かってしまったかもしれない。
…それって、当然いい気分じゃないよね?
自分が折角一生懸命作ったお弁当を、無残にも忘れて来て……ある意味、無駄にしたようなものなんだから。
「…臣くん…?」
だけど。
…だけど彼は、まるで『ついて来い』とでも言わんばかりの顔で、身を翻した。
……どこ行くんだろう…?
なんて、答えは最初から決まってる。


職員室。


紛れもなく彼は、そちらに向かって歩き出したから。

「………」
…怒られる、んだよね。きっと。
ドアを開けて待ってくれている彼の元に小走りで寄ると、一度瞳を閉じてからため息を見せた。


「…これ、忘れただろ」
「あっ…!」
席に着くなり彼が取り出したのは、見覚えのある包みだった。
「…お弁当…!!」
そう。
間違いなく彼が手にしたのは、私用のハンカチに包まれているお弁当その物。
……でも、どうして彼が持っているんだろう。
嬉しくて顔がほころんだけれど、相変わらずため息を見せて視線をくれない彼に、眉が寄った。
「…忘れたよな?」
「……忘れた…」
「………」
「ご、ごめんなさいっ…!!あの、そんなつもりじゃなくって…」
トン、と包みを机に置いて私を見上げた彼に、慌てて頭を下げる。
――…と。
「…臣くん…」
「謝らなくていい。…別に、怒ってないから」
その頭を、彼が優しく撫でてくれた。
……なんか……どうしよう。
てっきり怒られるんだとばかり思っていたから、こんな風に優しくされて、思わず困ってしまう。
「ほら」
「…あ」
「ちゃんと食べるんだぞ?」
「…っ……ありがとう、臣くん…!」
思わず戸惑っていると、彼が手を引いて私にお弁当を持たせてくれた。
…優しい。
相変わらず臣くんは私を必ず助けてくれて、何か失敗したりしても決して叱責したりしない。
なだめるようにと言うか、説得するようにと言うか…。
そんな感じで言ってくれるので、恫喝(どうかつ)なんてモノは一切見た事がなかった。
「…それじゃあ、ありがたく頂戴します」
「ああ。ちゃんと食べるんだぞ」
「うんっ!」
ぎゅっとお弁当箱を抱きしめて、笑みを見せる。
――…と。
「………あれ…?」
「?どうした?」
「…臣くん、これ……………お箸…無い…?」
抱きしめて感じた、違和感。
それで彼を見ると、私とお弁当とを見比べてから――…『あ』と言う感じに顔を上げた。
「…………」
「…………」
…折角のお弁当。
だけど、お箸が無い。
………となると、イコール……食べられない、わけで。
…………うぅー。
折角、無いと思ってた臣くんのお弁当を食べられる事になったのに…!
なのに、まさかそんな事になるなんて……。
「…あ。でも、学食行ったら……お箸あるよね…?」
臣くんのせいじゃなくって、元はと言えば自分のせい。
だから、お箸の事を言ってしまって後悔した。
……だってそうでしょ?
臣くん自身気付いてなかったんだから、そのまま通り過ぎれば問題なかったんだから。
…でも。
つい、出てしまった言葉。
………うぅ。
絶対、臣くんに嫌な思いさせた。
それがとっても辛くって、ぎゅっとお弁当を抱いたまま視線が落ちる。
「ほら」
「……え…?」
「いいぞ、持って行って」
視線に入ってきた、彼の手と――…黒い、細長い箱のような物。
差し出されてつい手を出してしまうと、それは…紛れも無く臣くんがいつも使っている、お弁当用のお箸入れだった。
「…え?これって…」
「いいよ、別に。割り箸があるから」
「…え?えっ…?あ、それなら、私がそっちを――」
「割り箸も、職員室の備品だぞ?一応」
「……あ…」
ぎゅっとお箸ケースを握って彼を見ると、少しだけ家で見せてくれるような優しい顔をしていて。
『…分かるよな?』なんて納得させられるだけの、十分な力があった。
「…うん」
「だから、それを使いなさい」
「……いいの?」
「ああ」
頷いた彼にもう一度尋ねると、今度は2つ返事をくれた。
……臣くんの、お箸。
それは、私が使っている物よりも、長くて綺麗な……黒い光沢のある塗箸。
だけどそれは、私の手には少し大きくて。
…ちょっとだけ、大人っぽくて。
「…ひより?」
「……えへへ。大事に使うね」
「ああ」
不思議そうな顔をした彼に笑みを見せると、頷きながら『そうだな』と続けた。
…臣くんのお箸。
ただでさえ、私にとっての彼と言う存在は、大きくて特別なのに。
……それなのに、まさかこんな風に彼の物を使う事が出来るなんて。
「それじゃ、頂きます」
「ああ」
笑顔のままでぺこっと頭を下げ、お弁当箱とお箸入れとを大事に握り締める。
…えへへ。
ありがとう、臣くん。
職員室のドアに向かってからもう一度振り返り、目が合った彼に――…唇だけで『ありがとう』を告げる。
…すると、その時ばかりは一瞬だけ、家で見せてくれるような柔らかい笑みを見せてくれた。


#3:兄弟

「…ねぇ、臣くん」
「ん?」
「……私……変、じゃないかな?」
「ああ。大丈夫だよ」
リビングのソファに座っていた彼に自分の格好をチェックして貰うと、しっかり私を見てくれてからちゃんと頷いてくれた。
今日は、これからお出かけなのだ。
…どこに、って………臣くんの実家へ。
毎月一度か二度、こうして必ずお家へお邪魔するのが月極の事で。
その時は、他の皆も家に集まるのが慣わしになっていた。
「ひより、準備出来た?」
「あ、うん。…どうかな?変じゃない?」
ひょこっと顔を出したお姉ちゃんにも、臣くんと同じようにチェックして貰う。
…だけど、お姉ちゃんは臣くんと違って、ちょっと辛口。
なぜならば彼女は、『モデル』を仕事にしているからだ。
「……んー……まあ、80点てとこね」
「え?そんなにくれるの?」
「ま、いいでしょ。今日は特別」
「わーい」
びしっとしたスーツを着こなしている彼女に笑みを見せると、お姉ちゃんも楽しそうに笑ってくれた。
「それじゃ、行きましょ」
「ああ」
……うーん。
こうして身長の高い二人を後ろから眺めると、なんだかこう……場違いって感じがしてくる。
…お姉ちゃんと違って、背も無ければ……自慢出来るような身体つきでもなくて。
臣くんも臣くんで身長がある上に、目立つ位カッコイイし。
………。
…うー。
「…っわ!?もー…。なぁに?ひよりってば」
「どうした?」
「…えへへ」
何だかもやもやとして、二人の間に入り込んでいた。
無理矢理手を繋ぎ、二人それぞれの顔を覗き込む。
「…もー。子供みたい」
「だってー」
「…ひよりらしいな」
「えへへ」
くすくす笑いながらも、こうする事を許してくれる二人。
…やっぱり、私にとって特別で大好きな人だ。
自慢出来る大切な姉と兄を持てて、心底幸せだと思った。


「こんにちはー」
「あっ。こんにちは」
…一体何度目だろうか。
こうして、臣くんの実家であるこの大きなお屋敷に上がるのは。
どこの部屋も全てが広くて、落ち着いていて……とっても静かで。
聞こえる音と言えば、鳥のさえずりと生活の音だけ。
テレビとか外の喧騒とかは一切聞こえないから、本当に世間とかけ離れているように思えてしまう。
「はい、これ。お土産」
「うわぁ…よろしいんですか?」
「ええ、勿論。ちゃんと若菜(わかな)ちゃんの分もあるからね」
「本当ですか?まどか様、ありがとうございます」
「…ほーら。また『様』付ける」
「あ」
「私達はいいの。ね、ひより」
「勿論!…だから。ね?若菜さんもっ」
「…ありがとうございます」
彼女は、ここ『片桐家』に仕えている人で、臣くん達の従妹にあたる桐生(きりゅう)若菜;さん。
花嫁修業と言う事で家事手伝いをしているらしく、今日もいつもと同じ可愛いエプロン姿で出迎えてくれた。
年は私より3つ程上なんだけれど、本当に本当に『可愛い』と言う言葉が良く似合うと思う。
物腰も穏やかで、口調も丁寧。
それで、しかも可愛いんだから……本当に文句の付け所が無いと思う。
「さあ、どうぞ。お上がり下さい」
「ありがとう」
「お邪魔します」
笑顔で頷いてくれた若菜さんに断ってから、私達も靴を脱いで片桐家へと上がる。
――…この先の部屋に待っているであろう、臣くんの兄弟に会う為に。


「やあ、いらっしゃい」
「お邪魔してます」
「久しぶりね」
若菜さんに案内された、一番奥にある一番広い和室。
そこで待っていたのは、臣くんの一番上のお兄さんである一雅(かずまさ)さんだった。
縁のない眼鏡を掛けている彼は、さらりとした髪を1つにまとめていて。
しかもしかも、着物を綺麗に着こなしていた。
「一雅さん、今日も素敵ですね」
「はは。ありがとう、ひよりちゃん」
にっこりと優しい笑みをくれた彼が、着物が似合うのはある意味当然とも言えるべき事だった。
なぜならば、彼は『茶道・片桐流』の師範であり、家元だったから。
……えへへ。
一雅さんの立ててくれるお茶を何度か飲んだ事があるんだけれど、不思議と苦くなくて、むしろとってもまろやかな味がするのだ。
素人の私でも『美味しい』と感じるんだから、お手前は結構なものだと思う。
……ううん。
きっと、お茶の世界ではとっても有名な人なんだろう。
「…はぁ。この部屋暖かい…」
「それは良かった」
ふにゃん、と顔を緩ませながら大きな深い茶色のテーブルを挟んで腰を下ろし、バッグを隣へ置く。
――…と、臣くんが何も言わずに私の隣へ座った。
「…?臣くん?」
「何だ?」
「…こっちでいいの?」
「ああ」
お姉ちゃんは、テーブルを挟んだ向かい側――…つまり、一雅さんの隣に座っている。
………んー…。
でも、思い返してみれば……いつもこんな形だったっけ。
確かに、そういえば今回に限ってこんな形を取っているわけではなかったような気がする。
……うー…ん。
………まぁ、いいか。
お姉ちゃんも何も言わずに一雅さんと話しているし、別に問題はないらしい。
「…あ。いい匂い」
「…?そう?」
「うん。なんだろ……バターみたいな…」
ふと鼻に付いた、甘い匂い。
それで辺りを見回すと、お姉ちゃんも同じように周りを見てから……だけど、首を傾げてしまった。
…うーん。
いい匂いなんだけれどなぁ。
とは言え、これが一体何の匂いなのかは分からなくて。
……お料理……?それとも、お菓子…かな。
なんて事を考えていると、ふいに後ろの戸が開いた。
「いらっしゃい、まどかちゃん。ひよりちゃん」
「…あっ、咲真(さくま)さん!」
「お邪魔してます」
にかっと人の良さそうな顔を見せてくれた彼に、ついつい立ち膝で迎えてしまった。
お行儀悪いって、臣くんや一雅さんには言われてしまうかもしれない。
でも、やっぱり彼にはついついそんな風にしてしまった。
「ひよりちゃん、相変わらず可愛いねぇ」
「ホントですか?…えへへ。嬉しい」
「…ひより」
「……あ……ぅ。…ごめんなさい…」
ぽんぽんと頭を撫でられた事が嬉しくて笑っていたら、瞳を細めた臣くんにぴしゃりと怒られた。
…うー。
ごめんなさい。
だから、そんな顔しないで?
慌てて咲真さんから顔を逸らし、きちんと座布団の上に正座し直す。
すると、私を見てため息をついてから、ようやく臣くんが許してくれた。
「相変わらず、手厳しいねぇ?臣君は」
「…ううんっ!そんな事ないですよ。…今のは私がいけなかったから…」
どっかりと臣くんの隣へ座った彼を覗くように首を振ると、『ひよりちゃんは健気だねぇ』なんてくすくすと笑われた。
彼は、臣くんのすぐ上のお兄さんである、咲真さん。
とっても気さくな人で、この家で一番最初に私と仲良くなってくれた人だ。
色んな話をしてくれて、私が知らない以上に沢山の事を経験していて。
髭を生やしている事もあって、いかにも『大人の男の人』と言う感じがする容貌。
だけど、そんな外見からはちょっと想像出来ないような笑顔は、いつも私の事を太陽みたいに暖かく包んでくれる。
「あ、そうそう。実は今度さ、新しくランチメニュー作ったんだよ」
「え?そうなんですか?」
「そそ。だからさ、今度ウチへおいで。…勿論、まどかちゃんも一緒に」
「いいんですか!?」
「勿論」
「うわぁい」
にっこりと笑った彼に万歳を見せると、お姉ちゃんがくすくす笑いながら『ごちそうさま』と告げた。
彼は、臣くんのマンションのすぐ隣で、小さなカフェを営んでいる。
街でも結構有名で、隠れ家的な雰囲気もある事からか、ちょっとしたデートスポットになっていた。
気さくな彼の性格と、とってもとっても繊細で美味しいお料理は勿論、彼が出してくれるオリジナルのカクテルなんかも、雑誌に割と取り上げられるほど。
…だから、いつも混んでいて……忙しい時に悪いから、とあまり行った事はない。
凄く近くにあるんだけれど、ね。
「んで、これがまぁ新しいデザートのプロトタイプなんだけど」
「…あ!これ…」
「……あら」
まるで、もったいぶる様にしていた咲真さんが取り出した物。
それが目の前に置かれた瞬間、バターの甘くていい匂いが辺りに広がった。
「…すごい……いい匂い…!」
「いいよ、食べても」
「いいんですか!?」
「勿論。召し上がれ」
思わず食い入るように見つめてしまっていると、頷きながら咲真さんがお皿を差し出してくれた。
……美味しそう…。
1つ手にとってみると、まだ温かくて、ほんのりとお酒みたいな匂いがした。
「…へぇ。パウンドケーキも作れるんだ」
「まぁね」
しげしげと同じようにお菓子を見つめたお姉ちゃんに、咲真さんは『凄いだろ』なんて冗談っぽく続けた。
でも、これは本当に凄い。
……いい匂い……美味しそう…。
だから――…
「いただきます」
を言うと同時に、ぱくっと口へ運んでいた。
「っ…!ふぁ……美味し…!」
「お。嬉しい事言ってくれるね」
「だって、だって!本当に、凄く美味しいですもん!!」
そう。
私は決して、お世辞なんか言ってない。
元々そんなに器用じゃないし、それに――…咲真さんのお料理の腕がピカイチだって事は、良く知ってるから。
「…ん?」
「………」
「えっと……臣くんも、食べる?」
「いや、いらない」
「……そう…?」
じぃっと向けられていた視線で彼を見ると、緩く首を振って視線を私から外した。
……うー…ん。
………こ、こぼしたりはしてないよ?私。
口元に手を当ててきょろきょろと我が身を確認してみるけれど、やっぱりそんな形跡は見受けられなかった。
…んー…。
それじゃあ、どうして臣くんはちょっぴり不機嫌そうなんだろう。
「…え?」
「いやー、なんつーか……。…っふ」
「?」
頬杖をついてこちらを見ていた咲真さんを見ると、少しだけ悪戯っぽい顔をしながら、私を臣くんとを見比べた。
……うー。
わかんない。
わかんないですよ、咲真さん。
首を傾げながら続きを食べるも、彼は『何でもないよ』と手を振るだけで。
…………そうなのかな。
それで納得しちゃっていいのかな?
何となくだけど、臣くんと咲真さんの間に目に見えない何かが起こっていたような気がして、ちょっとだけ腑に落ちなかった。
「…っと。それじゃ、これで皆揃ったのかしら?」
若菜さんが部屋に入ってきたのを見てお姉ちゃんが声を上げると、首を振りながら一雅さんが苦笑を見せた。
「…まだ、一番うるさいのが来てませんよ」
「………あー」
「…あ」
…そうでした。
絶対に、忘れる事なんてないと思っていた彼の事を、お姉ちゃんと二人で忘れてしまうなんて。
『一体どうして忘れたのかしら』と続けて苦笑を見せたお姉ちゃんに同意を求められ、同じように笑いながら頷くしかなかった。
最後の一人。
それが、臣くんの弟である未継(みつぐ)君。
…何を隠そう。
実は彼とは――…


「ぴよりーーーん!!」


「ッひゃわぁああぁっ!!!?」
いきなり後ろから抱きつかれ、とんでもない声が上がると同時に、身体が強張った。
「…んー……相変わらず、可愛い反応で」
「……ち。いーな、お前。相変わらず、ひよりちゃんにベタベタ出来て」
「ふへへ。そりゃあもう!なんせ、ぴよりんは俺の事ラブだもんね?」
「うぅ…っ…み、未継君っ…!」
すりすりと頬ずりをされて半泣き状態な私の気持ちとは裏腹に、咲真さんは相変わらず頬杖をついたままでぼそっと呟いた。
…ふぇーん。
毎回毎回、こんな勢いでどこからともなく現れる彼には、もう…何て言うか………諦めって言うか……うん。
そんな感じの物があるんだけれど…。
………うぅ。
…うぅううう。
それでもやっぱり、絶対に慣れる事は無かった。
「…あー。あったけー…」
「っきゃあ!?」
「………え」
今。
今彼が腕をずらした瞬間、ふにょんと言う部分に…ぶ…ぶぶぶ部分に…!!!
「…あ……っと…も……もも、もしかして…今のって…」
「……やっ…み…未継くっ…!!」
どうして、こんな事になっているんだろう。
少しだけ腕から力を抜いてくれた彼だけど、今でもやっぱり――…胸の上にあって。
……ふぇーん。
む、胸触られた。
例え腕であろうとも、その事実は変わりないわけで。
「っ、ご、ごめっ…!」
「うぅ…」
「いやあの、なんつーか、あの――…ぐぇ!?」
慌てて身体を離した彼を、見ようとそちらに首を向けた途端。
これまでとは全く違った腕が、私を引き寄せた。
「っ…あ…」
「…大丈夫か?」
「臣くん……」
身体に回る、ふわりとした腕の感触。
……やっぱり、臣くんだぁ…。
さりげなくも、しっかりと私の事を助けてくれて。
…えへへ。
「…ありがとう、臣くん」
「いや、礼を言われるほどの事じゃない」
首を振った彼に笑みを見せると、髪を撫でてくれてから彼が手を離した。
――…その途端。
「未継」
「うへぇ」
私に向けていた物とは全く違う視線を、寝転がったままでいた未継君に容赦なくぶつけた。
「何度言ったら分かるんだ、お前は」
「いや、だってさー。あまりにも、ぴよりんが可愛くて…」
「あー、その気持ち分かるな。俺もぎゅーってしたい」
「………」
「いやーっはっは。冗談だって。怒んなよ、政臣ぃ」
まるで、助けを求めるかのように、咲真さんの隣へ未継君が腰を下ろした。
……でも。
そのちらをも、臣くんは容赦する事無く瞳を細める。
「…だからって、学校でもするんじゃない」
「あれ?バレてた?」
「……当たり前だろうが」
――…そうなんです。
実は未継君とは、正真正銘同じ高校。
…しかも。
それだけじゃなくて、今では同じクラスだったりするのだ。
だからこそ、初めて臣くんの家に行った時、彼が我が物顔で漫画読んでいた時は本当に本当に驚いた。
だって、臣くんとは似ても似つかないんだもん。
…まさに、静と動と言う言葉がピッタリな位、性格も見た目も正反対だから。
片や、ピアスを開けて髪は金に近い茶色の、高校生。
片や、短く切りそろえられた髪に、びしっとしたスーツをまさに着こなしている……社会人。
臣くんは、ハタから見てもやっぱり誠実で真面目そうに見えるから、毎日を楽しそうに生きている未継君とは……似ても似つかない。
でも、私が気付かなかった理由はそれだけじゃなかった。
未継君がなぜか、普段は『片桐』じゃなくて『中宮』と名乗っているからだ。
彼曰く、


「学校で兄弟って目立つじゃん?」


なんて言って笑ってたけれど……。
…でも、未継君はただでさえ目立ってる気が……。
…………あ。
でも、もしかしたら――…臣くんが、って事かも知れない。
未継君は、色々と……その……ねぇ?
結構無茶な事でも、学校でしちゃうから。
「ぴよりん」
「…え?」
「ごめんな」
顔を上げると、咲真さんの隣に胡坐をかいて、両手を合わせている彼が見えた。
「ううん。平気」
だから、ついそんな姿を見て笑顔が浮かぶ。
別に、未継君の事は嫌いじゃない。
…それに――…彼は、全てが冗談めいているわけではないから。
「…ぴよりん、やっぱ可愛いわー…。なんつーか、癒し?」
「あー、それはあるな。ひよりちゃん、反応とかがいちいち可愛いし」
「ふぇ!?そ…っ…そんな事は…」
「いや、あるある」
「あるね。うん。絶対」
腕を組んだ咲真さんが、うんうんと満足げに頷いてみせた。
そして、そんな彼と同じように腕を組んだ未継君までをも、同じような顔で頷いてくれる。
……うぅ。
そ、そんな風にされると……凄く恥ずかしいんだけれど。
でも、嬉しかった。
お姉ちゃんの大切な人の、大切な人達に受け入れて貰えているって実感出来るから。
「それでは、全員揃った所でお茶にしましょうか」
「さんせーい」
「…あ。それでは、まどかさ――…んに頂いたお菓子をお出ししましょうか」
「ふふ。そうね、お願い出来る?」
「はいっ」
「あ、ひよりちゃんって確か最中(もなか)好きだったよね?」
「大好きです」
「はは。良かった。…それじゃ、いい物があるんだよねー」
「……っふわ!?」
「あはは。そんなに喜んで貰えて嬉しいよ」
「嬉しいです…!頂いていいんですか?」
「勿論。どーぞ、召し上がれ」
「ありがとうございます!!」
「ほら、未継も座りなさい。今お茶を入れよう」
「…うー…俺、熱いの苦手なんだけど…」
「はは。大丈夫ですよ。熱くも苦くもありませんから」
「ホントに?うっし。んじゃ、飲む」
……それぞれが、それぞれに繰り広げられている会話。
それを聞きながら、何だかとっても嬉しくて……笑顔が浮かんだ。
「…どうした?」
「え?」
「そんな顔して」
にまにまと微笑んだままで居たら、お茶を飲みながら臣くんが私を見つめた。
…ふふ。
そう言う臣くんも、何だか楽しそうな顔してるよ?
「…えへへ。私、やっぱり……みんなの事好きだなぁ…って思って」
「……そうか」
にへらっと笑って大きく頷くと、ぽんぽん彼が頭を撫でてくれた。
…大きな手。
温かくて、優しくて……大好き。
「…ありがとう、臣くん」
「ん?…どうして急に礼を言う?」
「……何となく……かなぁ」
臣くんが、お姉ちゃんと結婚して――…そして、私を迎え入れてくれた事。
そして、臣くんの兄弟も、お姉ちゃんだけじゃなくて私までをも認めてくれた事。
優しくしてくれて、本当に……愛してくれて。
それが、本当に本当に嬉しかった。
幸せだと思った。
…そして、何よりもこう言う幸せな境遇に恵まれた事は、やっぱり……誰よりも一番臣くんのお陰だから。
それでつい、感謝の言葉が出た。
臣くんに、伝えたかった。


『ありがとう』


って、精一杯の気持ちを。
「…えへへ」
「ひよりらしいな」
「そうかな?」
「ああ」
くしゃっと髪を撫でてくれた彼を上目遣いで見つめると、小さく頷いてから優しい微笑みを見せてくれた。

#2:第一印象


「…お姉ちゃん、本当に行くの…?」
「当たり前でしょ!…ったくもー。その為にここまで来たんじゃない」
そう言って緩やかなウェーブを揺らしながら、お姉ちゃんが呆れたように笑った。
――…ここは、鎌倉にある…とあるお屋敷……の、前。
…すごく大きい。
そのせいか、ついつい時代劇とかで出てくる武家屋敷がぽんと頭に浮かんで、そわそわとしてしまう。
そんな私を見て、お姉ちゃんはまた笑うんだけど…。
……でも、仕方ないと思うよ?
普段、こんなに大きなお家なんて見る機会ないし、ましてや――…初めての事が沢山の場所だから。
「こんにちは。月野です」
『お待ちしておりました』
「お…お姉ちゃん!?」
「なぁに?…あ。ほら、開いたわよ」
「………うぅ」
きょろきょろと大きな門と長くどこまでも続いていきそうな白い塀を見つめていたら、お姉ちゃんはいつの間にかチャイムを鳴らしていた。
…やっぱり、慣れてるのかな…。
確かに、それは当然と言えば当然なんだろうけれど…。
朝、家を出る時から緊張しっぱなしの私とは違って、お姉ちゃんは本当にいつもと同じ顔で。
………でも、これが普通…なのかもしれない。
だってここは――…彼女が結婚する、近い将来の旦那様の実家なんだから。


「ほーら。行くわよ?」
「…あ……うんっ」
「もー。そんなにカチコチにならなくても、大丈夫よ。…取って食われたりしないから」
「……うん」
くすくす笑って手を引いてくれる彼女に連れられて、大きな渋い色の門をくぐる――…と、そこからは外と全く違う世界が広がっていた。
……すごい……。
お庭が凄いのは、勿論。
だけど、それよりも何よりも、庭一杯に咲き誇っている淡い綺麗な桜に目だけじゃなくて心まで奪われた。
庭園と言う言葉が、まさにぴったり。
どこもかしこも綺麗に整えられていて、本当に…綺麗な緑と桜色ばかりが溢れていて。
「……ふわ…」
どこまでも続く石畳にも、落ちているのは淡い桜の花びらだけだった。
チリなんて、どこを探しても1つとして落ちていそうにない。
「………よ…汚れちゃうんじゃ…」
「もー。ひよりは、心配し過ぎなの!だーいじょうぶだから、もっと真ん中歩きなさい!」
「でっ、でも…!」
「いいの!ほら!こっち来る!」
「わきゃ!?」
花びらに染まった綺麗過ぎる石畳を、普段履いているローファーで汚してしまわないように端っこを歩いていたら、少しだけ瞳を細めたお姉ちゃんが、ぐいっと腕を引っ張った。
途端に足元がぶれ、真ん中を踏んでしまう。
「……うー…」
「いーのよ、気にしなくても。…って言うか、こういう場所は汚れてナンボでしょ」
「…うそだぁ…」
「あら、ホントよ?」
「……そうなの?」
「多分」
「…もー。お姉ちゃん!」
「あっはは。まあ、いいじゃない。堅い事言わないのー」
真面目な顔で言うから、てっきり本当なんだと思った。
だけど、すぐにぺろっと舌を見せて………。
…もー。
お姉ちゃんってば。
でも、お陰でちょっぴり緊張が解れた気がした。
……だから、好き。
お姉ちゃんはいつだって、私の事をこうして分かってくれているから。
「さ。行くわよ」
「……うん」
ぽんぽんと頭を撫でられて、頷くと同時に久しぶりに笑みが浮かんだ。
昨日の夜も緊張してちゃんと眠れなかった程だから、もしかすると……夕飯以来かもしれない。
…いよいよだ。
いよいよ、会えるんだ。
「……お姉ちゃんの、旦那様…」
大きな両開きの引き戸を見つめながらそんな事を呟くと、隣に立っていたお姉ちゃんは『なぁにそれ』なんて可笑しそうに笑った。


「こんにちは」
「まどか様と、ひより様ですね。お待ちしておりました」
カラカラと音を立てて引き戸を開けると、そこには可愛らしいエプロンを着けた女の子が座っていた。
……えと…。
もしかすると、年は私と同じか少し上くらいかもしれない。
髪を2つに縛っていて、出迎えてくれた笑顔は本当に柔らかかった。
「…ええと……政臣様は、お庭の方にいらっしゃるのですが…」
「あら、そうなの?それじゃあ、そっちに回ってみるわ」
「申し訳ありません」
「いいえ。………ねぇ。私達には、気を遣わないで?」
「…あ。……ありがとうございます」
お姉ちゃんが小声で首を振ると、その子は一瞬戸惑ったように瞳を丸くしたけれど、すぐにはにかんだような笑みを見せてくれた。
……可愛い人…。
思わず、同性の私も引きつけられてしまいそうになる。
それ程に、可愛らしくて……まるで溶けてしまうような笑顔だった。
「ひより、行くわよ」
「あ、うんっ」
少し後ろの方から聞こえた声でそちらを見ると、既にお姉ちゃんは外へと移動してしまっていた。
…早い。
まるで『早くいらっしゃい』なんて言葉が飛んできそうな彼女に慌てて駆け寄り、引き戸に――…手を掛ける、と。
「……あ」
にっこりと笑って頭を下げてくれた彼女と、目が合ってしまった。
…ふわー。
可愛い子だなぁ……本当に。
「えっと…それじゃ、失礼します」
何となくそんな言葉が頭に浮かんで、彼女と同じように頭を下げる。
すると、お姉ちゃんが『何、かしこまってるのよ』と言ってくすくす笑った。


「…それにしても……」
「……広いお庭だね…」
そう。
先程の彼女は『庭にいる』と言ったけれど、その庭は……一体どれほどの広さがあるんだろうかと悩んでしまうような広さで。
…うう。
考えるだけでも、くらくらしそう。
そんな規模だから、『庭にいる政臣さん』を見つけるのは、はっきり言って容易じゃなかった。
でも――…。
このお庭のこの光景。
……私……どこかで知っているような気がするのはなぜだろう。
まるで、以前にもここに来た事があるような……そんな気すら湧いてくる。
だって、こんなに立派な花を結んでいる桜の木なんて、そうそう見られるものじゃない。
だからこそ、以前にも――…全く同じ光景を見たような気がしてならないのだ。
…小さい頃、この時期になるとお姉ちゃんに手を引かれて必ず見に行っていた桜の木があった。
それは、本当に本当に大きくて立派で……空一面を桜色で覆い尽くしてしまうんじゃないかと錯覚する程の物で。
「…ねぇ、お姉ちゃん。ここって……昔来た事ある?」
はらはらと舞い散る桜の花びらを見つめたままで口を開く。
………が。
「………あれ?……え?お…お姉ちゃん!?」
先程まですぐ隣にあったはずのお姉ちゃんの姿が、欠片も見る事など出来なかった。
「…………あ。いたいた。もー…人んちの庭で、迷子になってるんじゃないの!あんたはー」
「わっ!?」
軽く頭を小突かれてそちらを見ると、眉を寄せて少しだけ呆れているようなお姉ちゃんがいた。
「…ったく。あっちよ」
「え?」
くいっと顎でそちらを指し示した彼女にまばたきを見せると、『紹介するから、早く来なさい』と続けられた。
……と言う事は…。
イコール、お姉ちゃんのフィアンセの人が……居る、という事で。
…わ。
い、今頃になってまた、どきどきしてきた…。
だって、お姉ちゃんのフィアンセだよ?
えっと……そう。


『片桐 政臣さん』


…でも、なんだか不思議。
これまでずっと知らない人だったその人が、これからは『お兄ちゃん』になる。
……うー…ん。
私は一体、何て呼んだらいいんだろう。
『お兄さん』?
それとも――…『政臣さん』?
「……うー…」
これまで生きてきた中で、ちょっとでも面識のある人ならばきっと容易に考え付くんだろうけれど、なんせ彼と会うのは今日が初めて。
…いきなり過ぎて、頭が付いていかないというのもある。
「あ、いたいた」
「…え?」
「政臣ー」
私の手を引いたままで、彼女が声を掛けた。
庭池にしては、少し大きすぎるそこ。
………の、ほとりに立っていた人物。
その人こそ、今ではとても優しい顔を見せてくれるようになった、臣くんその人だった。


「…………」
久しぶりに、あの時の光景を思い出した。
私達に背を向けて、煙草を吸っていた彼。
良く晴れたあの日に、日差しとすぐ隣に立っていた桜の花びらを目一杯浴びて立っていた臣くんは、本当に不思議で……綺麗だと思った。

初めまして、って挨拶をしどろもどろにして、彼を見た時。
少しだけ鋭い瞳の彼に掴まって、途端に言葉が出て来なかった。
――…でも。
そう思ったのは一瞬の事で。
彼はすぐに、『いい名前だな』って笑ってくれた。
………。
……そう言えば。
あの時、臣くんは――…煙草、吸ってたよね。
「……………」
うん。間違いない。
声を掛けた私達の姿を見て、煙草を消してくれたんだから。
「…ひより?」
ソファに座って考え込んでいたら、丁度聞きたい人の声が聞こえた。
「ねぇ、臣くん」
「ん?」
「…どうして……煙草やめたの?」
身体ごとそちらへ振り返ると、キッチンに立ってお湯を沸かしている彼と目が合った。
…?
どうしてか、ほんの少しだけ瞳を丸くして。
だけど、すぐにこちらへ歩いて来てくれた。
「…ひより、煙草苦手だったよな?」
「……ん……うん。ちょっと…」
「一緒に住むって決めたのに、わざわざ嫌がるような事をしなくてもいいだろ?」
「…あ…」
そう言って撫でてくれた頭が、ほんのりと温かくなった。
……へへ。
やっぱり、臣くんらしい…って言うか……。
「…?ひより?」
「……臣くん…優しい」
「そうか?…これが、一緒に住む人間として最低限の礼儀だと思うが」
「えへへ。そう思ってくれるのって、とっても嬉しい」
ソファの縁に寄りかかるようにした彼を見上げると、『そうか』と言った優しい笑顔がそこにあって、また顔がふにゃんと緩んだ。
…やっぱり、臣くんらしい。
だけど、煙草ってそんな簡単に辞められるような物じゃないんだよね…?
「…どうした?」
「ううんっ。…ありがとう、臣くん」
「……何だ、急に」
「えへへ」
臣くんらしい気配りって言うか、優しさって言うか…。
それが、すごく嬉しかった。
…嬉しい。
自分が苦手だと言う理由で、すっぱりと辞めてくれたなんて。
「……それに…」
「え?」
「…………」
暫く口を開かなかった彼が、そっと……髪をすくった。
………綺麗な指。
臣くんの手は、大きくて綺麗で……凄く好き。
学校でチョークを握っている時も、美味しいご飯を作ってくれている時も。
…そして、車を運転している時も――…こんな風に、私に触れてくれている時も。
いつでも、どんな時も『彼の手』である事に違いはないのに、やっぱりどれも表情が違っていた。
「…煙草は、匂いがつくからな」
「……匂い…?」
「ああ」
そう言った彼は、髪を見つめたままで再びすくってくれた。
………匂い…。
……?
確かに、煙草は服とかにも匂いがつくけれど……。
「…ひよりも何か飲むか?」
「え?あっ…うん。ココア…がいいな」
「分かった」
お湯が沸いた音で彼がキッチンへ向かい、その途中で一度私を振り返ってくれた。
……えへへ。
臣くんが入れてくれるココアは、甘くて温かくて……本当に美味しい。
寂しかった時とか、悲しい事があったりとかした時に飲むと、心まで穏やかになってくれる。
……私にとって、魔法の飲み物。
勿論、臣くんが作ってくれる物は、たとえどんな物でも美味しくて笑顔になるけれど。
「……いい匂い」
暫くして漂ってきた、コーヒーとココアの甘い香り。
…うん。
この香りが煙草に邪魔されてしまうのは、とっても勿体無いと思う。
……きっと、そう。
臣くんが言ったのは、そう言う意味なんだ。
「ほら」
「ありがとう、臣くん」
差し出された自分のマグカップを受け取ると、臣くんも少しだけ嬉しそうな顔を見せてくれた。

#1:カッコいいひと

「…それじゃ、授業を始める」
たった一言。
ただそれだけを凛とした響きのある低い声で告げると、教卓に教科書を広げた彼は顔を上げた。


『数学教師、片桐 政臣(かたぎり まさおみ)


彼は紛れもなく、私の姉の旦那様その人だ。


あれは、今から1年と少し前の事だった。
それまで6つ離れたお姉ちゃんと二人暮らしだった私は、突然引っ越すことになってしまった。
…その理由が、これ。


『ひより。私、結婚するから』


お姉ちゃんのあっさりかつ、淡々としたその言葉を聞いた時の事は、今でも覚えている。
音楽番組を見ながらソファで半分寝ていた所に、ビックリ何ていうものじゃない程の情報。
それで、眠気なんて当然冴えたし、何よりも――…頭はついていけなかった。
…えっと。
ギャグ?
そんな事を考えながらも、目の前のお姉ちゃんは普通に笑ってて。
『来月から彼のマンションに引っ越すから、荷物まとめなさいね』
なんて、何の問題もないような顔をして話を続けた。
……それまで、全く彼氏の『か』の字も無かったのに。
なのに、どうして急に結婚なんて事が決まったんだろう。
始めは、戸惑いながらも…でも確かに、嬉しかった。
大好きなお姉ちゃんの、大好きな人。
その人はどんな人なのかも分からなかったけれど、お姉ちゃんさえ幸せならいいと思ってた。
…たとえ、そこにどんな理由があっても。
結局、慌しい引越しがあったり、お姉ちゃんの仕事が忙しかったりで、結婚式は挙げなかった。
でも、彼の事を紹介された時、『ああ、この人が今日からお兄ちゃんになるんだ』って思ったのは、今でもはっきりと覚えてる。
カッコイイ人だと思った。
少しだけ冷たそうだったけれど……でも、実際はそんな事がなくて。
彼に姉妹が居ないと言う事もあってか、本当に彼は優しくしてくれた。
本当の妹みたいに可愛がってくれたし、お姉ちゃんとも……きっと上手く行っていたんだと思う。
そんな『?』が多くある結婚を二人がした日から、何となく『?』な姉夫婦との同居生活が始まった。


月野(つくの)
「はい?」
「45Pの問(3)」
「あ、はいっ」
友人とこっそり手紙の交換をしていたら、いきなり名前を呼ばれた。
…誰にって、勿論『片桐先生』に。
だけど、顔を上げても彼と目が合う事は無かった。
教科書に視線を落としたままで、彼はコンコンと黒板を叩いたから。
「…相変わらず、可愛い妹チャンにも愛想無いわね」
「ん?そう?」
頬杖をついたままで瞳を細めた彼女は、笠松(かさまつ)ユキ。
家が近所だった事もあって、ずっと小さい頃から一緒に育ってきた仲。
…だから、お姉ちゃんの結婚と同時に臣くんのマンションへ引っ越すって話をしたら、物凄く反対された。
それまで住んでいたアパートから、たった5分しか離れて無いんだけどね。
「ぴよは、慣れっ子だから分からないのよ」
「…そうかなぁ。臣くん、いつもそうだよ?」
「………あ、そう」
ユキにまばたきを見せながら首をかしげると、『相変わらずお兄ちゃんラブなんだから』なんて言われた。
…まぁ、あの……別に否定はしないけれどね?
私、臣くんの事好きだし。
……って、こんな事をしょっちゅう言ってるから、学校でも『ブラコン』とか言われるんだろうけれど。
でも、いいんだもん。
臣くんの事好きだもん。
皆は信じてくれないけど、とってもとっても優しいんだから。
炊事洗濯掃除はプロ並だし、おまけにとってもカッコイイ。
…本当に文句の付け所が無いのに。
だからこそ、『無愛想』とか『冷酷無比』なんて言葉を聞くたびに『違う』と声を大にして言いたくなる。
お弁当だって作ってくれるんだよ?
何の文句も言わずに。
…その事をユキに言ったら、物凄くオーバーなリアクションで驚いてたけど。
「…月野」
「あ」
「…………」
ユキに延々と臣くんの良さを話していたら、静かな教室内に、黒板の『コンコン』と言う音が響き渡った。
…指されたの、忘れてた…。
友人達から聞こえる『しっかりしなよー』とか『ぴよぴよー』なんて笑い声を聞きながら、慌ててノートを手に黒板へ向かう。
「す、すみませ――…っわ!?」
「ぴよっ!?」
椅子を引き、一歩――…踏み出した所で。
床に落ちていた、先程の手紙の切れ端を踏んだらしく、宙が見えた。
…………い…いたい…。
「…ちょっとー。大丈夫?」
「……ふぇ…」
ユキに手を貸して貰いながら立ち上がり、遠くまで滑っていったノートを手にする。
……とほほ。
今日は、寝坊したせいで臣くんの美味しい朝ご飯を食べれなかったし、本当についてない。
…もしかしたら、こんな調子で今日一日終わるのかな…。
――…なんて思った時。
「……あ」
「……………」
教卓に手をついて大きくため息をついた臣くんに、思わず苦笑が浮かんだ。


「…………」
「…ご…ごめんなさい」
所変わって、昼休みの職員室。
4限目の出来事を見逃してくれるほど、やっぱり臣くんは甘くなかった。


『学校では、「臣くん」と呼ばない』


それが、高校に入学した時約束した事。
まさか臣くんが高校の先生だなんて思わなかったから、入学式で姿を見つけた時は本当に驚いた。
一緒に暮らしていて分かる事だけど、本当に彼は真面目な人だと思う。
几帳面だし、綺麗好きだし、曲がった事も勿論嫌い。
だから、公私混同なんて許すはずが無くて。
家では優しい臣くんも、学校では『先生』の顔で、当然厳しかった。
…他の生徒と、同じように。
だから、家では『ひより』って呼んでくれる彼も、学校では私を苗字で呼んでいるし、私も約束通り『片桐先生』と呼ぶようにしていた。
「注意力が無さ過ぎる」
「…はい」
「いくら新学期が始まったばかりだからと言って、あんな態度は頂けない」
「……はい」
椅子に座ったままの臣くんに、立ったまま怒られる私。
…うぅ。
ごめんなさい。
本当に反省してます。
……だって、まさかあんな場所に手紙が落ちてるなんて思わなかったし…。
…って、いやいや。
そこは違うと思うんだけど。
「…それから」
「え?」


「授業中に手紙をやり取りするんじゃない」


「ふぇ!?」
ため息をついた彼が呟いた言葉に、思いっきり大きな声が出た。
「っ…す、すみませっ…」
慌てて両手で口を塞ぎ、眉を寄せながら頭を下げる。
だけど臣くんは表情を変えずに、ただただため息をつくだけだった。
「…教壇からは、誰が何してるかなんてすぐに分かるんだぞ」
「……そうなの?」
「………」
「あ。え、えっと…そうなんですか?」
上目遣いに彼を見ると、途端に瞳を細められた。
…うぅ。ごめんなさい。
そうですね。先生と生徒ですもんね。
「…………」
唇だけで『ごめんなさい』と言ってから、視線を足元に落とす。
…怒ってる。
絶対、臣くん怒ってるよぉ…。
それが分かるから、ちゃんと真っ直ぐ顔を見る事が出来なかった。
「……え…?」
「…他の先生に見つかったら、困るだろ?」
「…………うん」
「だから、俺が言っとく」
「………うん」
きゅっと手首を掴まれて彼を見ると、家で見せてくれるような優しい顔をしていた。
…だから、ついいつもと同じような返事が出てしまう。
……ほらね?
やっぱり、臣くんは優しい。
皆はこんな彼を知らないから、酷い事を一杯言えるんだ。
…でも――…
「…ひより?」
「……えへへ」
怒られてるのに何を笑ってる、なんて臣くんは怒るだろう。
でも、やっぱり嬉しい。
…だって――…こんな姿を知ってるの、この学校中どこを探しても私しか居ないんだから。
「…ちゃんとするね」
「そうだな」
「……今日は、本当にごめんなさい」
「分かればいい」
ぺこっと頭を改めて下げ、彼を真正面から見る。
……えへー。
やっぱり、臣くんの事は好き。
…大好き。
優しくて、大事にしてくれて。
……どこを探しても他には居ない、私の大切な人。
特別、って言ってもいいと思う。

Dear my master:目次