統合失調症と躁鬱。
精神疾患はそのほとんどがこの二つに分けられる。
パニック障害だ○○恐怖症だののなんだのあるが
それはあくまでもその統合失調症または躁鬱の症状が
現れた現象に過ぎない。
精神疾患の多くは脳のつくりによるいわば機能障がい以外は
ほぼこの二つに大別できる。
ではなぜその二つなのか?
多くの人がいるのに脳の病気、心の病気は二つしかないのは何故か?
実は人間の思考の癖は二つあるからだ。
それは
内か外かだ。
もう少しわかりやすくいえば主観か客観かということかも知れない。
色々な思考の癖があるが
人間はどこを大切にするかによってその精神疾患が変わる。
周りに躁鬱または統合失調症の人がいたら観察してみて欲しい。
面白いほどにその二つに思考がくっきり分けられてしまうのが見て取れるはずだ。
通常の人間は主観と客観の間をうろちょろするものだ。
自分が正しいと感じたり 自分が間違っていると感じたりを繰り返す。
ところが統合失調症の人の多くはほぼ自分という存在がない。
あくまでも正義や正しさは自分の外側にあって自分は無価値な存在だと感じている人が殆どだ。
彼らも自分自身の考え方が無いわけではない。
あるのだがそれを不思議にも自分の考え方だと処理しないのだ。
「神からの掲示」「宇宙人からの電波」このように感じるのが彼らの特徴だ。
対して躁鬱の人はどうか
そう彼らは自分の内側、自分自身の真理こそが世界だと感じている。
自分が見ることが全てであり、自分が感じることが皆感じていることだと考えている。
彼らが鬱症状にさいなまれるのはその内側の見方と外側の見方の間にギャップを感じたときが多い。
面白いのが彼らはその特徴がゆえにその専門分野とちゃんと出会えればとてつもないエネルギーと
才能が発揮される。
統合失調症は優秀な人間になりやすい。なぜなら外側が正しいと感じているのだから勉強家がとても多いということになる。
数学、天文学、物理学から情報の処理に至るまで現在の世界ではとても重要な存在になる潜在的能力が高い。
ルールがきっちりしていればそれを処理する能力は飛びぬけているということになる。
ただし外側に真理を求める彼らは宗教などにはまりやすい。
対して躁鬱の人はというと芸術的センスにぴか一だ。
内側と常に対面している彼らは外の事情などはほぼ気にしない。
そのため人間本来の真理に近づくことが容易だ。そのために彼らと芸術がマッチすれば
すばらしい作品を残すということになる。彼らは創造主であるために起業などにも向いているかも知れない。
ただし起業家には向いていても経営には向かないという可能性は多分に有る。
むしろ経営という立場で言えば統合失調症の人物のほうが向いている可能性がある。
世の中は極端に振れることは少ない。ということで
統合失調症よりの人も多くいるし躁鬱よりの人も多く世の中には存在する。
いわばスペクトラムなわけだ。まぁ当然だよね。
その中で多くの人はどこに位置するかというと
それは環境によって異なるが基本はその中間ということになる。
時に統合失調症よりになることもあるし時に躁鬱よりになることもあるということだ。
病名で語るのはあまり面白くないよね。
時に外側に真理をみいだし、ときに内側に真理をみいだす
これが通常の人の位置となる。
まとめるとこういうことだ。
真理が外にあるという思考の癖が強い人は優秀な人間になる傾向が強いが統合失調症になるリスクが高い。
対して真理が内にあるという思考癖が強い人は芸術家になる傾向が強いが躁鬱になりやすい。
外側も正しいし、内側も正しいとふらふらしている人間は凡人でしかないがそれが一番病的にならずにすむ。
ということは
傾向がわかれば実はその病気となるものの改善も容易なはずだ。
統合失調症の人は真理を内側から発せられたものだということを少しづつ癖付けさせればいい
対して躁鬱の人は鬱傾向にあったときに思考を外側に向けるように促せばいい。
難しいのが時間が掛かるという点は同じということになる。
脳も当然筋肉のように癖がつくとそれに自然とそれに戻ることがある。
ゴルフをやるときになかなか体の癖が抜けず困ったことはないだろうか?
それと同じである。
癖を直していくのが精神疾患にとって重要なことなので
ゴルフまたはスポーツトレーナーのような立ち居地でその相手と接しないといけないということになる。