今日は3.11東日本大震災発生から15年の月日。
発生時の14:46に📺️の中継と伴に黙祷をして、あの当時の事を色々思い出してみました。
SNSなどでもポロッと言った事あるのですが、私は当時、青森県にある米軍三沢基地に勤めていて、その日は確か金曜日の午後。ランチ済ませて最も苦手な米兵上司の監視とアシスト的な入力処理(細かい部署や職種はプライベート無コトなので言わない)を、午後の睡魔と闘いながらコクリコクリとしかけた時だったんですね。ちょっと、その当時は素行がはじけてた面もあり、フライデーナイトな訳ですから、米軍基地側にあるクラブのイベントの事とか、飲みに行くことばかり考えていて、アフターファイブの時間まで、どうこの時間と闘おうか!なんという今では考えられない、うだつの上がらないダラダラな者だったんです😓
そして地震発生、、、まぁまぁ日本に来て地震には慣れている米兵の上司や同僚達も、只事ではない!という感じになり。そして停電、情報が全てシャットアウトされ(間もなく基地内は自家発電で一部復旧したが)日本人職員の方でワンセグ携帯を持っている方がいたのでテレビを観たら大津波警報と凄まじい光景。自衛隊側は非常事態せいで偵察の戦闘機がスクランブル発信、そして救難ヘリなどがまたたく間に発信して、米軍側も全軍全総員非常事態呼集がかかり、あの時から全てが平時から非常時という生活が始まりました。
三沢市や三沢基地自体は、地震や津波などの直接の被害はほぼありませんでしたが(それでも沿岸地域も津波の影響あり2名の死者の方が出ていたはず)三沢市から南下していく沿岸地域にかけて被害がどんどん酷くなっている状況で、三沢基地が米軍はじめ、世界各国からの救難隊の前線基地となりました。
私は米軍基地職員として、その後、隣の八戸市の復興作業を担当した米海軍に随行して、同じく復興作業に取り組みました。私たちは瓦礫や施設の撤去作業など、後方支援的な作業が主な訳ですが、自衛隊の方々は、救難を任務として行っている訳で、言葉にあらわせれない抱えながら、、という事、物凄く感じとった思い出があります。
作業活動で見た八戸港の光景、津波の影響で、あの大きいイカ釣り漁船がビルの上に乗っかってたり、なんか、これって神様のイタズラか?となんとも言えない悔しい気持ちになりました。一緒に行動していた米海軍部隊のチームの一人は、こんな事を。オレは戦地にまだ行ったことないけど、戦場の後より酷いよな、だって人災じゃないよ、誰のせいでもないわけじゃん、、と。その言葉と彼の顔が今でも覚えています。

今は何かの縁なのか、その当時の三沢基地とは全く真逆の南西地に来ているわけで、、そして南海トラフ地震と未曾有の危機を伴うであろう津波が予測される地域にいる、この穏やかな海も、何時何時姿を変えるか。先の教訓を必ずや活かすように、残された私達の使命。
死者、行方不明者併せて2万人以上。改めて心から御冥福をお祈り致します。
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