「こころ」読んだことある?

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夏目漱石の長編小説は全部、短編も文庫で読めるものは大体読んでます。
最初に読んだのは「坊っちゃん」で、その次が「こころ」でした。高校1年くらいのころです。
最初の感想は「なんだこれ?」です。とにかく変わった小説だと思いました。大学に入った頃から漱石の他の小説も読みました。「彼岸過迄」とか「坑夫」もかなり変わった小説ですけど、「こころ」は飛び抜けて変わってますね。

 

まず、構成が変わってますよね。漱石の他の小説は時間順の記述ですけど、「こころ」は後半の「先生の遺書」で昔に戻る。登場人物が書いた文章という形で物語が語られるというのも、他の漱石の小説にはなかったと思います。そして「先生の遺書」の分量の多さ、全体の半分以上になってます。主人公は「私」なんですけど、主人公が出てこない物語が延々と続くという変な構成です。でも「先生の遺書」は主人公に語りかけていると考えると、ここでも主人公は「私」であるとも考えられます。そしていつの間にか「先生の遺書」を読む「私」と「こころ」を読む私が重なってくる。漱石はそこまで考えて、あのような構成にしたのでしょうか? これは今でもわからない。

 

それにしても「先生の遺書」があれだけ長いのは、最初から考えていたのか、それとも書いていくうちに想定外に長くなってしまったのか、それも謎です。私は後者だと思っています。ただの勘で、根拠はないですけど。村上春樹の「ノルウェーの森」を読んだ時、「こんなに長くするつもりじゃなかったのに、長くなっちゃった」という印象を受けたのですが、作者本人がエッセイで、私が感じたように、書いてるうちに想定よりかなり長くなってしまったと書いてました。「先生の遺書」を読んでいた時にも、私は同じ印象を受けたんです。まあ、ただの勘です。

 

「先生の遺書」に登場する人物たちの会話の少なさ、コミュニケーションの乏しさも気になります。漱石の他の小説の登場人物たちはもっと多弁な印象がありますが、ここでは「先生」の一人語りばかりで人物間の会話が極端に少ないんです。特に後に妻になる下宿先の娘は不気味なくらい寡黙。まるで漱石は、自分以外の別人格の書き手である「先生」を創作して、その人格が憑依して書いたみたいです。

 

一番の謎はもちろん「先生」が死ぬ理由です。10年以上前の友人の死で、何でこのタイミングで死のうとするのか。「明治の精神」云々にしてもよくわからない、そしてそれが理由とは到底考えられない。
私は、「先生」が命を絶とうと考えたのは、主人公の「私」と出会ったからだと思います。かつての自分と似たような青年と出会い、今まで一人で抱えていた過去を託す相手が見つかったので告白しようと考えたのではないかと。「先生」にとっては告白することが目的で、でも「私」に自分の過去を告白する理由が必要で、遺書という形にしようとしたのだと。つまり自分の過去を告白するための理由付けとして自殺が必要だったのではないか、私はそう考えます。遺書を書くために自殺するなんて現実にはあり得ませんが、小説はフィクションですから。「虞美人草」ラストのヒロインの死とか唐突な展開は他の小説でもあるし。ストーリーの必然というより、漱石がこの物語を書くには語り手の死が必要だったのではないでしょうか? 私はそう考えます。

 

私の言ってること変ですかね?まあ解釈は人それぞれってことで。

 

とにかく「こころ」は変わった小説ですけど、それだけに今でも私の中に、おそらく一生消えない読書体験として存在しています。