人は時に人に期待します。
期待という文字には待つという字が含まれています。
そう待っているのです。
君に期待するぞというのは成功を待っている立場であり、自分が動く立場にないのです。
その相手が期待に答えられないと今度は苛立つわけです。
そうそれは待っているからなのです。
これだけ待ったのになんの成果も得られなかった。
だから腹が立つ。
ドタキャンのようなものです。
待ち合わせをして相手が突然の用事でこられなくなった。すると腹が立ちますね。人としては当然なのですが相手の事情はそこに考慮されているのでしょうか?果たして人に対して期待するという場合はどうなのでしょうか?
ドタキャンをされたときの感情のおとしどころはいくつもあります。
1.時間を守れない最低な奴
2.何か事故や事件に巻き込まれたのではないかという心配
3.電車が遅れたのではないかという要因
4.気分が変わったかな?
多くの日本人のチョイスは1ないしは2になるでしょう。
では3だった場合4だった場合はどうでしょうか?
そもそも待ち合わせ自体を細分化するとそこには色々な思惑があります。
待つ側は「自分の時間を割いて待っている」という意識があるに違いありません。
対して待たせる側は「行く行かないは状況による。いけない場合もある」ということになります。
確かに約束はした。しかしそれがなしえるかは個々の状況によるということなのです。
期待というのは待つという文字から我慢が伴うことが想像できます。
そこから自分の自由を阻害されるという意味に近いことにつながるでしょう。
ここで考えてもらいたいのです。
あなたが待つのは義務なのでしょうか?1なら言わずもがな3だった場合4だった場合あなたがそこにいる理由はどこにもないのです。
そうそもそも人を待つという行為自体が実は自分の甘えなのではないでしょうか?
相手がそこにくるかどうかは相手の判断なのです。くることを前提にするということ自体がおかしいと判断すべきなのです。そうあなたが相手がくるまで待てないほどだったら今度はあなたが自由を行使すべきなのです。
中には5分しか待てない人もいるでしょう。中には1時間待っても苦ではない人もいます。
その差がなぜできるかは問題ではないのです。待てなくなったら自分から行動すべきなのです。
あいつはいつまで待ってもなにもなしえないではなくなにもなしえていないのはあなたのほうなのです。待っているくらいならあなたが行動してください!
人に期待するという言葉を投げかけるときその真意は期待ではなく甘えだと考えるべきです。期待しないというのではないのです。人はそこにいるというだけで期待に答えているんだと考えてください。なしえる、せいこうせることだけが期待に答えることではない。誰かに何かをなしえてもらうのは期待ではなく甘えなのです。そのときはその努力に見合う対価を払う必要があるということを忘れてはいけません。
そうあなたの甘えという期待に答えてもらった場合はそれはサービスの提供を受けたということになり対価が発生するのです。
あなたの期待を誰かが答えたならあなたは少なくともその相手にその努力を報いてもらった分の金額を払うべきなのです。