秀忠はなぜ「改名」しなかったのか? | B級投手の遅球日記

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県内で最もタマの遅い投手。でも全日本プレーヤー!(笑)

これ、ある歴史愛好家の方が「X」に投稿されてた疑問なんだけど、たしかにそのとおりだと僕もその方の慧眼に驚きました。

 

徳川秀忠は、なんで豊臣秀吉からもらった「秀」の字を、最後まで捨てなかったのだろう? 豊臣家を滅ぼし政権を簒奪したのだから、ふつう捨てるでしょ秀の字。

 

なのに、2代将軍秀忠は、生涯にわたって秀吉からもらった「秀忠」の名前を使いつづけた。

 

もしも彼が意図的に名前を変えなかったとするならば、考えられる理由はとりあえずは2つ…かな?

 

ひとつは、豊臣家は滅ぼしたものの、豊臣秀吉個人には恩義もしくは親しみをずっと感じていた可能性。まあ戦国時代はそんな甘い世界ではないと思うんだけど。

 

そして2つ目は、秀忠は「徳川政権」だけでなく、「豊臣政権」の正統の後継者でもあることをアピールしたかった可能性。僕は、こっちかなと思ってます。ご存知のように秀忠は豊臣秀頼の義父で、豊臣家の一門衆。秀吉や秀頼が逝去したあとの名誉的な「豊臣」の後継者に位置する資格は十分あるんですね。出来立てホヤホヤの徳川政権が豊臣政権を継続しているという「正統性」を、諸大名に納得させるための「改名拒否」だったのかなあと。

 

家康がドサクサまぎれにつくりあげて短期で崩壊する可能性もあった徳川政権を、みごとに「永続」させたのは、じつは秀忠だったんですね…